*喚べば偶然ひらひらり。
折れた。折られた。全身を走る悪寒、痛み。否、声など出るものか。己の前ではむしゃむしゃと醜い音と共に主人が魔性により食されている。ずっと見ていた。見させられていた。だけど何も出来なかった。動く手立ては彼の手から離れてしまったその時から最早喪われていた。
ブチッと腱の切れる音。吐き出される血の色に染まる骨、内臓。心臓は一番早く突かれ、そこに詰まっていたたったひとつの命を啜られるのも間近で見た。最早彼に生命はないということは理解している。残酷なことに自分はそれを感じ取ることに特化しているのだ。嗚呼、何故自分には彼を救う手段が無かったというのか。
――…どうして。
感情がないわけではなかった。
寧ろ自分が生まれてからというもの、身体の内に宿る主としての感情は怒りであった。それが今最大限に、最高潮に感じられているというのに自分は手も足も出なかった。当然だ、自分はそんな事が自由自在に出来る存在ではないのだから。
たったひとりの、たったひとつの大事な彼が醜い魔性に喰われていく様を目の前で見せつけられあまり感情も豊かでない彼女でも懇願せずにはいられなかった。
誰か、と。
この状況を打破するきっかけを。これ以上彼を陵辱されたくはないのだと。声なき声で嘆願するその言葉、例え誰でも良い。己を破滅させる人間でも、魔性でも、神という存在でも良い。誰でも良い。誰か、…誰か!
「ま、当然だよな」
果たしてその願いは随分と時間が経った後にようやくして聞き届けられた。
突如と歪む空間の存在に気付けた者はいただろうか。段々と白々しく薄れゆく意識、そうかこれが死ぬという事なのかと感情に諦めが入った頃だったろう。絶望の淵に立たされせめて願うのはもう、たったひとつ。
「やっと見つけたって思ったけどあーあ、壊れてんじゃん」
『……』
一人の男の出現で全てが変わる。
パチンと指を鳴らすと同時に目の前にいた数体の魔性は霧散した。何が起こったのか分からぬまま彼らは世から消えたのだろう。腹に彼を取り込んで。
嗚呼佳かった、それでも彼女は思わざるを得ない。
お陰で彼はもうこれ以上汚されることはなくなった。どうか安らかにあって欲しい。自分は間も無く彼と同じ道を辿るだろうが落ちるところは違うのだから見守ることも見届けることも出来やしないのだけれど。
ガシャリ、金属質の音。何事かと気をそちらに遣ればいつの間にか自分のことを真紅の瞳が覗き込んでいる。
「声が聞こえたと思ってようやく…もう少し早く喚んでくれないと。闇主(あんしゅ)さんも全能じゃないからさ」
『…それは悪かったな、もう必要はなくなった』
「そう?それは残念」
助けは幾度も求めたがそれを伝えることも無駄だろう。それはよくよく理解している。 この世界は恐ろしいほど実力主義だ。
強い者が上に立ち、弱き者が屠られる。いつだって不条理で、合理的で、わかりやすい世の中であることは永く生きてきた彼女もよくわかっていた。
先ほどの化物は妖鬼と呼ばれる知性はなくただ欲望のままに動く下級の魔性であり、それに喰われた彼は人間だった。何とわかりやすい。この世界にとって人間とは餌であり彼らを喜ばす道具の、手段の一つとして成り立っていた。
しかしただ喰われるだけの存在では終わらなかったのが人間の底力というものだろう。力で敵わなければ人間は知恵を使う。己の力が足りなければ道具を使う。武器を使う。そうやって彼は自分と組み、倒してきたというのに。屠ってきたというのに。
まあいい、とそう呟く男は、闇主と名乗ったその青年はとても整った容姿をしていた。
この世界において恐ろしいことではあったが顔立ちが人間に近しいものほど、またその中でも整った容貌をしている魔性は比例して力が強い。影のない彼は間違いなく魔性であった。が、ただそれだけではないと分かるのは己の持つ力のおかげか。否、この時点であれば知らないほうが、気がつかなかったほうが幸せだったやもしれぬ。何故ならばこの世界において彼に傷を負わせられるほどの人間も、魔性も存在しなかったからだ。圧倒的な力を前にすればその力を有する稀少な存在である自分ですら畏怖を通り越し、愕然とする。
『何故こんなところに…貴方が』
「たまたま通りがかっただけさ」
男は嗤う。
「あんまりこういうところラスに見せたくないし、おれ達が通る前に汚いものは掃除しておかないとって思ってさ。今は訳あって逃亡中の身でね、あいつに力を使わせるわけにはいかないんだ」
悪いね、という言葉の割りに何の感情も載せられていないその言葉。
彼の妖主が一人の女にご執心という噂はかねてから聞いてある。浮城の隠し玉、不運を 引き連れ歩み続けるその女の名前はラエスリール。成程、どうやら噂は真実であったらしい。ならば彼女が間もなくここを通る為、その道に偶然落ちていた汚物はさっさと消されるのだろう。
もっともこの場において汚物とは間も無くこの世を去るであろう自分と、あとは彼の遺体だけだったけれど。
「ふうん」
楽しげに近寄る男の心臓は複数。そしてそれに詰まりに詰まった命は確かに魅力的に美味そうであったがそれを食らおうという気分にもならないのはやはり彼を喪った所為でもある。自分が魔性を目の前にこんな気持ちに陥ることなどありもしないと思っていたが。目の前の男は楽しげに目を細め、そして力を振るう。圧倒的な力。傲慢を許される力を彼は持ち合わせていた。
「で、だ。先着1名様に闇主さんの力をふんだんに使った楽しい旅行をプレゼントしようと思って」
『いらん』
「だと思った。でもさ、」
パチン、と指音。ぐにゃりと歪む空間。
待てという声はこの世界に5人しかいない妖主たる男の耳には都合よく聞き取ることはなかったらしい。
「鉄屑ひとつ、ごあんなーいってね」
くつくつと喉を鳴らし響く笑い声を聞く者は誰一人としていなかったのである。