夕方になってしまった。
秋分を過ぎれば、夕焼けが闇に呑まれるのはあっという間の出来事だ。

今日は朝からいつも通り学校へ行った。
昨夜までのごたごたの影響で、並中の所々はボロボロだったはずなのに、登校したらまるでそんなことはなかったかのように校舎は綺麗なままだった。
俺がこれから迎えなければいけない戦いも、夢か嘘だったらいいのに、なんて心の底では思う。
けれど、実際の処校舎は幻覚で補われているだけだし、登校してきた山本や獄寺君には傷があった。全部が全部、現実なのだ。

すぐに学校から帰ろうと思ったけれど、色々あって少し学校を出るのが遅れてしまった。
山本や獄寺君は先に帰っていた。
俺も、日が傾くのを感じながら静まり返った学校の廊下を少し走る。
西日は赤く、東の空は既に群青がかっていて、太陽が地平線に沈むのももう間もなくだ。

(早く帰って準備しないと…!)

走りながらそんなことを考えていた時だった。
2年生の教室群を通り過ぎ、廊下の角を曲がろうとして、思いっきり人にぶつかった。

ごちん!!

「いってぇ…!」「……っ」

俺は額からいい音がして、ついその場に蹲る。
そして、ぶつかった相手もまた、言葉なく廊下に蹲っていた。
相手の気配を察して、は、と顔を上げれば、そこには額を抑えたまま顔を伏せてしゃがみこむ女子生徒の姿。

「げ、ご、ごめんなさい!」

痛むのだろうか、額どころか顔を覆ってしゃがみ込む女子生徒。
言葉は無く、唯一その気配を伺えるのは彼女の両手からはみ出た耳の端。
その耳はあまりにも真っ赤で震えていて、彼女が悶絶しているのは間違いなかった。

「うわ、大丈夫!?ちょっと、顔見せて!!」
「…あ、いや…!」

もしかして血でも出てるんじゃないだろうか。
ごめんね、と言って顔を覆う掌をそっと取り払う。
そこにあったのは、真っ赤になって困惑した表情と、ぷくりと腫れた額のこぶ。
潤んだ瞳が忙しなく左右に動き、最後は観念したかのように視線は地に落ちた。

「腫れてるじゃん!」
「だ、大丈夫です」
「俺のことよりも、なんか冷やすもの……そうだ、保健室行こう!」

どうせシャマルはいないだろうけれど、きっと冷却シートくらいあるだろう。
へたり込んでいた彼女の手を取って引っ張り上げる。

「ホントごめんね。俺2年の沢田。君は?」
「……3年A組の、ミョウジです。」
「えっ!?うわぁ先輩だった!す、すみません!!俺、てっきり同級生かと思って…!」

俺がわたわたとすれば、彼女はそれまでの苦悶の表情から一転、くすりと笑う。

「いいんです。……こちらこそ、ぼうっとしてました。ごめんなさい。」


そこで、ようやっと俺は彼女と面と向かった。
住宅街に溶けていく西日が、その最後の光で彼女の肌や瞳を赤く染めていた。
とても、きれいなひと。
視線が絡み合って、俺がなんとなく視線を外した瞬間だった。
彼女は困ったように笑って、「私、自分で保健室行けるから大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」と地面に落ちっぱなしだった鞄を拾って踵を返してしまう。
それはあまりにもあっさりとした物言いで、俺は何故か慌ててしまった。

「ま、待って」
「…?」
「いや、その……心配だから、俺も一緒に行きます」

別段、人の手当てが出来るようなスキルもないけれど、妙に離れ難くて、俺は無理矢理彼女の横に並んだ。
その瞬間、彼女は慌てたように「あ、でも用事ありますよね…?」とぱたぱた手を振った。
それはその通りなのだが、(そしてなぜ彼女がそれを知ってるのかもよく解らないが、)そんなことはどうでも良かった。

「大丈夫。まだ、時間ありますから。」

だから、ほら。
自分でも不思議なほどするりと伸びた手は、彼女の手首を掴んで、強引に彼女を引っ張っていく。
京子ちゃんの手なんて、どんなに触れたくなくても永遠に触れられない。
けれど、それはとても自然な出来事だった。
驚いたらしいミョウジ先輩は、目を真ん丸に開いて、なすすべもなく俺に引っ張られるのみ。


先輩、大丈夫。
なんでこんなことしてるのかって、俺の方が驚いてます。

そうして俺は彼女を保健室へと連れて行った。





「ああ、あったあった」
案の定、鍵もかかっていなければ主も不在の保健室。
沢田綱吉は目的の冷却シートを見つけ出すことに成功した。
ご丁寧に冷蔵庫に入っていた冷却シートを箱から取り出しながら、所在なさげなようすで椅子に腰かける彼女の元へ向かう。

「これ、絶対冷たいよなぁ」
「ですよねぇ………」
「まあ、我慢してくださいね」

数日間、戦いと修行に明け暮れていた綱吉にとって、全く関係のない人との、なんともないやり取りは非常に新鮮だった。
ただでさえ冷たい冷却シートが冷蔵庫で冷えているという状況は、貼る者にとってはなんともない出来事だが、貼られる者にとっては一瞬とはいえ恐怖が待ち構えている。

冷却シートを手にした自分を見る彼女は、割と絶望に満ちた顔をしているではないか。

まるで注射を嫌がるランボのような姿についつい笑いが漏れてしまう。
すると、むう、と彼女は怒りと恥ずかしさが混じったような顔で綱吉を睨み上げてきて、さらに笑みが零れてしまった。


それはどこまでも平和なやり取りだった。
昨日の戦いのことはよくよく覚えている。
鉄の塊にめりこむ拳や、地を蹴って飛び上がった感覚。
9代目との記憶。
あたたかい光。手指。
それらのことを忘れた訳ではない。
それどころか、これから始まる最後の戦いのことを思うと、胸の奥がジワリと痛む。



「…じゃあ、前髪あげてもらっていいですか?」
「……」

胸の痛みのことは一旦置いておいて、ぺらりと冷えっ冷えの冷却シートをとりだして綱吉が一歩前へ出る。
すると彼女は前髪を上げながら少し腫れあがったおでこを差し出した。
ゆっくり、出来るだけ刺激を与えないようにして、少しずつ冷却シートを貼っていく。

「〜〜〜〜〜っ!!!」

閉じられた瞼と睫が、ふるりと震えた。
真一文字に引き締められていた唇から、ふわりと吐息が漏れる。
そしてビリビリと痺れたような表情で、悶絶。

「…大丈夫ですか?」
「つ、めた……!」

冷却シートが与える恐怖は爽快感に変わったようで、彼女は涙目でこたえる。
かき氷食べて頭が痛い、みたいな庶民的すぎるリアクションに、ついつい綱吉の口から「ぷ」と笑いが漏れてしまった。

「わ、笑わないでください」
「あ、すみませ…!」

この一瞬はなんとも呑気なものだった。
ぶすりと膨れた年上の彼女は、ちょいちょいと張られた冷却シートをつつきながら拗ねたような顔を見せる。
瞬間的にでも戦いのことを忘れた綱吉はなんだか可愛い人だなぁとつい頬を緩めてしまう。

薄暗い室内で、冷たさのためか彼女の瞳は涙で潤み、闇の中できらりと光る。

そう、辺りは暗かった。

仄暗さが漂う室内で、綱吉はふと我に返る。

(え、今何時だ?)

保健室の壁掛け時計を見れば、とっくの昔に下校時刻は過ぎていた。
リボーンに知られれば何やってるんだ、と蹴り飛ばされること請け合いである。
さっさと帰って今夜の準備をするはずだったのに、よく知らない女子生徒にぶつかって、その手当てをしていただなんて。

(うわぁヤバい!帰らないと)

むしろ、彼女も早く帰らなければ下手したら戦闘に巻き込まれてしまうのではないか。
そう思い至って、さあ、と綱吉の顔が青くなる。

「あの、俺が連れてきといてなんですけど、手当て終わったし帰りましょう!」
「え?あ、そうですね…」
「あ、危ないから早く…!」

危ないって、何が?という彼女の問いに、きっぱりと「この学校に暗殺集団がやってくるんです!」なんて言えるはずもない。
はっと口許を覆った綱吉のことなど気にすることもなく、彼女は荷物を持ち準備を整える。

(その場にいたからって関係ない人も巻き込まれたら…)

ヴァリアーは目撃者など見つけたらすべて排除しようとするだろう。
もたもたしていて彼女が殺されてしまうなど、絶対に避けたかった。
綱吉は彼女に急ぐよう促し、二人は荷物を持って保健室を後にする。

やがて、玄関で靴を履き替えた二人は校門の外で別れることになった。
綱吉は右へ、彼女は左へ。
じゃあ、と綱吉が一歩を踏み出した時だった。

「あ、綱吉君」


背後から声をかけられて、綱吉は振り返る。
彼女はハッとしたように目線を泳がせて、ややしばらくしてこう述べた。

「あの、……気を付けて」
「・・・・?ありがとうございます。先輩も帰り気を付けて」

そう言えば、彼女はひらりと片手を振ってくれた。
綱吉も振り返して、改めて踵を返し、家路についた。


綱吉は帰り道を急ぎながら考える。
普段、女子生徒と話す機会なんてそんなにない。
だから、笹川京子といる時の自分はまるでその温かさについつい舞い上がってしまう。
でも、あの人といても別に舞い上がるような気持ちは湧き起らなかった。
むしろ、まるでずっと前から知り合いだったかのような、気の置けない態度で接することが出来た。
なんだかかわいいなと思うし、妙に強気な態度で、彼女を引き止めるような真似をしてしまった。

(嫌がられなくてよかった…)

自分でもどうしてあんなに強気だったのかは解らない。
これはとるに足らない、小さな出会いだったけれど、この戦いを無事に終えたら彼女にまた会いに行ってみようかな。
そうして、彼女の額の腫れがどうなったのか、確認してみよう。


ふと、彼女の最後の言葉を思い出す。

『綱吉君……あの、気を付けて。』

何かを心配しているような、そんな物言い。
彼女は何も知らないはずなのに、まるでこれから始まる戦いについて、自分の身を案じてくれているようだった。

そこで綱吉は気が付いた。

「……あれ?俺、下の名前言ったっけ?」

足を止めて、そう呟いた時だった。

ごす!!という鈍い音と衝撃と共に、綱吉は地面にめりこんだ。
後頭部に走る強烈な衝撃と痛みに、声など聴かなくても、誰がやったのかすぐに解る。
伏せっていた地面から、顔面を抑えつつ綱吉はのろのろと起き上がった。
「い、痛ってぇ〜…」
そう、こんなことが日常茶飯事なのだ。
あの女子生徒のようにただぶつかっただけで怪我など負ってはいられない。

「おせーぞツナ。こんな時間まで何やってたんだ」

案の定ご立腹の声の主は、ピリピリとした様子を隠さずに闇の中に佇んでいた。

「帰ってさっさと支度するぞ」
「わかってるよ」

鞄を拾い、再び家路を急ぐ綱吉の頭からは、だんだんとあの彼女のことは消えていった。








「はじめて喋っちゃった……」

彼の背を見送り、彼女はひらりと振っていた手をぱたりと降ろす。

3年A組のミョウジナマエは、沢田綱吉をずうっと見ていた。
理由はまあ色々あるが、ここでは割愛しよう。
ただ一つ言えるのは、彼女はこれまで傍観者でしかなかったということだ。

沢田綱吉という人は、まるで舞台の主人公のようだと彼女は思っていた。
最初は友達もおらず虐められていた彼が、今や友達の輪に囲まれ、笑い合い、時には戦いに赴いて、友や仲間を守る。
こんなに胸を熱くさせられた人はいなかった。
傍観者と言う立場ながら、彼女の心はすっかり彼に捕らわれていた。
そんな折だった。
高みの見物をしていた傍観者は急転直下、舞台の上にたたきつけられることになる。

『ホントごめん。俺2年の沢田です。君は?』
『……3年A組の、ミョウジです。』
『えっ!?うわぁ先輩だった!す、すみません!!俺、てっきり同級生かと思って…!』

痛みなど関係なく、最初は顔を上げられなかった。
モブの自分が突然主人公の前に放り出されて、どうしてよいかなど解らない。
だが、彼は突然舞台上に上がる羽目になった大根役者の彼女に、手を差し伸べてくれた。

彼女は立たされた舞台の上で必死に演じた。
ずっと見てきた彼と喋るのは、大層緊張した。
年上なのにうまく喋ることも出来なかったし、可愛らしい顔のひとつも出来なかった。
けれど、それはまるで秋の午後の、やわらかい日差しがさしたようなひとときだった。
透きとおっていて、包み込むような、やさしい時間。
まるで自分も彼が立つ舞台の出演者になったようだった。

まさか同じことを沢田綱吉も考えていたとは、露ほども思わない彼女は、彼が消えていった通学路をただただぽかんと見つめていた。



長年彼を見つめてきた彼女は、色々と経緯を知っていた。
故に、今夜これから起こることも知っている。
綱吉が何に挑み、戦おうとしているのかもおおよそ理解している。

だから、ここぞとばかりに言えて良かった。
「気を付けて」と。

(傍観者だって、主人公に感情移入くらい……してもいいよね)

彼女はそう思いながら、誰もいなくなったであろう並盛中の校舎を見上げる。


数時間後、生き残るのは一体誰なのか。
願わくば、彼女が見守ってきた、あのひとが生き残ってくれればいい。
そうしたら、今度は何食わぬ顔で「おはよう」と彼に声をかけてみようと思う。
今度は傍観者ではなく、舞台に上がる演者の一人として。


「だから、綱吉君、生き抜いて」





戦いまであと数時間。

秋の夜は、更けて行く。
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