!夢が溶けたら迎えに行くよの続き
目を開くとそこにいつもの光景が広がっている、ということがどれだけ幸せなんだろうと響は思う。
例えばそれが昨夜洗い忘れたコップだったり、予定を書き記した手帳が開かれたままであったり、消し忘れていたテレビから流れるニュースであったりと様々であったが見慣れた、或いは聞き慣れたものであればやはり安心はするものだ。だからこそ響が起きたときに目に飛び込んできたのが自分の知らない質素な家具が並ぶ大きな部屋であるとどうしてもソワソワしてしまうのである。
「……あれ」
ぼんやりと数秒間、間違いなく響は自分がいる場所がどこだか分からずに狼狽えた。そして少し身を捩ろうとした次の瞬間にはがっしりとした男の手が自分の腹部に手を回していることに気付き、それからゆっくりと息を吐きだす。
響がイタリアへとやってきて二日目の朝だ。
彼が身にまとう衣服や堂々とした態度から恐らく人を扱うことに手慣れているのだろうと思っていたし恐らく働いているのも大手企業なのだろうとすら想像はしていたのだがまさか自家用ジェットを持っているほどなのだと誰が思おうか。あらかじめ言われていた通りパスポートを持ってきていたもののそれも迎えに来たスクアーロによって取り上げられ何だかんだ言われるがままに歩き、気が付けば入国手続きは終わっていたし気が付けば車に乗せられXANXUSの住まう場所まで連れてこられた、というわけである。元々強引な人であるということは十分に知っていたはずだったのだがまさか行先も告げられないままイタリアに旅行となり、結果的に響は予想もしていなかった海外旅行を満喫することになったのだ。
とは言え、どうやらXANXUSも仕事が入ってしまったようで顔を合わせ一緒に食事を摂ることはできてもそれ以外共にすることはなく何だかんだスクアーロや部下であるらしい人達と喋ってみたりして屋敷内で過ごす日々になっているのだがそれに関しては響は別に特に気にしてはいない。
元々響は一人行動を苦手としない性格の持ち主だ。
そうでなくてはXANXUSと出会うきっかけになった例の温泉街にも単身旅行なんてする事はなかったのだが、とにかくそういったことなのでここで一人放っておかれても何一つ不自由することなくただ窓の外に広がる雄大な景色を楽しみながら日々を過ごしている。
『…悪いなぁ、一宮響』
XANXUSはXANXUSでこちらを気にかけてくれているということはよくよく分かるのだ。スクアーロがわざわざ自分のところまでやって来ては申し訳なさそうに話しかけてくる口ぶりからしてどうにも彼でしかこなせない業務に追われていることを何となく把握し、そうなれば社会人として働いてきた響だって『大変ですね』と言える余裕すら生まれてくる。
自分は客で、それをどうにかもてなそうとしてくれている。そう伝わってくると嬉しいものもあるのだ。もちろんそんな気遣いまでしなくとも良いのに、と本音では思っているのだがそれを伝えてしまえばただでさえXANXUSと自分に振り回されているであろうスクアーロの負担も増えてしまうに違いない。普段から気が強そうでそれでいて真面目な男をこれ以上困らせるのは響だってできるならしたくはないのだ。つまり結局のところ響はXANXUSやスクアーロの言うがまま、完全に客人扱いですべてを受け入れているという現状なのである。
そうして、今だ。
昨夜はXANXUSの仕事も込み入ってしまったようで一人豪華な食事をめいいっぱい楽しみ、では明日はどうやって過ごそうかと思いながら明らかに高価そうなワインを味わい広すぎるベッドに入ったことまでは記憶にある。もしもスクアーロに許可さえ得られれば付近の散歩もいいなと与えられたパソコンで観光地を探してみたりそれなりに休みを楽しもうとしていたのだが。ぽやぽやとした起きたての頭でも何とかそこまで思い出してみたものの、そこから先はただ眠ってしまっただけで記憶がない。どうやら自分は部屋の主が戻ってきたことにも気付かず熟睡してしまったらしい。
「…XANXUSさん?」
自分の真後ろ、響を包み込むようにして眠る相手を当てることなど響にとっては容易いものだった。
この部屋の主であるから?
――否。
ここにいる知り合いが彼しかいないから?
――答えはいずれも否だ。
こんな荒々しく、強く、それでいて優しい手は一人しか知らない。
彼の名前を呼ぶや否やさらに抱きしめてくる力が強まったような気もしないでもないがそこには敢えて追及することなく響は彼の手の上に己の手を添える。温かい手である。恐らく響が身じろぐまでは眠っていたのだろう。起こしてしまって悪かったなと思ったもののXANXUSから声がかけられるでもないしまた眠ってしまうのだろうと悟り、響は口を噤みそのままの体勢で部屋の中を見渡した。
どうやらXANXUSは昨夜ここへ戻った後、少し酒を飲んでからベッドに入ってきたようだった。テーブルの上には響が持参した酒が半分ほどになっているしグラスが1つ。どうやら減り具合からして飲めなくはない味であったのだろうと安堵し、今夜は付き合ってもらえるようお願いしてみようと響は思い――それから、まだ起きたところなのに夜のことを考えるなんて可笑しいなとふふ、と少しだけ肩を震わせた。
XANXUSの様子からどうやら今日は業務もないのだろう。ならばできるだけゆっくりして欲しい。そして、それに対して自分が役立つならば喜んで抱き枕にでも何にでもなろう。…だけど。
「よいしょ、っと」
思案した後、響は身体をゆっくりと動かし、XANXUSの方へと振り向いた。精悍な顔つきは眠っている時でも獅子を思い起こさせるがやはりどことなく幼く見える。誰もが恐れる鋭く、何もかも見透かされると感じてしまう、しかし響に対してはどことなく穏やかな赤い瞳を見ることができなかったのは少しだけ残念なのだけれど。
そういえばあの旅館に居た時、響と共に眠っていたときは眠った振りだったのだろうと分かるほどの違いにどうしてあの時気が付かなかったのだろうと不思議に思う。それほどまでに寝顔が違うのだ。勝手にXANXUSのことを信頼し熟睡していた自分と違い彼はいつだって周りに気を配り何が起こっても良いように警戒している節がある。それが日本の旅館で、例の事件。そして今は彼の領地。気構えは全然違うものなのだろうなあ、と響は眠りを妨げないよう慎重になりながらXANXUSの胸元に額をすり寄せる。
「おやすみなさい、XANXUSさん」
返事は、やはりない。
しかし響の背に回された手がその答えであるようで。起きたらいろんな話をしてもらおう。ジェットのお礼だってまだ言えていないし、パスポートをまさか使うことになるなんて思わなかったんですよとおどけて言ってみてもいい。まさかイタリア旅行がこんな形で叶うなんて思ってもみなかったんですとも伝えてみよう。自分だって並盛に行ったときの話も、不思議な少年の話だって聞いてほしいのだ。
それから、…それから。
どこに行けなくったっていい。彼と過ごす空間があれば世界のどこだって構わないのだ。
こうなると昨夜考えていた散歩どころの話じゃないなあ、なんて思いながら響はまた静かに笑い、眠りにつく。
(2018.10.10)
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