憧憬が恋慕へと変わるのに時間は然程かからない。
そう知ったのはいつだったか。
はっきりとは覚えていないが黒曜との戦いの時には既にあいつへと向ける感情は恋慕へと変わっていたように思う。
…当時の俺は恋慕どころか憧憬という感情さえも認めるどころか自覚していなかったが。
敵を捩じ伏せる圧倒的な強さに焦がれた。
まっすぐと背筋を伸ばし前だけを見つめる強さに焦がれた。
決して逸らす事の無い黒玉の瞳に焦がれた。
折ることを知らないその誇り高さに焦がれた。
獄寺隼人は『雲雀恭弥』という存在全てに焦がれ、惹かれていた。
自分の事ながらあまりの女々しさと重たさに苦笑を禁じ得ない。
イタリアで『スモーキン・ボム』と呼ばれていた悪童は一体何処へやらだ。
俺でさえ思うのだから以前の俺を知っている奴が今の俺を見たら確実に目を見張り驚くだろう。
けれどこれは紛れもない真実なのだ。
十代目の為に命を懸け、恋愛のれの字も無かったイタリアンマフィアの女は一人の男に恋をした。
縛られることを良しとしない孤高の浮雲に。
どうせ恋をするなら、もっと望みのある男にすれば良かったのに。
そう自分自身に思うが、すぐにそんな事はあり得るわけもないと笑う。
何故ならば自分は雲雀恭弥だから好きになったのだから。
これが他の男ならば絶対に恋い焦がれることなど無い。
そう自信をもって言い切れる。
けれどやはり、この恋は成就する事など無いのだ。
縛られることを何より嫌う雲雀恭弥という男が恋人を作るなんて到底考えられない。
しかもそれが彼の男曰く「群れ」という集団に属し、尚且つ日頃から反発し続けている相手ならば尚更。
それに付け加え、女として如何なものかと一般的には眉を顰められるような言動と性格。
こんな女、あいつじゃなくても男なら皆御免蒙りたいと思うだろう。
最初から、そう、出会った時から。
この恋は実る可能性はゼロだったのだ。
けれど好きになってしまった。
幾度となく足を運んだ校舎の屋上。
見上げた先には苛立ちさえ覚えるくらいの晴天で。
そこに向かって煙草を咥えていた口から紫煙を吐き出した。
ゆらゆらと細く上がっていく煙は風に煽られ呆気なく霧散する。
自分のこの行く先も無い恋心も煙のように消えてしまえたらどれだけ良いか。
そんな女々しい考えに一つ舌打ちをし、まだ半分以上残っている煙草を携帯灰皿で消した。
女らしさの欠片も無い自分がこんなにも女々しい感情を抱いてる事の何て気持ち悪い事か。
叶う事は無いとわかっていながらも捨てる事も出来ない。
よく恋を忘れるには新しい恋をすれば良いと聞く。
だがそれも出来ないならばどうすれば良いのだろうか。
この想いを超える程のものを抱く相手がこの先現れるなんて到底思えない。
あいつ以上に焦がれる相手なんてこの先現れるわけが無いと自信を持って言える。
ならばこの朽ちる事の無い想いはきっと一生抱えていくしかないのだろう。
この身が朽ちるその時まで。
「…全く厄介なもんだな」
恋の病とは良く言ったものだ、とつきりと痛みを感じる胸元を制服の上から握りしめる。
その時、耳に微かに聞こえたのは体育館から流れる『旅立ちの日に』という合唱曲。
日本の卒業式では定番の曲らしいそれは自分には馴染みの無いものだというのに胸の痛みを助長させる。
こんな感傷的になるのも全てこの卒業式という日の所為だ。
今日、この並盛中学校から三年生が巣立つ。
そこには「いつでも自分の好きな学年」と言っていたあの男も含まれていて。
それはイコール、明日からはこの学校をいくら探そうとあの男はいないという事だ。
もう毎日のように会う事が、無くなる。
とは言え、別にあいつ並盛から離れるわけではないし、どうせあいつの事だ、高校に入ってからも並盛のパトロールも変わらずするのだろう。
そう考えれば全く会えなくなるわけでは無いと頭ではわかっているのに。
それでも「学校に行けば必ずあいつがいる」という今までの当たり前が。その日常が。無くなる事が酷く自分を不安にさせて仕様が無い。
「遠くに引っ越すわけでもないし、すぐに会えるだろ」という考えが出来る程、自分は大人になりきれていない。
そう、子供なのだ。
だから俺は卒業式に出席せず、こうして屋上にいる。
雲雀が卒業するという現実を見たくなくて、逃げたのだ。
卒業式に出席している雲雀を見ようが見まいが、現実が変わるわけではないというのに。
どうしようもない思いを誤魔化そうとポケットに仕舞われている煙草へと再び手を伸ばす。
その瞬間、背後のドアが軋み、開かれる音が響いた。
誰かが、屋上に来た。
今は式典の真っ最中だ。
教員は勿論、卒業生も在校生も全員が体育館にいるはず。
にも関わらず自分以外に屋上に来た人間がいる。
一体誰が。
いや、誰かなんてそんなのわかっている。
何で、来やがったんだ。
お前を見たくなくて、ここに来たというのに。
「式典に参加もせずにさぼるなんて相変わらず良い度胸してるね」
「…その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。先輩」
「僕があんな群れてる場所に行くわけがないでしょ」
ゆっくりと振り返ればそこにいるのは予想通り恋い焦がれた最も会いたくなかった男。
黒い髪を靡かせ、俺の隣まで歩いてくる。
左胸には『卒業おめでとう』と書かれた赤い薔薇の胸花が着けられており、その似合わなさに思わず笑ってしまった。
「何?」
自分の姿を見て俺が笑われた事が気に食わなかったのか、雲雀が片眉を上げて目を細めながら俺を見る。
「いや、似合わねえなって思って」
そう。似合わないんだよ。
お前に卒業は似合わない。
「好きで着けてるわけじゃない」
「そういやお前、いつもの学ランはどうしたんだよ」
いつもと違うのは胸の赤い花だけでは無い。
こいつのトレードマークとも言える、いつも肩に羽織っている黒い学ランが今日は無かった。
ネクタイも締められていない只の白い長袖ワイシャツに赤い風紀の腕章を着けているだけ。
その姿は胸花とも合わさり、違和感しかない。
「草壁に今日は着ない方が良いと言われて応接室に置いてきた」
「は?何で」
今日は特に暑いというわけではない。
なのに何故脱ぐ必要があるのかと見つめれば、雲雀は腕を組みどこか面倒臭そうに息を吐いた。
「…卒業だから、釦を取られるって」
「…ああ、成程な」
そういえばクラスの女子も第二釦が欲しいとか言ってる奴がいたな、と思い出す。
意味が分からなくて十代目にお聞きしたら、卒業する時、心臓に近い位置にある第二釦を好きな男から貰うという昔からの風習が日本にはあるとか。
要するに卒業という最後のチャンスを利用しての告白行為という事だろう。
この雲雀という男は恐怖の風紀委員長として全校生徒どころか並盛全体から恐れられているくせに、その外見からか何故かもてる。
いつも通り学ランなんて着ていたら最後だからと今まで声もかけれなかった女共が第二釦欲しさに殺到すると草壁は考えたのだろうが、きっとその考えは間違っていない。
…何せ、その風習を聞いて心の片隅にでも「欲しい」と思ってしまった馬鹿な女がここにもいるのだから。
「君、今日ぐらいは身なりちゃんとしたら?胸元開けすぎ。スカート短過ぎ。風紀が乱れる」
いつもと違い、違和感だらけの雲雀の口から出たいつもと同じ言葉に、注意されているというのにどこか嬉しさと安堵を覚え笑う。
この言葉が嬉しく感じる日が来ようとは。
やはり自分は重症らしい。
「下にスパッツ履いてるから風紀は乱れませんー」
「そういう問題じゃない。それにじゃあ胸元はどうなの。只でさえ君胸大きいんだからそんなに開けてると目のやり場に困る」
「やだー、雲雀先輩えっちー」
「咬み殺すよ」
出会った頃は想像も出来なかった、二人きりになった時だけの軽い応酬。
こんなやり取りが出来るくらいには俺達の距離は近くなっていた。
けれどこれも今日で最後だ。
「明日からは僕いないんだから、ちゃんとしてよ」
じゃあ、
じゃあ、卒業なんかするなよ。
明日からもお前が服装検査すれば良いだろ。
けれどそんな我儘を言えるような子供ではない。
どうしようもない気持ちを自分に言い聞かせて納得させれるくらい大人でもなければ、形振り構わず我儘を言えるぐらい子供でもない。
結局どうすることも出来ない中途半端な自分に奥歯を噛み締めた。
「…お前、何しに来たんだよ。態々注意しに来たのか?」
雲雀から視線を逸らし、口から出た言葉は奥歯を噛み締めたせいか喉の奥から搾り出したような若干掠れたものになっていて。
その様に内心舌打ちする。
そんな俺の様子に気付いているのかいないのか。
雲雀は、ふ、と笑い、校舎を見下ろし、そしてゆっくりと俺へと視線を戻した。
その目は今までに見た事の無い、酷く穏やかなもので。
やっぱり俺はその目を見ていられなかった。
「目に焼き付けておこうかと思ってね」
「…お前、本当学校好きだよな」
「そうかな」
「そうだろ」
二人きりの静かな屋上に拍手の音が聞こえてくる。
恐らく式が終わり、卒業生が退場しているのだろう。
卒業生を送る拍手の音。
卒業式が、終わった。
終わってしまった。
「…終わったみたいだな」
「そうみたいだね」
じゃあね。
そう言って穏やかな表情のまま雲雀が背を向ける。
ああ。
そう言って俺は屋上から出ていく後姿を見送る。
どうせ実らないとわかりきっている恋。
何も告げる事なんて無かった。
けれど、もし。
第二釦の代わりにその左胸を彩る赤い薔薇が欲しいと言ったならば、お前は、
「…なんてな」
全くらしくない。
こんな事を考えてしまうのも全て、今日という日の所為だ。
煙草を一本取り出し、火を点ける。
もう屋上の扉が開かれる事は無い。
煙を吐き出して見上げた青空は目の奥が痛くなるくらい眩しかったが涙なんて出やしなかった。