数学の宿題をしていない、と気がついたのはその日の4時間目が終わった頃だった。


5時限目の数学、教科書の68ページ、大問の3。
前回の授業内で解説を受けた部分だがいまいち理解できず、なんだかんだと放置してしまっていた。
まずい、と顔が血の気を失ってゆく。
数学の担当教師は生徒指導担当で、表情の無さと仏頂面がどうにも恐ろしく、ナマエの苦手なタイプの男性である。
苦手な教員の前に進み出て、"宿題を忘れてしまいました"と申告できるほど彼女は気丈ではない。
昼休みの間に大急ぎで宿題を仕上げてしまわなければならないかと思うと、それでも5時限目までに間に合うかどうか分からないことを思うと、小さな心臓が小刻みに震えはじめる。
しかし、学級委員である彼女は宿題を忘れていようがいまいが、授業が終われば号令をかけるという義務に縛られていた。
一日に必ず、最低でも6度はその言葉を吐き出す決まり。
起立、礼。
決まりに則って形式的な号令を掛けるが、そのか細い声に従う者は誰一人として存在しない。
そもそも、黒曜中には授業中だろうが休み時間であろうがお構いなしの生徒しか在籍していないのだ。
気の弱い学級委員の号令に服従する者など、いるはずがない。
その点に関してはもはや教師も諦めてしまっているのか、4時限目を受け持っていた教師は手早く教具をまとめ、かしましく騒ぎ上げる教室内に一瞥をくれることもなくクラスを見捨てて去って行った。



あ、
足早に廊下を進んで行く教師の後ろ姿を窓越しに見つめて、小さく声を上げる。
先ほどの教師は、数学の教員に比べていくぶんは取っつき易い。
担当は理科であるが、同じ理系。
中学2年生程度の数学ならば運よく教授を請うことができるかもしれない─、という淡い期待は一瞬にして泡と消えてしまった。
ゴム製の室内履きは、教員の足音すらもすっかり昼休みの熱気の中に隠してしまう。
完全にその姿が見えなくなって、ナマエはどんよりとため息を吐き出した。


「ナマエ、」

気分を落としながらごそごそと数学の教科書を机からひっぱり出していると、線の細い少女が歩み寄って来る。
その可憐なソプラノが紡ぐ自身の名に、彼女はふいと顔をあげた。

「あ クローム 」

クローム髑髏─、ナマエの唯一の友人と言える存在、である。
まるで夜空に塗り潰されたような藍色の柔らかな髪に、日に照らされたことがないのではないかと感じるほどに色の白い、華奢な少女。
言葉はいつもそっけないものの、その愛らしい澄んだ声音のおかげで話し振りはそう冷たい印象にはならない。
どこか浮き世離れした空気を常に纏っており、まさしく"不思議ちゃん"という言葉が綺麗に当てはまるとナマエは常々感じていた。
そんな彼女は間違いなく彼女の唯一の友人であり、そして登下校も昼休憩も教室移動をも共にする唯一の存在であった。


「お昼、食べませんか?」


クロームは、右手にコンビニ袋を提げていた。
中身はいつも通り軽そうで、おそらくはまたチョコレート。
コンビニで売っている100円ほどの板チョコであろうと推測できた。
時にはパンやサラダのようなものを持っている時もあるが、本人いわく「おにぎりは食べ慣れていないから口に合わない、パンは美味しくない、サラダは具が貧相」だと言って敬遠している。
おかげでだいたい毎日チョコレートしか食べていないのであるが、それではただでさえ細い身体がさらにやせ細るのではないかとナマエは心配でならなかった。


「ごめん、わたし数学の宿題ができてなくて……お弁当食べる時間もなさそう……」
「まったく、仕方のない子ですねえ……仕方がない、教えてあげましょう」
「えっ、ほんと?」


思いも寄らない彼女の言葉に、ナマエの瞳がきらきらと期待に瞬く。
クロームは高い学力を有している。
宿題は常にきっちりとこなしているし、夏休み明けの実力テストはほとんど全教科満点だった。
唯一国語だけは苦手なのか、文法と漢字で10点ほど失点したようだがそうであったとしても十分にすごいと言って差し支えない。
その彼女が宿題の解説をしてくれる─、
これならば、弁当を食べることさえ我慢すれば何とか間に合うのではないか。
そんな希望が少しずつ大きく、確かなものになってゆく。
そうと決まれば、とナマエは机のカバン掛けに提げていたピンク色のお弁当バッグを取り出し、一もニもなく彼女に差し出した。



「ありがとう!わたしは宿題で食べる暇ないし、残しちゃうと勿体ないから……よかったらお弁当食べてくれない?」
「いいのですか?」
「うん!お口に合うか分からないけど……好きなものだけでもいいから、食べてくれたら嬉しい。」


言うと、クロームはカバンを受け取り、流れるように隣の席に腰掛けて弁当箱を開けた。
むわり、と弁当特有の複雑におかずが入り混じった匂いが教室に放たれる。
この食べ物の匂いをクロームは好まないと言っていたが、今はそんなことよりも弁当箱の中身に気が惹かれているらしく、じっくりとピンク色のプラスチック容器をゆっくりと観察している。
カバンと同じくピンク色の弁当箱は、クロームの慇懃無礼な話し方や仕種にはあまり似合わない。
彼女をけなしめる意図は無かったものの、こっそりとナマエは吹き出した。
しかしクローム本人はさして気に留めていないらしく、開かれた弁当の中身をしげしげと物色している。
そして一通りの観察が済んだのか、彼女が箸をつけたのは甘く煮付けられた花形の人参だった。


「何を見ているのです、君はさっさと宿題をなさい。」
「あっ、うん。ごめん。」
「謝罪は結構。教科書とノートを出しなさい。」
「うん、お願いします。」



それからというもの、宿題はおそるべきスピードで片付けられていった。
クロームの教え方がびっくりするほどに分かりやすく、ナマエは何度も目を見開いた。
学校のどの教員よりも丁寧で、的確。
弁当をつまみながらであるのに、それを感じさせない程に彼女がノートに記してゆく途中式まで見てくれている。
やっぱりクロームはすごいな、
正直な気持ちが身体の奥底から湧き出して来る。
きっと、クロームはあと1年半ほどで自分などでは到底追いつくことの出来ない高校に進み、手も届かないような場所に行ってしまうのだろう。
自分と友達だったことも、高校に入ったら忘れてしまうだろうか。
ふいにそんなことを考えると、ノートの端に意味もなくぐちゃぐちゃとシャープペンシルを走らせたいような焦燥に駆られる。
しかし、当のクロームは隣の席でむしゃむしゃと弁当を貪り、"お疲れ様でした"と微笑むばかりであった。



「ありがとね、クロームはやっぱりすごいなあ。」
「別に、そうまで称賛される程ではありませんよ。君も成績はそこそこいい方でしょう。」
「うん……でもほら、周りがあんな感じだし……」



小声で言って、周囲を見渡す。
白昼堂々と良からぬことをしでかす輩は、相も変わらず教室内を落書きとゴミで満たす作業に勤しんでいる。
教室の窓は今日も2〜3枚は割れているし、壁はスプレーのようなもので汚れていた。
少し前までは生徒会長が一人で清掃活動に勤しんでいたが、気がつけば彼も学校に来なくなったらしく、大怪我をして入院中だとか死んだとか、穏やかでない噂が流れている。
おまけに転校してきた大悪党のような三人組は気がつけば姿を消し、そしてまた気がつけば城島犬と柿本千種だけが学校に戻ってきた。
ボスの六道骸が今、どこで何をしているのかは分からない。
それこそ、死んだとか少年院だとか人を殺して逃亡中だとか、穏やかでない。



「ほら……生徒会長の日辻先輩とか、3年の六道先輩とか、いつの間にか姿消しちゃうような学校だし……わたしみたいに目立たず普通にしてれば自動的に成績は出るよ。」
「ほう、なるほど。六道骸がどこにいるのか、君は知らないのですね。」
「知ってるわけないよ……話したこともないし……わたしなんて数学の宿題やってないだけで震え上がってる人間だよ?あんな怖い人に近寄れない。」
「……確かに、数学の宿題ができていないくらいで涙目で号令をかける娘には、少しハードルの高い人間でしょうかね。」
「な、泣いてないよ!わたし泣いてない!」
「嘘をおっしゃい、号令の声がいつも以上に震えていましたよ。」


細い足を優雅に組んで、フンと鼻を鳴らすクロームにもう一度泣いてない!と騒ぎ立てれば、彼女は面白そうに何かを彼女の唇に押し付けた。
冷たい、四角形の欠片。
それがチョコレートだと理解が及んだのは、唇を割って明るいブラウンの欠片が咥内に押し入ってからだった。
舌の上でとろけるカカオの苦みと、頬を緩ませるミルクの風味。
とろりと口の中を甘く侵してゆくそれに、ナマエは驚きつつもぺろりとそれを胃袋に押し込んだ。


「美味しい。」
「弁当をもらいましたから、お礼です。あの弁当のおかげでいくぶんやる気が出た。」
「やる気?午後の授業の?」


のんびりと聞き返すと、クロームはにたりと凶悪な笑みを浮かべた。
まるで華奢で愛らしい顔つきにはそぐわない、いかにも悪人という笑み。
クローム髑髏という少女の表情筋からこんなおぞましい顔つきを再現することが可能なのか、と疑問を抱かずにはいられない表情。
先ほどまでの穏やかなやり取りをすっかり忘れてしまったかのように歪む口角。
それにやや畏怖を感じながら、ナマエはやる気の矛先が午後の授業などという真っ当なものではないのだと理解した。
そしてそれはきっと、教室で暴れ回る不良達以上にタチの悪いものであるだろう、と。
確信はないものの、自分の直感と彼女の表情がそう告げていた。


「あの、あんまり聞かない方がいい話?」
「さすが、賢い娘ですね。深入りは禁物、ですよ。」


彼女はにこりと微笑んだが、瞳の奥が笑っていなかった。
それはまるで、長らく血を浴びていない殺人鬼を彷彿とさせる、狂喜に満ちた笑み。
久方振りに獲物をなぶることを許された魔物のような残忍さが瞳の奥でちらりと顔を覗かせる。
クローム髑髏がこういう表情を見せるのは、初めてではない。
時に、彼女はいかにも"悪巧みをしています"という表情で笑っているし、不良同士のケンカなどを見かけるとさも混ざりたそうにうずうずと瞳孔を開いていることが多々ある。
もしかしたら彼女もどちらかというとスプレー片手に壁という壁を汚して回りたい人種なのかもしれない、とは薄々感じていたが、この意味ありげな表情を目の当たりにして、ナマエは自身の推測が大きく外れてることを実感した。
クローム髑髏の本質はありふれたチンピラではない。
それはきっと、もっともっとおぞましい─、
例えるなら社会の裏側で破壊工作を続けているような、深夜の体育館で無邪気に殺し合いをしてしまうような。
そんな何かだと思った。



「今夜を境に、君と僕の関係は大きく変わるかもしれません。」
「どういう、こと?」
「もしかすると─、今宵の勝利をキッカケとして、僕はこの窮屈な檻を出ることができるかもしれない。そして君は、クローム髑髏という友人を失うことになるかもしれない。」
「……ちょっと、ちょっと待って、何を言ってるのかさっぱり─」
「明日になれば、きっと僕はここにはいないでしょう。君の知るクローム髑髏は僕とは性格も仕種も、何もかもを入れ替えた新しい人物として現れる。」
「………」


彼女の吐き出す言葉はどれも虚飾に満ちていて、その真意は霧の奥に隠れてしまったかのように掴めない。
けれどもそれはどうも嘘ではないと、敏感な直感は告げていた。
クロームはおかしな嘘はいくらでも口にするが、意味のない嘘だけは決してつかないのだと彼女は知っていた。


「君は数学の宿題や消えた上級生や受験のことにでも頭を悩ませていればいい。」


クロームの声がゆっくりと鼓膜を揺する。
普段よりもいくぶん低いそれは、もはやクローム髑髏という少女の声とは違っていたように思えた。
ゆるりと冷たい少女の手がナマエの頬をゆっくりと撫でる。
その手の感触に込められていたのは友愛でなく、そして親愛でもない。
彼女の愛らしい唇が近づく。
しかしそれは、少女らしい仕種を一切として伴わず、まるで欲望に素直な青年のような呼気を含んで。


「今夜の勝利は君に捧げましょうか。無事に宿題を終わらせたご褒美として、ね。」


数式の刻まれたノートがぱたりと床に落ちる。
それを優雅に拾い上げて、彼は耳元でクフフ、と奇妙な笑声を漏らした。



「僕は狙った獲物は決して逃がさない。君がのろのろと数式を解いている間にでも─、」


キーンコーン、
カーンコーン、

5時限目を告げる鐘が鈍く鳴らされる。
鐘と同時にガラリと開かれた扉の先には、苦手な数学教員。
それでも、クラスメイト達は席に着くどころかめいめいに落書きやおしゃべりやボール遊びや、はたまたケンカに耽るばかり。
教員の怒号とチャイムの音がぐわんぐわんと頭の中で鳴っている。
ごちゃごちゃとした教室内で、一人ベルの音に紛れて自席へ戻ってゆくクロームではない何物かの後ろ姿を見つめながら、彼女は思った。
"今夜、彼は必ず勝つだろう"と。

(Surely win/六道骸)
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