「で、リフレッシュ休暇は何も無かったのかい?」
「うーん、まああったかもしれないけどなかったっちゃなかったかなあ」
リフレッシュ休暇を終えた響は行きつけのバーでいつものように酒と軽食をオーダーしていた。慣れた味が口に広がるとあのバーもとても良かったけれど何だかんだここが自分のホームであるとしみじみと感じ、それをマスターへ告げると常連客の言葉に「それは嬉しいねえ」と顔をほころばせた。
そんな彼の様子を見ながら響も釣られて笑みを浮かべる。もうあれから数週間が経過しているだなんて嘘のようだった。会社の同僚に渡したものと同様、マスターへも土産品を渡して響はウイスキーを追加で頼むと手元にあったグラスを一気に呷り、空にする。
カラン、と鳴るまだ大きな氷。これがあの夜は、一人でなかった夜のバーでは隣に座った男と結構なスピードで飲んでいたことなんて、本当に、ドラマか何かの主人公にでもなった心地だ。
『チェックアウトで、お願いします』
『ありがとうございました』
あの日の翌朝、チェックアウトの旨を告げると追加精算もなし。一泊増えた気たのだがその辺りはスクアーロが手続きを”どうにか”やってくれていたようなのでありがたく好意に甘えようと思っていた。
女将こそ彼曰く『悪いヤツ』だったそうだが宿自身は彼女の管轄ではなかったらしい。
彼女が居なくなったことはまだ宿側も把握していないだろうということで響から何かを言うことだけは口止めをされていた。
後々彼らにも何かしらの情報操作が入ると聞いてはいたものの何だかんだこの素敵な景色が一望できる宿ですら被害を受けたのだと思うと何とも言えない複雑な気持ちになりながら宿の玄関まで見送ってくれた人の良さそうな従業員に頭を下げられつつ外へ出る。
空気がひんやりとした、とても爽やかな朝だった。
温泉街を一人、キャリーケース1つをお供にガラガラと鳴らしながら歩んでいく。荷物が土産の分だけ増えたが不思議とその足取りは軽い。
増えたのは単純に土産だけではなかった。二度と経験しないであろう思い出も、それはしっかりと響の中に在った。素敵な出会いだった。少しだけ怖いこともあったけれど、けれど悔いはない。忘れることはできないだろうけれど、だけどもう会うことはない。
朝、起きれば自分の隣にXANXUSもスクアーロの姿も無かった。
玄関の所には響の荷物が置いてあるだけで彼らの私物らしいものも何一つなかったし、一応少しだけ期待はしたけれど彼から何も残されたものはなかった。
最初から向こうも、それからこちらもそのつもりであったのだから何ら不思議ではなかったし、寂しいとも、悲しいとも今は思えずただただそっか、と一人呟いただけに終えた。
宿屋の人間に彼らのことを聞いてみるとそもそも其処に登録されている名前が違っていた。どちらが偽名か分かったものじゃないとさえ思え、少しだけ鬱々としそうな気持ちも晴れてしまった。何もヒントさえ残されていなければ寧ろ探すことも出来やしないし若干引き摺るかもしれないが諦めが付くというもの。
彼らは一体何者だったのか。
これはまたいつものバーで飲みながら考える案件になるに違いない。
『…一宮響』
しかし、正体不明の不思議な存在だけで彼はとどまってはくれなかった。
朝の早い時間にこの観光地から出ていこうとする者は居らず一人歩いていたその道に現れた彼は響の記憶通り、まるで一昨日の土産物屋巡りに付き合ってくれた格好で現れ、ポカンとして彼を見上げることになってしまった。
何故彼が此処にいるのか。
どこかへ帰ってしまったのではなかったのか。去ってしまったのではなかったのか。『XANXUS、さん…?』と思わず呼んだその声は自分のものとは思えないほどの情けないものであったがそれぐらいで目の前の男の表情が変わることはなかった。
一瞬怒っているのかと思ってしまうほどジッとこちらを見るその様子に響は何か忘れ物でもしたのかと考えたが預けたものも、逆に預けられたものもなかったことを思い返す。
では最後の挨拶をしに来てくれたのだろうかとぐらいは自惚れてもいいだろうか。それ以上の期待はしない方がいいとそれは流石に分かっていたので。
『あの、…どうしました?』
目の前までやって来たXANXUSは未だに何を考えているのか分からなかったがそれでも怒っている、というよりは何かを話すための言葉を考えあぐねているようにも見えた。
こうやって向かい合って話すのも昨日の朝ぶりだと思い返す。女将に操られていた時のことだ。あの時は彼に何も話せなかったけれど。自分の意志で話すことも出来なかったけれど。
だけどあの場において自分が動けるようになったのは間違いなくXANXUSの事を考えていたからだ。それだけ響の中を、心を、彼は占めたのだ。
声をかけたものの彼から言葉が返ってくることはなく、しかしその静寂は何も苦ではなかった。
帰る時間は特に決まってもいない。急いでもない。ならば時間の許す限り彼の姿を目に焼き付けておきたいと思ったのが素直なところであった。顔を上げ彼の顔をひたりと見据え、こちらも何も言葉を発することはない。
スッとXANXUSの骨ばった手が差し伸べられ響の頬を撫ぜる。『…お前は』やがて紡がれる言葉は、しかし響の予想を大きく外れるものだった。
『俺をここまで振り回して、それでも思い通りにならねえ奴なんざお前が初めてだ』
『…それ、褒められてますか』
否、きっと彼にとっては褒め言葉であるに違いない。何となく響は思ったが流石に突然かけられた言葉にどう反応していいのか分からず、それでいてこの頬に触れる手は一体何なのだろうかと。
まるでこれは期待をしてもいいと言わんばかりの手つきだ。…本当に? これで、終わりでなくても、いいのだろうか。この温泉街を出るまでの、期間限定でなくても?
聡いと思われていた響ですらそれをはっきりと自覚することは、認めることはなかなかできなかった。本日で終える予定であったこの縁は、まだ切らずにいられるのだろうか。終わってしまったと、もう会えないと思っていたのにそれはまだ続きを、先を想ってもいいのだろうか。
思わず縋るような視線を、表情を浮かべてしまったに違いなかった。XANXUSはそんな響の様子を見てから、その過ぎった期待を肯定する。
『お前をもう、逃がすつもりはねえ』
あまり多くを語ることのない彼のその言葉は、しかしお前は、響はそれでいいのかと問われているような感覚にも陥った。
響の返答を恐れているようにはさらさら見えないがそれでもこの男は自分の言葉を、気持ちを優先させるだろうと分かってしまう。しかし響は迷わない。それほどにもう、既に響だって答えは出ているのだ。
『じゃあ捕まえてください。抵抗は、しませんから』
嫌なら抵抗しろと先日言った彼の言葉を使うと僅かに見開かれるXANXUSの目。
そうだ、彼にその瞳はとても綺麗だと今伝えても怒られないだろうかと場違いな事を響は考えていた。紅葉よりも更に鮮やかなその色、赤いその燃える瞳はただ静かに響を、響だけを映し出していた。やがて
『…上等だ』
向かい合って手を差し伸べられ。それから頬に手を当て、しっかりとした指で唇に触れられ。
其処までは昨日と何ら変わり無かったが明らかに違うのは今、この時は響は己の意志で立っているということ。自分の意志で、彼が自分へ触れる手に自ら触れたこと。
それから、
――どちらからともなく瞑る目。
唇は、ただ柔らかく重なるだけだったがそこには確かに両者の想いが込められていたのだった。
――――……。
「次の有休もまた旅行でも行く気かい?」
「なーいしょ」
うっかり先日のやりとりに思いを馳せ此処がいつものバーであることを忘れてしまいそうになっていた響は突然のマスターの質問に意地悪く答えると珍しいその返答におや? とマスターも楽しげにグラスを磨く手を止めて響を見遣った。
「…やっぱり良い出会いでもあったのかな」
「それも内緒」
ここ最近、誰にも言うことはできなかったが密かに楽しみにしていることがある。
あの後、XANXUSと連絡先を交換することとなり自分の携帯電話には彼の電話番号が登録されることとなった。彼自身の手で打たれた名前はやはりXANXUS。
つまり宿に登録してあった方の名前こそが偽名で、最初に自己紹介された時には本名を教えてもらってもいいと思えたほど気に入ってもらっていたのかもしれないとまたそこで自惚れることになったが当然それはXANXUSに聞いてもいないし聞くつもりもなかったので響が知ることはなかった。
あれから数日に一度、彼の方から電話が来る。
そこで初めて彼がイタリアから来ていたことを知り、電話越しで彼のことを少しずつ知っているところであった。今は何をしているのか。何を食べるのか。何が好きなのか。向こうは何時で、天候が良いだか悪いだか。そんな小さな事を知る喜びを日々一人、感じていた。
『…っ、おい!お前大丈夫かぁ!?』
始まりは誰も予想もしなかった、何故か倒れそうになっていたスクアーロに対して手を伸ばしたところから。気が付けば気を失っていた自分がXANXUSと一緒の布団に眠っていて。
それから絡まるようにして突然繋がった縁は随分と響の知っている恋愛ドラマや漫画からはかけ離れていたし、何より順番が最初から何もかも違うけれど、彼とはこれでも構わない気がした。
ならば自分も歩み寄らなくては。この縁を大事にするために。次の休暇を楽しむために。
「久々に、勉強しようとおもうの」
「そうかい。じゃあ頑張る響ちゃんにはいつもの一杯、おまけだよ」
「ありがと、マスター。頑張るわ」
取り敢えずは語学勉強をするつもりだ。
せめて彼の国の言葉で、簡単な会話ぐらいはできるように。
自分で言っておいて何だけど、我ながらいい考えだわ。
隣の席に置いた自分の鞄からイタリア行のパンフレットが覗いていることをこっそりと確認し響は今は遠い地にいる彼のことを、そして彼の温もりを思い返しにっこりと微笑むとまた琥珀色の液体をグッと呷ったのであった。
今日は彼と何を話そう。そんなことを考えながら。
end.
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