以前の俺ならば少しの躊躇も無く、それ以外の選択肢なんて最初から無いかの如く選んでいたと思う。
敬愛し、生涯をこの方の為に尽くすと心に決めた十代目の傍ら。
そこから離れるなんて考えられない事だ。
十代目へのこの気持ちが、覚悟が、忠義が変わったわけではない。
けれど俺は、学校で配られた白い紙を前に迷ってしまったのだ。
逡巡し、ペンを持ったまま微塵も動かない右手が自分の事だというのに信じられなかった。
何を迷う必要がある。
そんなの十代目が行かれる進学先一択に決まっているだろう。
第一希望から第三希望までの空欄。
そこに全て同じ言葉を書けば良いだけだというのに、その時頭に過ったのは忠誠を誓った主ではなく、数か月前屋上を去っていったあの男の後姿だった。
あの日、穏やかな顔で去って行ったあの男はこの並盛町で一番でかい高校の特進科へ進んだらしい。
でかい、というのはまあ、その言葉のままだ。
全国規模で見ても一、二を争うぐらい校舎がでかくて敷地が広い。
何でそんなにでかいかというと学科の種類が普通の高校じゃ有り得ないくらい多いからで。
一つの学科で一つの校舎を宛がっていると言っても過言ではない規模で、その学科によってランクもまるで違う。
トップクラスの学力でないと入れない学科もあれば、そこそこの学力で入れる学科もある。
そんな窓口が広く、受け皿も多い学校だから並盛の生徒の八割はこの高校の何れかの学科に進学すると言われている。
現に山本や笹川妹など俺の周りの人間は皆この高校への進学を希望しているらしい。
それはあの男も例に漏れなかったという事だ。
あの男がその高校のトップクラスである学科、特進科へと進んだというのは俺があいつに直接訊いたわけでも、あいつが俺に教えてきたわけでもない。
良くも悪くも有名人なあいつの噂はその気が無くとも勝手に耳に入ってくる。
高校でも入学早々風紀委員長に就き、独裁政治を敷いてるとか、相変わらず指定制服を無視し学ランを靡かせているとか。
数多く聞こえてくる噂のどこまでが本当なのかはわからないが、恐らく殆どが真実だろう。
その噂の中で進学先も自然と知ったわけだが、そこをもし俺も希望すれば問題無く入れるだろう。
内申点がどこまで影響してくるかは知らないが、並盛一の高レベルの学科といえ学力だけで見ればかなり余裕で入れる筈だ。
けれど、俺はだからといって何も考えず「じゃあそこで」とは決める事は出来なかった。
何故ならば、我が敬愛する主は同じ高校でも違う学科を進学先として希望されていたからだ。
同じ高校なら別に良いじゃないかと思うかもしれないが、さっきも言った通りこの高校は普通とは違う。
広大な敷地に学科毎に別々の校舎を利用しているのだから、学科が違えば別の高校に通っていると同じようなものなのだ。
すぐに傍に駆け付けるなんてほぼ不可能だし、勿論学科が違えば授業も違うので会えない日の方が多くなるのはわかりきっている。
俺は十代目の右腕だ。
ならば十代目と同じ学科へ進み、お傍にいるのが当然だろう。
そうわかっているというのに。
あの日から続く寂寥感がそれを踏み止まらせる。
何度あの日屋上から消えた後姿を追いかけたいと思った事か。
けれどその後姿を追いかけるという事は、必然的に十代目とは別の道を進む事を示す。
今まで通り、変わらず十代目のお傍にあり続けるか。
胸に巣くう焦がれる想いに従い、あの男を追うか。
自分の立場からして迷うこと自体あり得ない、迷ってはいけないその二択に俺は結局その日、進路希望の用紙に何も記入する事が出来ずそれどころか一日二日と経ち、気付けば提出期限は間近に迫ってしまっていた。
一向に埋まらない進路希望の空欄。
一向に決まらない俺の心。
そんな俺の状況をもしかしたら気付いていらっしゃったのかもしれない。
リボーンさんが「見識を広げたり深める事も重要だぞ。常に傍にいるだけが右腕じゃねえ」と仰り、十代目も「俺に合わせる必要は無いよ。俺は獄寺くんの本当に行きたいところに進んでほしいな」と仰られて。
そのお言葉で俺の気持ちは決まった。
配られてからずっと鞄に入れられたままだった進路希望調査票。
すっかり撚れてしまったその紙に記入した進学先は、今も未練たらしく恋い焦がれている、あの男のいる学科だった。
「まさか君がここの学科に入ってくるとは思わなかったよ」
入学おめでとう、との言葉と共に入学式後久しぶりに再会した男は俺を見るなりそう言って口角を上げた。
その笑みが心なしか嬉しそうに見えたのは俺の願望故だろう。
男は変わらず黒い学ランを羽織り、その袖には見慣れ過ぎた赤い腕章。中学の時と寸分変わらぬ出で立ちだった。
けれどあの頃よりも俺の胸を締め付けるのはこの男が以前より背が伸び、顔立ちがやや大人っぽくなったせいなのか、それとも雰囲気がどことなく柔らかくなったせいか。
いや、そもそも胸を焦がす相手との再会でただ錯覚を起こしているだけかもしれない。
ともかくその時の俺はあの日消えた男を再び視界に入れられる場所に来れた事が只々嬉しかった。
想いを告げる事無く、その存在を感じられる距離にあり続ける事がどんなに辛い事かわかりもせずに。
いくつもの学科を有し、設備も整っているその高校は並盛町外どころか県外からも多くの生徒が入学してきていた。
そいつらは当然、並盛では知らない者はいない恐怖の風紀委員長、雲雀恭弥の事を知らない。
風紀を乱せば即刻制裁、不良を束ね、教師どころか並盛中の大人が恐れ、高校生にして持っている権力は測り知れない。
そんな異質過ぎる存在をここに来て初めて知った外部の人間は雲雀を奇異や畏怖の目で見つめ、並盛の人間と同じように極力関わらず、逆らわず、という者が殆どだったが中には強者もいるわけで。
見目が良くて屈強な不良共を束ね、しかも実家は金持ち。
この字面だけ見ればかなりの優良物件な雲雀に、女共は群がった。それはもう中学の時とは比較にならないくらいに。
そんな女共に雲雀が靡くはずも無く冷たくあしらっているようだったが、女は強い生き物だ。特に自分に自信がある者は。
只でさえ特進科は学力やら容姿やら家柄やら、ともかく何かしらに自信がある人間が特に多く、雲雀がどれだけ冷たくしようが無視しようが言い寄る女は後を絶たないようだった。
現に俺も入学してから今まで雲雀へ言い寄る女を何度見た事か。
そしてそれを見る度にどれだけ俺の心臓に痛みを与えた事か。
そもそも一生想いを告げる事はしないと決めているくせに嫉妬なんて感情を抱いている時点で自分勝手にも程がある。
嫉妬なんて抱く資格、自分には有りもしないのに全く滑稽で愚かで、迷惑極まりない。
そうわかっていても自分で制御出来ず、思い通りにならないのが恋心というやつなんだろう。本当に厄介でしかない。
…この先、もし雲雀に女が出来たら。その時俺はどうするんだろうか。
心の中では激しく落ち込みながらも表面上は平静を装い日々を過ごすんだろうか。
「お前でも彼女なんて出来んだな」って泣くのを堪えて笑って見せるんだろうか。
それとも人目も憚らず泣き喚くんだろうか。
それはその時にならないとわからないが、何れにしろ俺が自分で選んだ道だ。
どんなに辛く、苦しくてもあいつの傍にいたいと望んだのだから全て受け入れなくてはいけない。
相も変わらず行われている服装検査でのぶつかり合いや偶に屋上で交わされる些細な会話、廊下ですれ違う時に交わされる視線。
そんな本当に小さな星屑のような日常の出来事を噛み締めながら限りある高校生活を過ごすと、そう決めたから。
だから俺は今日も校舎であいつの黒い姿を探しながら軋む音をたてる心に気付かない振りをした。
「…メリーウィドウワルツか。悪くない選曲だな」
授業中の静かな廊下。
まだ残暑の残る生温い風が吹き込む窓の外から聞こえてきた音楽に俺は足を止めて窓辺に肘をついた。
本来ならば俺もいるべき筈の体育館から聞こえてくるのは『Die lustige Witwe』…日本では『メリーウィドウ』という有名なオペレッタで演奏される曲の一つだ。
ある未亡人と一人の男の相思相愛ながらも擦れ違う恋模様を描いた傑作オペレッタ。
その中で未亡人でありヒロインであるハンナが、想いを寄せる男、ダニロの言動に「踊りたくない」と怒り、けれどダニロがそのハンナの手を取りワルツを踊る…そのシーンで使われている印象的な曲だ。
このオペレッタは何度も見た事があるし、メリーウィドウワルツに関しては楽譜無しでも弾けるぐらいにはお気に入りの曲の一つだったりする。
流れる曲のリズムに合わせて肘をつき、指でコツコツと窓枠を叩けば微かに教師の「シャッセ、ナチュラルスピンターン」という指示の声が聞こえてくる。
その声に俺は心底授業をさぼって良かったと息を吐き出した。
今、体育館で行われている授業はもうじきこの学校で催される学校祭の為のもので、ワルツの練習だった。
何故学祭でワルツなのかと思ったが、どうやらここの学祭では有名らしく、目玉の一つらしい。
何でも学祭中、校内の至る所に置かれた赤い薔薇を意中の人に渡し、フィナーレで校庭に灯されるキャンプファイヤーの周りでワルツを踊るというのが伝統だとか。
勿論意中の人間がいない奴だっているし、いても告白なんてしたくない奴もいるわけで、そういう奴らは友人同士で踊ったりするらしい。というか殆どの生徒はそうらしいが、初めて聞いた時はなんつー伝統だと思った。いや、正直今もそう思っている。
最初にこの伝統とやらを始めた奴にどういうつもりでこんな事を始めたんだと問い詰めてやりたい気分だが、これも青春の一ページという事なんだろう。
好きな相手に薔薇を捧げてワルツを踊るなんて高校生にはあまりに洒落過ぎてて大人びてる感は否めないが、そのぐらい日常離れしてる方が勢いに任せてダンスに誘いやすいだろうし、振られてもショックは少なく済むのかもしれない。
ともかく、その一大イベントの為に学祭が近いこの時期は体育の授業がワルツの練習に充てられるわけだがそんなものに参加する気なんて毛頭ない。
今更習わなくてもワルツを始め、パーティで踊るようなダンスは不本意ながら昔教わった為一通り踊れる。
それを特に仲も良くない同級生とペアを組んで練習させられるなんて、苦痛以外の何物でもない。参加する理由が微塵も見当たらない。
それに。
「…踊る相手がいないのに、練習する意味なんてねえだろ」
当日踊る事が無いとわかりきっているのに練習だなんて、虚しいにも程がある。
───あの踊る姿が想像もつかない黒い男は、当日誰かと踊るのだろうか。
そう考え頭に思い描こうとしたが、あまりに想像からかけ離れた姿だからなのか、それとも頭が考える事自体を拒否したからなのか。全くその光景が思い描けなくて一人笑った。
そんな学校生活を送っている内にあっという間に秋は来た。
多くの生徒が待ち遠しく思っていたであろう賑やかさをもって。
「話には聞いていたけど、実際目にすると凄いね」
感嘆するように発せられた十代目の言葉に辺りを見渡しながら俺と山本は同意する。
いつもは生徒と教師しかいない校舎には近隣住民を始めとした一般人が多く行き交い、どこもかしこも見渡す限り飾り付けされている。
客引きする声や笑い声があちらこちらから聞こえ、いつもとはまるで違う光景だ。
少し前までの夏の余韻ともいえる暑さが消え、朝と夜には日によっては肌寒さを感じるようになってきた頃、俺達が通う高校では学校祭が催された。
広大な敷地と校舎を遺憾無く利用した学祭はその規模からかなり有名らしく、来場者の数が半端ない。
それでもそこまでごった返しているように感じないのはやはり敷地の広さ故なのだろう。
そんな広大な敷地にいくつもある校舎の中には至る所に花瓶が置かれていた。
真っ赤な薔薇が活けられた大きな花瓶。
活けられた、とはいえ生花ではなく全て本物そっくりに作られた造花なのだが、そんな花瓶が目の付くところ何処にでも置いてある。
その光景がまたこの学祭に華やかさを添えているのだろうが、もしかしてここで催されているのは学祭ではなく薔薇の祭りなのではないだろうかと思ってしまうくらいそこかしらに薔薇がある。
それを見て十代目は先程の言葉を漏らされたわけだが、確かにこれは本当に凄い。
この薔薇は学祭のフィナーレ、想いを寄せる相手にワルツを誘う時に手渡す物なわけだが、こうも校舎中に置かれていると「絶対誰かと踊れよ」と学校側から圧力をかけられているように感じてしまう。
実際にはそういう訳ではなく、この学校の伝統にあやかって学祭に来た奴らが薔薇を持ち帰っていくらしく、その為に大量の薔薇が置かれているらしいのだが。
何でもこの学祭の薔薇を渡して告白すればその恋は成就するとかしないとか。
そんな力、この造花にあるわけがないだろうに。
そうだ。そんな事あるわけがない。
でも、もし。
もし、この造花の薔薇一本にそんな力があるのなら。
俺はこの薔薇をあいつに。
そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいと緩く首を振った。
目の前に活けられた薔薇は恋愛成就のジンクスを信じてか、それとも深い意味も無く只のお土産としてなのか知らないが、人々が次々と抜き取っていく。
中にはこの学校の生徒もいて、ああ、こいつは今日誰かに告白するつもりなのかと考えたら胸が締め付けられる感覚がした。
「…十代目も笹川に渡したら如何ですか?」
「えっ!?い、いやっ、いいよ!」
きっと渡したら笹川は受け取るだろうと思うのだが、十代目はそう思っていないようで顔を赤くして勢いよく両手を顔の前で振る。
十代目には是非長年想いを寄せる笹川と結ばれて幸せになって頂きたいと思うが、だからと言ってここで俺が無理矢理どうこうしようとか、手伝わなくては!としゃしゃり出るような事はしない。
…まあ、中学の時はちょっとそんな事もしたが、もうそんな本人達の気持ちを無視して暴走するなんて事はしない。
それに十代目はこの事に関しては人の手を借りず、穏やかに関係を進めたいと思っていらっしゃるようだし、何より俺自身、人を想う気持ちが痛いほどわかってしまっているから。
自分の想いを告げる事がどれだけ難しく、勇気がいる事なのかわかってしまうから、だから無理に後押ししようなんてしないし、出来ない。
…けれど、少しのアシストくらいなら良いよな?
確か笹川は午前中はクラスの模擬店の手伝いがあると言っていたが午後からはフリーだった筈だ。
手伝いが終わったら合流しようと笹川にメールを送るため取り出した携帯で文章を打ち込む。
そんな俺の隣で薔薇を見たままぼーっとしていた様子の山本が突然俺の方を見て笑う。
「薔薇と言えば獄寺、今日大変な事になりそうだよな」
「…は?」
全く理解出来ず、ぽかんと山本を見上げる。
くそっ、こいつ高校に入ってからますます背でかくなりやがって。見上げる首が痛くなる。
「だってさ、獄寺モテんじゃん?きっとワルツん時すげー薔薇渡されると思うのな」
「あー、確かに」
いやいやいや、十代目も何故か納得されているが俺がいつもてたというのか。
それを言うならお前の方だろ、と変な事を言い出した野球馬鹿を睨み上げれば何が面白いのかまた笑う。
「獄寺、鈍いからなー」
「…?」
意味が分からずつい視線が訝し気なものになってしまう。
そんな俺を見て今度は十代目が困ったように笑った後、温かい目で俺を見つめられた。
「そう言えば薔薇って女子から渡しても良いんでしょ?獄寺くんは誰かに渡したりはしないの?」
…ああ、このお方はやっぱり俺の気持ちを知っておられたのか。
そのまっすぐ見つめられる琥珀色の瞳には強い、そして深い優しさがあって。
俺は不覚にも目の奥が熱くなってしまった。
決して泣かないけれど。
だって、想いを告げる事はしないと自分で決めた俺が、どうして泣けよう。
「…渡せませんよ。そんな事、出来ません」
あの日、屋上で胸の薔薇を欲しいと言えなかった俺に、この薔薇を渡す事なんて出来るはずが無いのだ。
学祭での一時はあっという間に流れ、日が暮れて夜の帳が下りる。
学校中にいた来場者はいなくなり、敷地内にいるのは生徒や関係者のみ。
その全員が今、グラウンドに集まっていた。
視線の先には天に向かって赤々と燃え盛る火。
フィナーレの始まりだ。
途中で合流した笹川や黒川達も一緒に見つめるその炎は二十メートルは離れているのに俺達の顔を明るく照らし、揺れる。
学祭が終わるという寂しさの中にも緊張感や浮足立っている雰囲気が漂っているのは軽く見渡しただけで数人はいる赤い薔薇を持つ人間のせいだろう。
もうすぐワルツが始まる。
何人もの想いを乗せて奏でられるワルツが。
せめて、その中にあいつの姿が無ければ良いと思ってしまう俺は本当に最低だ。
自分で決めた道ならば、その先に何があろうがしっかりと見なくてはいけないというのに。
暗闇で燃える炎は人を感傷的にさせる。
…今、あいつが誰かと踊る姿なんて見てしまったら、俺は冷静ではいられないかもしれない。
「隼人、あんた踊る相手がいないなら私が一緒に踊ってあげようか?」
「…相手がいる奴と踊るほど落ちぶれてねえよ。誘う相手を間違えてんじゃねえ」
「あいつがワルツなんて踊るように思う?」
「…ねえな」
お道化た風に俺を誘ってきた黒川の言葉に思わず笑う。
確かにあの『極限』が口癖でボクシングしか頭にないような奴がワルツを踊るなんて全く想像が出来ない。
というかそもそも踊れるのか自体疑問に思う。
だがだからと言ってその彼女と踊るのはいくら芝生頭とはいえ申し訳無さがあるわけで。
後々この事であいつに絡まれるのは御免だ、と断れば今度は笹川が「二人が踊るところ見たかったなー、残念」とのほほんと笑う。
俺達のダンスの事よりもお前は早く十代目の気持ちに気付いてくれ、と心の中で苦笑するが二人のお陰で鬱々とした気持ちが少しばかり晴れたのは有難かった。
十代目といい、この二人といい、俺の周りには優しい人間が多過ぎるのだ。
その優しさに甘え過ぎるのは良くない事だと思ってはいるが、今日ばかりは少し甘えても良いだろうか。
周りでは薔薇を手渡し恋が実った者や散った者の様々な声が聞こえてくる。
そんな中無縁とばかりに友人達と笑い合いながら燃え盛るキャンプファイヤーを眺める。
中々に良い青春の一ページじゃないだろうか。
目の奥に熱さを感じながら先程よりも一層燃え上がる炎を見つめれば網膜に光が焼き付いた。
このまま炎が燃え尽きるまで眺めていようと見つめ続けるが、どこからかふと視線を感じそちらの方へ目を向ける。
目に焼き付いた光で目の前がちらつき一瞬その視線の先にいる人間が認識出来なかったが、瞬きを数度して目を細めれば光が薄れ、次第に暗闇に目が慣れる。
認識出来るようになった視界で視線の先を見れば、そこにいたのは全く見覚えのない男子生徒だった。
その男子生徒と目が合った途端そいつは俺に駆け寄り、おどおどとした様子で俺を見つめる。
「あ、あの、獄寺さんっ」
「…何」
全く知らない男に声を掛けられれば警戒するのは当然だろう。
顎を引き、警戒したまま睨み付けるが男はそんな俺の様子を理解しているのかいないのか、目をあちこちに泳がせながらおどおどとした様子のまま何かを差し出した。
それはキャンプファイヤーの灯しかない薄暗い中でもわかる、赤い薔薇だった。
「え…」
「俺と一緒にダンスを…!」
何の事だか理解できず、反応が出来ない。
だが周りはそんな男に触発されたのか、見知らぬ男が数人、同じように薔薇を俺に差し出してきた。
そして口々に俺と踊ってくださいだか、好きですだか言ってくる。
近くで山本がこうなる事をまるで予想していたかのように「ほらなー」と笑っているが当の本人である俺は理解不能で頭が全く働かない。
こいつら、誰かと勘違いしてんじゃねえか?
暗いし、あ、近くに笹川いるし、笹川と間違って…な訳ねえか、さっき俺の名前呼んでたし。
じゃあ何だ、罰ゲームか何かか?そうじゃなければ余程こいつらの趣味が悪いかだ。
でないと自分で言うのもどうかと思うが、こんな素行の悪い男女に惚れる人間がいるわけがない。
…だから、あいつだって俺を好きになるわけが無いのだ。
「やっぱり隼ちゃん、もてもてだねー」と笹川の呑気な声が聞こえた気がするがそんなどころではない。
相手が一人だったら無視するか追い払えば良いが、こんな何人にも薔薇を差し出されればどうすれば良いかわからない。
悪意は跳ね除ければ良いが、好意に対しては一体どうすれば良いのか。
対処の仕方がわからないものに恐怖を感じてしまい、僅かに後ずさりをしてしまう。
その時だった。
周囲の空気が一瞬で変わった。
楽し気でどこか浮足立った雰囲気だった場が静かになり、ざわつき始める。
一瞬ワルツが始まったのかと思ったが、曲も聞こえてこないしそんな様子も無い。
一体何が起きている?
周囲を見渡せば周りが皆一様に同じ方向を見ていて、俺もそちらに視線を向ける。
すると視線の先、人波が綺麗に自分に向かって道を作るように分かれていくのが見えた。
まるでモーセの十戒みたいだな、と頭の片隅で思ったのは一瞬で。
今度こそ俺の思考は停止した。
モーセが起こした奇跡が如く、海ではなくこの人波を割った人物を見てしまったから。
「ひ、ばり…」
こんなにも暗いのに、何故あいつの姿だけははっきりと見えてしまうのだろうか。
黒い髪に黒い学ランなんて普通闇に溶け込んでしまいそうなのに、不思議なくらい闇夜に浮かび上がり俺の瞳に映る。
視線の先の黒い瞳はまっすぐと俺を見据えながら徐々に距離を詰めてきて、俺はそれから目を逸らす事も出来ず固まっていた。
雲雀は何を言うわけでも無く只歩いているだけなのだが、周りの人間は雲雀を避けるように退いていく。
それは俺に薔薇を差し出していた男達も同様で、雲雀が近くまで来た途端道を開けるように後ずさりした。
気付けば俺の近くには十代目達と目の前の雲雀のみ。
その他の生徒達はこの異様な雰囲気に固唾を飲みながら、無言で遠巻きにこちらを見ている。
これ、本当に学祭中か?というくらいの静寂が耳に痛い。
何でこんなに注目されてんだ…?
只雲雀が歩いて俺達の所までやってきただけだ。
それだけなのにこの注目度は異常だろう。
確かに雲雀は有名人だ。
全校生徒知らない者はいないだろうし、この高校でも恐怖の象徴だ。
だが只歩いているだけでこんな風に注目される程にはならない筈だ。
校舎を歩いていたって恐怖から避けられる姿はいつも見ているが、ここまで異様な注目を浴びているのは見た事が無い。
何で今日に限って…とふと雲雀の手元に目をやって、気付いてしまった。
「…っ…!」
赤い、薔薇だ。
肩から掛けている学ランで手元が隠れていてさっきまで気付かなかったが見えてしまった。
雲雀があの赤い薔薇を一輪、手に持っている。
それに気付いた途端、心臓が大きく拍動を始めた。
胸が、苦しい。
日が落ちて涼しいぐらいの気温の筈なのに汗が滲み始め、立っている感覚さえ無くなっていく。
薔薇を持つ雲雀を、見たくなかった。
その薔薇を、誰に渡すんだ?
それとも、誰かから渡されて受け取ったのか…?
周りの奴らも「あの雲雀が」と薔薇を持っている姿に驚愕しているのだろう。
だからこんなにも注目されていたわけか。
そりゃそうだ、無理もない。あの群れる事を嫌い、何にも縛られない、愛だ恋だというものと無縁に思われていた恐怖の風紀委員長、雲雀恭弥が。薔薇を持っているなんて。
こんなの誰が想像しただろう。
呆然と俺が見つめる先、目の前の雲雀が薔薇を持つ右手を持ち上げる。
それが堪らなく怖くて逃げ出したくて。
けれど俺を見つめる黒い瞳がそれを許さない。
なんなんだよ。態々俺の前まで来て、そんな薔薇を見せつけてどうする気なんだこいつは。
もしかしてこいつは俺の気持ちにとっくのとうに気付いてて、他の女から貰ったとか、渡すつもりだとか言って俺に諦めさせようとしているのだろうか?
汗ばむ体から血の気が引いていき冷えていくのが分かる。
今すぐ走って逃げ出したい。けれど感覚の無い脚は地面に縫い付けられているかのように動かなくて。
やめてくれ、やめてくれと願いながら雲雀を見つめ返す事しか出来ない。
まるで処刑を待つ罪人の気分だ。
そんな俺の心情を雲雀がわかるわけも無く、無慈悲に薔薇を持つ手は俺へと向けられ、そして。
俺の耳にかかる髪をそっとかき上げ、そこに持っている赤い薔薇を刺した。
ずっと、あの時から欲しいと願っていた雲雀の薔薇が。
俺の髪を掻き分け、耳の裏側に引っ掛けられ、彩る。
「え…」
「獄寺、僕と踊ってよ」
瞬間、女の悲鳴やら男の落胆するような声が周囲に響いた。
驚愕や動揺の空気が場に満ちるがそんな中俺だけが時間が止まったように固まっている。
聞き間違いかと思った。
聞き間違いに違いないと思った。
けれど雲雀の逸らされる事ない真剣な瞳が聞き間違いなんかではない、間違いなく俺に言っていると訴えてくる。
「な、んで…」
「僕が君と踊りたいと思ったから」
それ以外にある?と当然とばかりに言ってくる雲雀についていけず、戸惑ってしまう。
だって、あの誰にも縛られない男が、しかも俺になんて、
「おまえ、薔薇を渡す意味、わかってんのか…?」
「知ってるに決まってるでしょ」
もしかして知らずに渡してきたんじゃないかと思ったが、そんなわけは無かったらしく不機嫌そうに眉根を寄せる。
そりゃそうだよな、新入生ならまだしももう二年だし、風紀委員長のお前が学校で知らない事なんてある筈が無い。
でもそんな事を考えてしまうくらいに俺は今のこの状況を信じられないのだ。
「じゃ、じゃあ、相手を間違って…」
「そんなわけ無いでしょ」
深閑としたグラウンドに雲雀の溜息が落ちる。
今の溜息からも雲雀が俺の発言に呆れているのがわかるが、そんな簡単に信じられるわけがない。
雲雀が俺に対してそんな想いを抱いていたなんて今の今まで、欠片程も知らなかったのだから。
「だってお前が俺とダンスなんて、」
「僕は君としか踊りたくないし、君以外と踊るつもりもない」
それは即答だった。
半ば俺の言葉を遮るようにして発せられた言葉はあまりにも真摯で、言葉を失ってしまう。
こんな言葉、聞ける日が来るなんて思わなかった。夢にも思わなかった。
お前から好意を向けられるなんて少しの可能性も無いと、考えた事すらも無かった。
胸の奥から込み上げてくる何かに涙が溢れてしまいそうで、奥歯を噛み締めて堪えたら喉がぐっと鳴った。
きっと今、自分は酷い顔をしていることだろう。
ずっとずっと胸を焦がし続けていた感情が溢れ出るのを必死に堪えている顔なんて酷いに決まっている。
そんな俺見つめたまま、雲雀が手を差し出す。
さっきまで薔薇を持っていた右手を。
「踊ってくれるよね?」
俺が手を取らないなんて可能性を少しも思っていないのだろう。
自信に満ちた笑みで俺を見る。
…ずっと焦がれていた男にそんな笑顔で、そんな風に言われて。
そんなの、断れるわけが無いだろ。
差し出された雲雀の手の平に僅かに震える冷え切った自分の手を乗せる。
…そう言えば、こいつの手にまともに触れるの、初めてかもしれねえ。
雲雀の想像していたよりもずっと大きく、かさかさとした手が俺の手をそっと握り、そして満足気に目を細め笑う。
エスコートなんてものは無い。ぐいっとそのまま腕を引っ張られたかと思うとすぐにキャンプファイヤーの元へと向かう。
只腕を引かれ、踊る為に用意されたキャンプファイヤーの近くの開かれた場所まで連れてこられる。
それだけで俺の心臓はばくばくと激しく音を立て今にも倒れてしまいそうだった。
未だ周りは静寂に満ち、視線は俺達に注がれているのがわかる。
連れて来られた場所は踊るスペースだというのに俺達の他には誰もいなくて。
そんな中、雲雀は周囲を全く気にした様子も無く握っていた手を離し、俺の背に右腕を回した。
そして左手で俺の右手を握りなおす。
ワルツの姿勢だ。
握られた右手が、熱くて。
密着する体の熱さと、至近距離で香る雲雀の匂いに力が抜けて体がふらついたが、雲雀の右腕が支えてくれた。
ぱっと見細く見えるのに支える腕が力強くて、そこに男を感じてしまい体温が上がる。
さっきまで冷えていた体が嘘のようだ。顔が熱くて仕様が無い。
「獄寺」
「う…」
あまりにも優しい声で促され、恐る恐る左手を持ち上げ。雲雀の肩に添える。
それをまるで待っていたかのようにタイミング良くメリーウィドウワルツが周囲に流れた。
雲雀がぐっと俺を抱き寄せ、ホールドしたまま脚を動かす。
ワルツが、始まった。
踊る事は無いと思っていたワルツが。
音楽に合わせて、雲雀にリードされるがまま流れるようにステップを踏む。
雲雀のリードは悔しい程に完璧だった。
何の不安も無く全てを任せられる。そんな胸の中、けれども俺は足元ばかりを見ていた。
そもそも初心者ではないし、ワルツのステップなんか頭に入っているどころか体が覚えている。
足元を確認する必要なんて無いのだが、俺はどうしても顔を上げられなかった。
だって顔を上げてしまえば、そこには、
「獄寺、顔見せて」
畜生。こいつ、絶対わかってて言ってやがる。
そんな優しい声で、耳元で囁くな。
そんなの、逆らえなくなるだろ…!
顔が熱くて熱くて堪らない。
きっと今の俺はキャンプファイヤーの炎しか灯の無いこの場所でもわかってしまうぐらいに顔が真っ赤に違いない。
こんな体を密着させて手を握り合って。
それだけでも限界ぎりぎりだってのに、至近距離で見つめ合ってしまったらもう耐えられそうにない。
そう思って頑なに顔を上げないよう足元を見ていたっていうのに、意地の悪いパートナーはそれを許してくれない。
「獄寺」
再度囁かれた低い声。
腰から下の力が抜けてしまいそうなその声に促されて、顔をゆっくりと上げる。
見上げた先、炎で赤く照らされた整った顔が優しく微笑んでいた。
「…っ」
あの日、屋上で見た記憶の中の笑みに重なる。
けれどあの時よりもずっと優しくて蕩けるような笑みだ。
その中で灯に照らされた煌く黒い瞳が俺を見つめていて。
「ヒバリ…」
目を逸らす事が出来ない。
見つめ合ったまま音楽に合わせて体は流れていく。
雲雀の黒い学ランが靡き、俺のプリーツが揺れる。
動く度にローファーで踏みしめられたグラウンドの砂が鳴り、周囲の視線は変わらず俺達に全て注がれている。
けどもう何も気にならない。
目も耳も思考も、向けられる先は目の前の男にだけ。
『メリーウィドウ』では最終幕、メリーウィドウワルツに合わせてハンナとダニロが愛を歌うのだ。『唇は語らずとも』を。
唇で愛を語らずとも手を握り合えば、愛していると聞こえると、歌うのだ。
メリーウィドウワルツが流れる中、その通りだと思った。
言葉は無い。
けれどこうして握り合う手と、俺を見つめる煌く瞳が何よりも雄弁に語るのだ、愛を。
その伝わる想いに、俺の瞳から涙が一筋零れ落ちる。
俺の想いも伝わればいいと揺れる水面の中黒を見つめれば、目の前の男はわかってると言わんばかりに微笑み、俺の濡れる目元に口付けた。