目を開いて確認することがある。
手を伸ばし、その手で触れ、確認できるまで寝付けないことがある。決してそれは難しいことではない。自分の知っている日常がそこに在るか否かの話だ。どうやら昨夜干した布団の寝心地が良く自分らしくもなく深い眠りについてしまったらしい。大きく伸ばした腕は、指先は何にも触れることなく布団へと沈む。その違和感に目をゆっくり開き視界に確認すべきものがないことが分かった瞬間勢いよく上半身を起こし飛び起きる。部屋全体を見渡した後、更に顔を青ざめさせ立ち上がる。

ない!
ない!
―――居ない!

かつての白蘭を知っている者が居ればこのように驚く事も出来たのかと思えるほどに彼は混乱した。かつての白蘭と相対したことがある者がこの場に居ればこんな恐慌状態に陥ることがあったのかと驚く程に彼は恐怖した。
髪の乱れを気にすることもなく掛け走り、扉を開く。広がるのは白い廊下ではなく薄暗く狭い通路であることに少しだけ安堵はしたが彼の不安は未だ尚取り除かれることはない。例え食欲を刺激する香りがそこに充満されていたとあっても、だ。
よろめき壁に手を付きながら匂いの元へ。歩き慣れているはずの自身の家はやけに広く感じ、また目的の場所までには遠く感じられる。


「……あ、おはよう」

果たして目的の人物はそこに居た。
皿を両手に持ち今まさに食卓へと用意したのであろう食事を並べ始めている彼女の姿を目に留めると白蘭はそのまま彼女を腕に抱きしめ、首筋へと顔を埋める。彼女、夜からすれば何事だろうと思うだろう。恋人である白蘭の為に食事を作っていたにも関わらずどうして離れたんだ等と訳の分からないことを言いながら抱きしめてくるだなんて訳が分からなかったに違いない。
「大丈夫よ白蘭」けれど彼女は驚くこともなく腕を伸ばし白蘭の背を緩やかに撫ぜた。温もりが、呼吸により上下する肩がこの上なく白蘭を安堵させる。ああ、彼女は生きている。生きて、自分の腕の中で大人しく息をしているのだ。

かつて、彼は彼女を殺したことがある。近いようで遠い、遠いようで近い世界の話だ。今生きている世界からおおよそ10年の後の世界にて白蘭は彼女を殺した。理由など特にはなかった。気に入ってはいたのだが己の道には不要なものとして切り捨てた。使えなくなった手駒など自身の手の内にある価値を見出すこともなく白蘭が自ら要らないと宣言し、殺した人間の1人。それが夜という人間である。
しかしその世界は、1番自分の理想に近付いた世界は沢田綱吉という少年の出現により無かったことになった。自分が起こしてきた物事の数々全てが”無かったこと”にされ、殺し、殺されたこともなくなり、そうして10年前の自分へと戻る。あの時の記憶の最後は己が美しい炎に呑まれたことだったか。熱いだとか、苦しいだとか、痛いだとか。そのような感情を抱いたのもあったが、そういえばと白蘭は死ぬ間際に思ったのだ。たった1人、自身を囚えて離さない女がいた事を。どれだけ邪険に扱おうとも、どれだけ不要な人間だと嘲笑おうとも自分から離れようとしない女の事を。
彼女はあの世界で早々に殺してしまったけれど、自分の手で彼女の生を終わらせてしまって良かったのだと思ったことを。歪んだ愛情だと気付くのは、目を開いてからだ。


「どうして君は僕を恨まないんだい」
「また難しい質問をするのね。私がどうして貴方を恨まないとならないの?」

未来の記憶というものは全員に与えられたものではない。アルコバレーノ達が選んだ例の事件で関わった人間達にのみ。彼女に記憶が与えられなかったのは当然のことだ。彼女は誰にも知られることもなく早々に白蘭の手によって摘み取られてしまったのだから。
だからこそ自分と彼女の間には埋められぬ溝がある。彼女は知りもしないだろう。何故想い合っているはずなのにこれほどまでに白蘭が恐れているのかなど。己を抱きしめた腕は未来において、違う役割を果たし彼女の命を詰んでいたことなど。知らせる訳にはいかない。知られる訳にはいかない。そのようなことがあっては彼女は、――自分を恐れ、批難し、逃げてしまうだろうから。

頭を撫ぜるその優しい腕が自分を拒絶することなど耐えられるものか。もう離すまいと決めている。それは歪んだ愛情が育んだ末の依存。それは生まれた後悔が歪んだ末の盲従。彼女が何かを望めばそれを自分はきっとどんな手を使ってでも叶えるだろう。


「生まれてきてくれてありがとう」

だからこそ彼女が何も望まないことが恐ろしい。あの時のように自分は彼女の好意を素直に受け取る事ができないことが何よりも恐ろしい。
白蘭がこの世に生を受けた日。自分が喜んだ食事をこれでもかと並べた彼女の笑みが、姿が、何も見返りなど求めず己の誕生日を祝ってくれる存在が何よりも愛おしい。何かをくれるというのであれば彼女全てが欲しい。だのに未だ恐れ、それを言葉に出来ないこの口を縫い付けてしまいたい。


「さあご飯にしましょう」
「うん」
「愛してるわ、白蘭」

そのような事ですら彼女に言えはしない。白蘭のこの衝動的な言動を彼女は発作のようなものと思い込んでいるのが何よりも救いか。にこりと微笑の彼女は慈愛に満ちていて己の内側に巣食うドロドロとした感情を溶かしてくれるのだが完全に浄化されるまでにはまだまだ時間がかかるだろう。


「…僕もだよ」

目を開いて確認することがある。
手を伸ばし、その手で触れ、確認できるまで寝付けないことがある。決してそれは難しいことではない。自分の知っている日常がそこに在るか否かの話だ。彼女なしの世界はもう、考えられない。
(いつかに無くした夜の続きを)

「生まれてきてくれてありがとうを伝える」リクエストありがとうございました!
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