勇気が欲しい。あの人に話しかけられる、勇気を。
 強さが欲しい。あの人の視線に耐えられる、強さを。

 知恵が、知識が、容姿が、―――欲しいものを挙げていくとそれはやっぱりというか、私自身とは程遠いものになる。あの人に声をかけられることもなく、視線が合いそうになればすぐに逸らしてしまって、いざ話す機会を得ても会話を長続きさせられるような知識も雑談の心得もない。それが只野夜という人間の名前だった。
 けれど、容姿も個性も平凡な人間でもどうにも恋をすると強欲になってしまうらしい。それが女の子っていうものなのよ、としたり顔―実際は見えてないけど―の葉隠さんに言われてしまったのでそういうものだと思うことにしている。そう、私はいつの間にか欲深い人間になっていたのだった。

(…今日も轟くんは格好いいなあ)

 彼の席は私の斜め前だ。授業中の今は皆も前を向いていて、当然真面目な彼も同様。そして私は黒板を見ると同時に轟くんの横顔も見えることになる。
 間違いなくここは特等席である。隣の席なんて恐れ多すぎて考えたこともない。合法的に彼のことを見れるということを考えれば隣の席よりも断然こちらの方がいい。
 誓って言うけれどやましい気持ちは持っているものの彼に害を与えるつもりは毛頭ない。ないけれど、淡い恋心を抱いてしまっている以上、好きな人をこっそりと見ることぐらいは許してほしい。

 さらさらの髪の毛、
 よそ見をすることなくまっすぐ前を向く目、
 時折黒板に書かれていない先生の言葉をメモする手。

 姿勢だってとってもいい。
 こうなれば盲目とも言えるかもしれないけれど、他の男子とはまったく違って見える。それから、見ているだけで幸せな気持ちにもなるし、ポカポカと胸の奥が温かくなるような気がする。

「なので、ここにはこの公式を当てはめて――」

 授業態度は皆、さまざまだ。
 さすがと言うべきか、雄英に受かっただけあって全員が基本的には真面目に取り組んでいる。ただ、激しく身体を動かすような実技の後の授業ともなると疲弊した子は早々にダウンしたりこっくりこっくりと船を漕いでいることも珍しくはない。私だって最初は全然慣れなくて中学時代には居眠りなんてしたこともないのに首を持ち上げることすら億劫になっていたっけ。先生もそれが分かっているのかあえて起こさなかったりしていて、クラスメイトは揃いも揃ってすごい人たちなんだけど普通の人間なんだなあって思う。失礼だと分かっているけれど。そんな状態のなかでも、授業中に好きな男の子を目で追ってしまっているのはきっと私だけなんだろう。

 この穏やかな時間が好きだ。
 この穏やかで、あたたかく、まったりとした時間が好きだ。

 開けた窓から入ってくる、実技授業の余韻が残った熱気を冷ましてくれる涼しい風が。
 耳に心地いい先生の低い声が。
 そして、視界に入る好きな人を見ていることが。
 なんでもないのに、自分の想いが報われているわけでもないのに、なんだか泣きたくなるような、ああ、これが幸せってやつなんだなあってしみじみと思ってしまう。これがずっと長続きしてくれたらいいのに。残念ながらそれを叶えられるようなすごい個性を持っているわけじゃないので、ただただ、そう願うだけ。

 空気がふわりと動いたのはその時だった。

(………あ、)

 きっかけは特になかったと思う。いつもと同じ風景、いつもと同じ先生と生徒たちの授業。微動だにしなかった彼がここでゆっくりと身じろいだ。かと思えば、ふ、とおもむろに後ろを振りむいて。

 視線が、あった。

 突然のことに驚いた私はそれに全く反応できなかった。蛙吹さんのようにヒラヒラと明るく手を振ってみるどころか、その視線から避けるように顔を背けることさえ。
 幸いにも彼の席は私と黒板の間にある。ノートに書き移そうと見ていたらたまたま目が合ったんだよ、たまたま轟くんが振り向いたからなんだよ、と主張もできるのだけどもちろん彼が私を責めることはない。これはただの事故だった。それだけだ。そう心で言い聞かせ、ほんの少しの勇気を胸に私はペンを持ったまま偶然を装って視線を避けることなく、軽く頭を下げてみる。あらあら目が合いましたね、こんにちは、とでも言わんばかりの表情を浮かべた…つもりだ。もちろん演技なんてものは出来ないので挙動不審だったかもしれないけど。
 向こうも向こうでまさか誰かと目が合うとは思ってもいなかったに違いない。どうして振り向いたのか私も分からなかったけれど、もし私の視線に気が付いていたのならどうしようと不安にもなった。ここできっと、私の想い人が爆豪くんだったらこっち向いてんじゃないわ! なんて怒ってくるんだろうなと何となく思った。……うん、轟くんで本当によかった。驚いたように目を丸くして(これも可愛いなと思った)会釈を同じように返してくれた。なんて律儀。そして今日はなんと幸運な日なんだろう。

(……変な顔してなかった、よね…?)

 ニヤニヤしていたり顔が赤くなっていなかっただろうか。轟くんがまた前を向いたあと、ペンを置いて恐々と自分の頬を触ってみると案の定火照っている。いや、だって、そんな。まさか目が合うだなんて思ってもいなかったし。それにこんな数秒程度のやり取りで精一杯だなんて。さっきまでの疲れが吹っ飛んだようだった。というか、逆に今ので気力的なものがゴッソリと持っていかれたような気がする。その代わり、幸せな気分でお腹いっぱいにはなったけれど。
 授業中にはあるまじき邪念を取り払えるような力は、残念ながら持っていなかった。しばらくはこの数秒間のやり取りを思い出しては顔をニヤけさせてしまうんだろう。さらに言うならばこれを機に話しかけられるようなコミュニケーション能力も当然ない。いつまでもこんなことを思ってるのは不真面目だと自分でもよく分かっているので、切り替えるつもりで頭をブンブンと横に振った。横で誰かが見ていたらきっと不審がられるに違いないけど今は隣の席の人は前の授業のせいで机に突っ伏している。ほんとに助かった。

「ここは試験に出るからなー」

 先生の声に釣られるように、下を向きっぱなしだった視線をあげて、黒板を見る。板書はまだ間に合う。消されてしまう前に早く書き写してしまわなきゃ。
 そう思っていたはずなのに何故か、また、目が合ってしまったのだ。理由なんてわかるはずもない。だって起きている子は皆、先生のその言葉にバッと黒板を見ているだけ。そんな中で後ろを向いている子なんて、このクラスでは轟くん以外いなかった。そして彼はチラッと見ているだけで、そんな彼の行動に気付いている人は誰一人いない。

(……いつから!?)

 私の不思議な行動は果たして見られていたのだろうか。そんなことを考えているだけで心臓がバクバクする。混乱する。勘違いしそうになる。
 だって、ここにはたくさんの生徒がいるのに、まるで世界に私と轟くんだけがいるみたいなんだもん。誰も気付かれていない、私と彼だけのやり取り。さらに、私は彼のことを偶然を装って見ることはできるけれど、彼はそうじゃない。教室の後ろの壁に用があるならまだしも、そうじゃないのであれば私しかいない。
 そして、悲しきかな、私はもう手詰まりだった。こんな時にどうしていいか分からず、轟くんの視線と綻んだ表情を見ているだけしかできないのだ。避けることは、できず。さらに言うと、

「…っ!」

 間違いなく私の名前を声なく紡いだその唇に、すっかり釘付けだった。
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