此処は地獄への入り口か否か。黴臭く他の生き物すら生存不可能のこの場所にて、同じく埃を被ったベッドは、布は、既に元が白色であったことを忘れているようだった。雨風は確かにしのげる場所であったのだがそれ以外人間が人間として生きる場所とは到底思えないところ。家を喪った人間ですら此処に数日たりとも居住し続けたいとは思えないような腐臭。此処はあまりにも、死に満ち溢れている。
 かつて此処には笑みが溢れ返っていた。織りなされる会話は決して普通一般の家族の会話ではなかったし、また此処に住まう者も血族ではなかった。言語はイタリア語であったが時折日本語も混ざり、暗号とも言えるものも入り混じっており聞き耳を立てたところで何を話しているか理解できる者は居なかっただろう。その中で、一際目立つ少女の声はいつも軽やかだった。何を話しても笑い声が付随し、時折たしなめるかのようにまだ若い少年の声がそれを戒める。更にそれを許してやれと優しい声で包むのは大人の男の声である。
 ――…否、そういう事を思い出すのはもう止めておこう。終わった話だ。過去の話だ。もう戻ることはできない、どれだけ血反吐を吐くような思いで叫んだところで、かつての居場所は既にありはしない。有り得はしないのだから。


「これからどうするつもりだ」

 どうしてこのような事が起きてしまったのか、などと言うつもりはなかった。自分たちは家族ではない。血が繋がってもいなかったが確かに笑い合っていた。
 誰が悪いということではなかったというのが問題なのか。自分の中で納得行く点を見つけられたか否か。次を探すことが出来たか否か。それが目の前にいる女と自分の違いである。それに関し彼女を諭すつもりも、強引に連れ出す気が無かったのも彼女の気持ちが痛いほどに理解出来るからだ。

 彼女は何かと優しすぎたのだ。
 それでも生きるつもりであるのであれば心を鬼にし、道を提示するしかない自分の現状がこの上なく腹立たしい。もしも自分にもっと力があれば。もしも自分にもっと、…彼女を守れるほどの力があったのであれば。過去をどうにも出来ないという事は分かっていたがそう悔やむのはもうこれきりにしよう。グッと握った拳から血がぽたりぽたりと垂れていく。それが自分の気持ちを少しずつ、抑えていく。この地獄から逃げ出してしまおう。この地獄から、何もない新天地へと向かおう。そうすることだって可能といえば可能であったのに何故この時の自分はその道しか選ばせられなかったのか、提示してやれなかったのかと悔やむことになるのだがその時の自分にとってもこれが最善の道だと思ってやまなかったのである。

 自分よりも彼女が、何よりも、誰よりもその道に最適な人間であったから。


「今なら幹部も誰もいない。俺はこの騒ぎに乗じ精鋭部隊に紛れ込むつもりだ」
「……だって、」
「今なら逃げられる。今なら、…元々名前も無く、俺達は居るようで居ない存在だったから」

 絶好の機会だ。こんな日がくれば必ず行動すべきであると自分も分かっていたしずっと前から練っていた。あの日から。…あの、時から。本来であれば自分のような人間にそのような情報は与えられないのであったが最初で最後の情けをかけられたと言っても良い。情報提供者はあまり自分とは関係のない人間であったが、彼女とは僅かなりとも関わりがある。自分はあくまでも付属物にすぎないのだがそれでも道が開けられた今、これもまた彼女を動かす最後の機会となる。


「あとはお前が決めろ。俺達はもう個で思考し、動く義務と権利がある」
「……わたし、は」

 片やどっしりと構え剣を背負い未来を見据え、片側の女は布団の上で膝を抱えて過去に縋り付く。共に育った彼らは今、一つの岐路に差し掛かっていた。
 即ち業を背負ったまま地獄へと身を投じるか、この生きているか死んでいるのかよくわからない場所で死に絶えていくか。或いは、――…何も無かったこととして何処かで新たな生活を始めるかということであったがその3番目の道に関しては彼女は絶対に選ぶことは出来ないだろう。彼女も自分もあまりにも手を汚してしまってきていたから。そしてやはり彼女はその道を選んだとしても今まで歩んできた道が、彼女の手に染み付いた血がそれを否定するだろう。

 女はやがて、立ち上がる。
 最近はめっきり話すこともなく、依頼を受けてはそれを淡々とこなすような日々であり殆ど外に出ることもなかったような人間であったがこの建物の裏側では日々壮絶な修行が一人で為されているのを知っていた。彼女は未だ、剣を手放せない。その手、その身が切り刻まれたとしても手放し方を知らないだろう。
 女は黒曜石の目を濁らせていた。いつ死んでもいい、いつ、消えても良い。そんな気持ちで日々独りでその辺りに放り投げられた一本の古びた剣で生き延びてきていた。…手放すことは出来ずとも、新たな一振りを握っても誰も責めはしないというのに。


「……私は、生きるよ」

 彼女は優しく、また、それ以上に不器用であった。その答えを選ぶのには膨大な時間がかかっただろう。だがそれこそが彼女が個人で、”彼女”という個として動くために初めて選んだ道。その先々には決して甘くはない、寧ろ辛い道ばかりがあるのだろうが生きるという道を選んだが故に、今度はそれに固執していくことになるに違いない。
 そうだ、彼女は昔から決められた事に関しては意固地になるぐらい、人格が変わる程度に固執する。何も言わず渡した剣を、彼女はしっかりとその細い手で受け止める。鞘より抜かれた銀色は月光を浴び、輝いているようにも見える。どうかそれが、彼女の黒曜石に渦巻く淀みを打ち消してくれることを祈るばかりだ。「だから、」彼女はそれを腰に引っ提げ、とても緩慢な動作で口端をぎこちなく釣り上げた。到底それは笑みと呼ばれる代物ではなかったが、そういえば彼女が最後に笑んだのはいつぶりだっただろう。


「だから、…行こう、大和」
「ああ、そうだな」

 閉じられ、そして燃え盛る建物。彼と彼女が育った家は、轟々と燃える炎に喰われ、消えていく。別に無くしてしまわなくても良かったのだがこれもまた不器用な彼女らしい生き方なのだろう。戻ることはもうない。戻れることもない。ならばもう、歩むしか無いのだ。それがどれだけ精神を、肉体をすり減らす地獄の日々であったとしても。

 最後に一度、ちらりと振り返った彼女は何を思っているのか大和にも分かることはなかった。以降、彼女は振り向くことはない。両者頷き、彼らもまた闇に溶け込んでいくのであった。

 XXXX年、10月某日。リング争奪戦の始まる数日前の出来事である。


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