「もう良いのか」
「はい。お騒がせいたしました」

 蜜柑の傷はみるみるうちに治っていった。そもそも怪我というのも大体が打撲、そして彼女を瀕死に陥らせたのは消耗しすぎた死ぬ気の炎というわけだ。つまり炎さえどうにか生命を維持出来る量にまで達してしまえば後は時間の問題であった。残るは彼女が死に物狂いで戦った故にやってくる筋肉痛といったところであろう。ところどころに痛ましい傷跡はまだ見えるがそれ以外は何ら別状はない。
 それでも蜜柑がXANXUSの前に姿を現せるようになるのに5日は要した。一般人にしては、などと決まった注釈をつけるのであればやはりこれもまた異常なほど早い回復であったがこの時XANXUSの前にやって来た彼女には最早その文句など誰も使うまい。

 誰もが倒せなかった敵をたった一人で屠り、尚且つ生存した。
 大快挙である。これまでにあった多種多様な噂を払拭するのに十二分すぎる事実を彼女は皆の目の前で発揮したのだ。今となれば時折彼女に対し尊敬の眼差しを向ける輩も少なくはなかったが、しかしそうであったとしても蜜柑は自分以外まったく見ることがない。つい先程ようやくルッスーリアに動くことを許可されたそうだったがそのまま誰の元でもなくこの部屋をノックし、己の指示を仰ぐためにジッとこちらを見つめ続ける女を改めて見返した。

 ところどころ燃え破けていた隊服は既に人間の着るものではなくなっており、ルッスーリアによって新しく用意された。カツン、カツンと床を鳴らすのは新しく彼女が身につけた赤いハイヒール。これもまた新調させたのだが当然彼女は誰が用意させたものかと分かっているだろう。
 少しだけ居心地悪そうにしているのも分かるがXANXUSが一言現状を説明してやるときっと顔を青ざめいつもの仕事を与えた部屋に駆け走ることになるだろう。

 仕事はひとつたりとも、減らしていない。

 寧ろ眠り続けていた間も変わらず同じペースで処理を要する書類は増え続け今はもう山の如しだ。あのスクアーロでもその膨大な量に流石に手伝うかと申し出たがXANXUSはそれを全て拒否し、今に至る。あれは全て蜜柑に任せたもの。ならば全てこの女がやるべきだろう。何故ならば、


「遅い戻りだな」
「も、…申し訳ありません」
「テメエの居ない間に仕事は作っておいてやった」
「はい!」

 何故ならば、自分の秘書は彼女だけだからだ。そう認めざるを得ない。何も怖がらず、何も怯えることもなく己を、己のみを一心に見つめるその目は未だに自分の理解に苦しむところもあったがあっても不快ではないとそう判断したからだ。

 仕事が大量にいつもの部屋に積まれてあると理解したのか慌てふためき隣の部屋へと移動しようとする彼女に向かって「蜜柑」と名前を呼び、足を止めさせる。もう心は此処にあらずといったところなのだろうか、ピタリと全ての動きを止めた彼女はギギギとぎこちない様子でXANXUSの方へと再度身体を向けた。
 その時の彼女の顔を見て初めて、そういえば起きた彼女に向けて名前を呼んだこともなかったなと思い出したがまさかそれぐらいでそこまで驚いた表情を見ることになるとは誰が思っただろう。琥珀の瞳はいつだって自分の想像以上を見せてくる。そしてその表情は、指示を待っていたあの無表情よりも見てて不快ではないしキョトンとした彼女を見るのも悪くはない。


 ──カタン、

 何も言わずに手元で空になったグラスを彼女の方へ差し出した。その意図に流石に分からぬ彼女ではないだろう。すぐさまはい、と元気な声をひとつ出すと向かう方向を変えそのまま早足で己の前へと歩んでくる。あちこちで見て取れる痛ましい傷はやがて全て消えるのだろう。そして露出している足元、首元に、顔に残った包帯の類がなくなる頃には彼女が眠っていた間に再度燻り続けたモヤのようなものもまた消えてなくなっているに違いない。


「…失礼します」

 溶けかけた氷が注ぎ込まれた液体によりカランとグラスの中で泳ぎこの場にそぐわぬ涼しげな音を鳴らす。零すまいと緊張し腕が僅かに震えているのはこういった事には慣れていないということだろう。それに少しだけ気分を良くするとXANXUSはもう1つ追加でグラスを音を立て並べて置いた。注ぎ入れ終わった後にホッとして瓶の口を上へとあげていた最中の突然のそれに蜜柑の手はびくりと震え。
 …流石にウイスキーを持つ瓶を手放すことはなかったのだがこちらを伺うその瞳は暫く黙った後、XANXUSのグラスにいれた分よりも少量に注ぎ入れる。

 その間、XANXUSはまた無言で彼女を見遣っていた。
 ようやくスタート地点に立った女だ。否、経験なんてものは先日の事件を除けばほぼ0に等しくスクアーロに毎朝訓練を受けている程度の何も使えない人間だ。ようやく少しは人並に動けるようになったかと判断される程度。咄嗟の判断などまだ考えられるほどに経験がある訳でもない。
 本来であれば目にすることすらなく今頃はベルの下、任務で死んでいたかどうか…否、そもそもXANXUSを一目見ることさえなければ今頃日本で平穏な生活をしていた女が何の因果か此処に居る。縁などと、奇跡などと言った言葉を使ったこともなかったのだが、…なるほど、そういう事象とて己の前でも有り得ないことではなかったということか。


「飲めるのか」
「…はい、一応」
「そうか」

 グラスを口につける前に問うてみたがどうやら無理をしている様子も見えず元来飲める気質なのだろう。データ上であれば蜜柑のことを知ってはいたがそれ以外彼女の事を何一つ知らぬことにも今更ながら気付く。否、それは今後知っていくだろう。生きている限り、地獄の先まで蜜柑が己に付き従うというのであれば。
 兎にも角にもこれが始まり。これから、始まり。

 そして、これは間違いなく踏み出された一歩。

 そこにかけられる、またかける言葉はない。グラスを僅か目上に掲げ同じタイミングで一気に呷るとゴクリと嚥下の音。飲み干した彼女は座ったXANXUSをまたジッと見ていたがその瞳が僅かに潤んでいることに気付いたものの何も反応することもなく自身のグラスを再度彼女に突き出した。謝罪の言葉を言うつもりだったのか感極まったのかは理解出来なかったがそれは言葉にせずとも今後の勤務の態度で表してくるだろう。ならば言う必要もなければ聞く必要もない。


「くれてやる」
「…っ」

 その代わり、XANXUSもまた行動でそれを示す。目の前に置いたのは赤い羽である。以前蜜柑の武器である柄につけてやったものだが流石にあの戦闘で燃えてしまったらしい。僅かに燃え尽きずに居た残骸を握りしめたまま倒れていたというのだからその気概だけは認めてやらないこともなく。
 手を伸ばし受け取り、それを包み込むようにして胸元で抱きしめた。「――もう、2度と」彼女の言葉はそれだけだったが、寧ろそれでも十分伝わるものがある。それが地獄への片道切符だとしても彼女は受け取ったのだろうから。恐らく彼女は以降、同じ轍を踏むことはあるまい。
 
 XANXUSが見ている手前で失礼しますと軽く頭を下げ、蜜柑は腰元に引っ提げていた例の武器を取り出し器用にくくりつけ始めた。手は僅かに震え、緊張しているようであったがその様子を感慨なく視界にいれながらこうして彼女が赤を纏うのをしかと見届けた。

 何も持っていなかった女が身につけていく。
 白か黒しかなかった彼女がそれ以外を纏っていく。

 括りつけ終えた後によし、と嬉しげに微笑む蜜柑を見るのもまた、初めてだったか。何も知らぬのは蜜柑だけではない。XANXUSとて同じことで、彼女がやって来てから世界は少しずつ色味を帯びていく。モヤのようなものは早くも消えていたがその代わりにと新たに形成されつつある内にある温かな何かを彼女は知る由もない。
 尤も彼女には相変わらずボスである自分のことに関してはいつでも気を配ってきていたが己のことに関しては鈍いことに変わりはない。送ってきたそれら全てがXANXUSによる、ある意味所有の証であるということに彼女は恐らく今はまだ気付くことがないのだろうが。彼女と同種の色をした琥珀の液体を喉元に流し込んだXANXUSの笑みは、未だ誰にも見られずにいる。
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