此処の庭は好きだ。
 広い屋敷に見合うだけの広い庭。
 様々な植物が植わっている其処は山中の村で暮らしていた俺にとって唯一心落ち着く場所だった。
 下駄をからころと鳴らしながらゆっくりと歩く。
 冬が終わり春になり始め緑の香りがする。暖かくなってきたとはいえまだまだ花は蕾のものが多い。
 そんな中地面に咲く紫の花を見付け、俺は思わず傍らにしゃがみ込み、覗き込んだ。

「…キランソウ、此処にも咲いてるんだな」

 春に咲くこの小さな紫の花は村の近くにも咲いているのをよく見た。
 懐かしい光景を思い出し、自然と口が綻ぶ。
 村から連れて来られたのはつい最近の事だというのに、酷く懐かしく感じてしまう。

 村の皆は、姉貴は、元気でやってるだろうか。

 感傷に浸ってしまうのは体が確実に弱り始めているからだろうか。
 体が衰弱していくのは仕様が無いとしても、心が弱ってしまうのは良くない。そう思い己の弱気を払おうと頭を振る。
 どんな最期が訪れようと、笑ってその時を迎えようと自分で決めたのだから。
 でないと死ぬとわかっていながらも俺の為に屋敷を出て、村へと移り住んだ母さんにあまりに申し訳ない。
 母さんのように、最期は笑って死にたい。
 母さんと、そして姉貴に愛されて、俺は幸せだったと。心から笑って永遠の眠りにつきたい。

 そういえば母さんは花が好きだったな、と紫の花を見つめながら触れようと指先を近付ける。
 けれど耳に届いた何人かの話し声に、その指は花に触れる前にぴたりと止まった。

「……?」

 屋敷の方から聞こえてくる声。
 庭に出る前、部屋にいた時にはそんな声は聞こえてこなかった。
 庭に出た後に客人でも来たのだろうか。
 今、主である黒豹はいつもの如く野良狩りでいない。屋敷にいるのは俺と草壁だけだ。
という事は誰かが草壁と話をしているのだろうか。

 特に理由は無い。只何となく気になってしまい、花へと伸ばしていた指先を引っ込め、立ち上がる。
 そして此処まで来た時と同じようにからんころんと下駄を鳴らしゆっくりと屋敷へと戻った。
 踏石で下駄を脱ぎ、縁側へと上がる。
 そうすれば一層話し声が己の長い耳へとクリアに届いた。
 声がする方へ向かう。廊下に面する襖を開けると更にはっきりと聞こえた声とその方向から客間等ではなく玄関で話している事がわかる。
 廊下を曲がった先にある大きな玄関はここからでは見えない。
 なので姿は見えずとも音に敏感なこの長い耳は話している人物が草壁と年寄り数匹だという事がすぐにわかった。
 そしてその話している内容も。


「…しかし、先日村からお迎えしたばかりですが」
「あれはあくまで保険じゃ。お主もわかっておろう」
「雲雀様はこの町の長。長の番が草食動物では体裁が些か良くない。あれは繁殖用の相手として置いておき、別に肉食動物の雌を迎えれば良い。無論正妻としてな」
「全く雲雀様にも困ったものよ。草食動物の、しかも雄に花印など…」
「良いか、正妻候補はこちらで決めておく故。お主は雲雀様にしっかりと伝えておくのだぞ」
「先代といい、全く勝手な事ばかりされる」


 途中からだが草壁は殆ど喋ってなかったように思う。けれど相手の年寄り達は言うだけ言って気が済んだのだろう、玄関の引き戸が開けられる音がし、外へと出て行く気配が感じられた。
 再び引き戸の動く音がし、訪れる静寂。それから疲れを滲ませる溜息が聞こえ、俺は静かにそちらへと近付いた。

「草壁」
「隼人さん…」

 余程さっきの話は彼を疲弊させるものだったのだろう。
 気配を消して近付いた訳でもないというのに俺の存在に気付かなかったらしい草壁は僅かに目を瞠り、そして決まりが悪そうに視線を逸らした後俺に向かって頭を下げた。
 この屋敷に来た時から思っていたが、いくら仕える主の所有物相手とはいえ草食動物に対して頭を下げるなんて本当この肉食動物は変わっている。

「町の長への言葉としては随分強気だったな」

 強さがものを言い、上には絶対服従というのが肉食動物だ。
 この町で一番強いのは長である黒豹、雲雀恭弥で間違いない筈。
 けれど先程聞こえてきた言葉の数々は不満を微塵も隠す気の無い厭味ったらしいもので。本人を前に直接言った言葉ではないとしても、とても長に対するものとは思えなかった。
 長く草食動物の村にいた俺が知らないだけで、実際はこんなものなのだろうか。
 それともこの町が違うのか。
 肉食動物達が草食動物の知識を持っていないのと同じように、俺もこの町の事を、雲雀恭弥の事を何も知らない。

「町の者があのような言葉…不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」
「いや、それは別に気にしてねえけど…」

 全ての肉食動物がそうではないとしても、多くの肉食動物が草食動物をそういう風に考えているのを知っているし、現に自分もそういった考えの元此処に連れて来られた。
 それに対し何かを思う事も、抗うつもりも無い。
 さっきも思ったが本当に変わった奴だと再び下げられた草壁の顔を見つめる。
 草壁は身長がかなり高い。草食動物である俺からするとあの黒豹でさえ頭一つ分位大きいのに、その彼よりも大きい草壁は見上げる程で。頭を下げているにも関わらず俺からは草壁の顔がはっきりと見えた。
 その表情はさっきの件を抜きにしても曇って見える。

「草壁?」
「…恭さんは元々この町の肉食動物ではないのです」

 顔が上げられ、曇った顔のまま告げられたその言葉はさっきの俺の言葉に対するものだと気付く。
 凡そ町の長に向ける物言いではないという言葉への。

「他所の町から来たって事か?」
「いえ…野良です」
「…野良」
「野良の、捨子だったんです。その捨子だった恭さんを先代の長が拾い、後継ぎとしたのです」

 成程、それならさっきのあいつらの言葉も合点がいく。
 草食動物からは勿論だが、野良は町の肉食動物からも嫌われている。
 何故なら野良は草食動物の村だけでなく、肉食動物の暮らす町にも現れ盗みを働くからだ。
 食料や草食動物を盗み、時にその町に住む肉食動物と戦闘になり命を奪う事も少なくない。
 忌むべき無法者。それが野良だ。
 捨子とはいえ元野良ならば良くない感情を持っているのもいるだろう。

「先代には子供も奥様もいらっしゃいませんでしたから。…ですが、その先代も恭さんを拾われて僅か数日後に亡くなられました」
「…何で」
「山を巡回中に、野良に」

 野良は集団で行動する。長だったという位だから強い肉食動物だったのだろうが、集団で襲われてしまえばひとたまりも無い。
 実際野良に襲われたであろう肉食動物の死骸が山中にあったという話は俺のいた村でも時折聞く事があった。
 恐らく先代もそうだったのだろう。

「先代が亡くなられ、すぐに次の長の候補者が立てられました。その長候補をまだ幼かった恭さんが倒し、新しい長になられたんです。幼い子供が長候補である肉食動物を倒した。しかもその子供は先代を亡き者にしたのと同じ元野良。上の者は反感を抱き、屋敷で働いていた者や多くの町民は恭さんを畏れ、近付こうとしませんでした」

 恭さん自身、他と群れる事を嫌ってたというのもありますが、と草壁は言ったがそれは果たしていつからなのだろう。
 先代に拾われる前からそうだったのか。だが例えそうだったとして、この町の彼に対する態度が、視線が、言葉が。彼のそういった性格に拍車をかけたのではないだろうか。
 だって温もりを与えられなければその体はどんどん冷えていき、そしてやがて思うだろう。
 温もりなんて無くても生きていける。そんなもの不要だ、と。

「それから十年経ちますから当時と比べると大分マシになりましたが、それでも未だにあのように申してくるのです」

 胸が苦しい。痛い。
 とても悲しいと、そう思った。

 黒豹の事を野良狩りしか頭にない、何を考えてるか分からない奴と思っていた。
 でも違った。
 彼は他者との接し方を、愛し方を知らないだけだ。
 愛された事が無いから、だから愛し方を知らない。誰かを愛するという事がどれだけ幸せな事なのかを知らない。
 それはとても悲しい事だと思った。

 俺には母さんが、姉貴がいた。でも彼には誰もいなかった。

『隼人。誰かを愛するというのはとても幸せな事なの。だからお母さんはこんなにも毎日幸せなのよ』

 母さんはそう言っていた。
 日に日に衰弱し、起き上がる事も出来なくなったベッドの上で少しの曇りも無く笑ってそう言っていた。
 その言葉が決して強がりなどでは無い事を俺は知っている。
 だって俺は母さんと同じ兎だから。愛する事、愛される事の大切さを誰よりも知っているから。

 愛されないと死んでしまう種族だから、愛の大切さを誰よりも、身をもって知っている。


 昔、母さんはまだ小さかった俺を連れて肉食動物の町を出た。
 母さんは詳しく話してくれなかったが、それは屋敷の動物達や父の親族達から陰で色々言われ、蔑ろにされていた俺を守る為だったんだろうと思う。
 実際俺を何処かに売ろうかという話も出ていたのを知っている。
 父には他に肉食動物の雌がいたし、肉食動物の子供である姉貴もいた。
 だから草食動物の雌とその子供が居なくなったところで家的に問題無いと母さんは考えたのだろう。
 母さんと父の間にどういうやり取りがあったのか、それは知らない。ともかく母さんは俺を連れて屋敷を出た。
 そして山の中にあったあの草食動物の村に辿り着き、そこで暮らし始めた。
 兎は愛されないと徐々に衰弱し、死んでしまう。
 俺は母さんが愛してくれていたから大丈夫だったけど、母さんは花印が刻まれた兎だったから違った。

 花印が刻まれた兎は刻み付けた相手からの愛でないと駄目だから。

 父と離れ、母さんは見る見る内に弱っていった。
 それでも母さんは毎日笑っていた。幸せそうだった。
 屋敷の使いが届けてくる父からの手紙をいつも嬉しそうに読んでいた。
 父も母さんを愛していた。
 けれど手紙のやり取り程度では体調を戻すまでには至らない事を俺も母さんも、そして父もきっと知っていた。
 兎の中でも弱い銀兎は直接触れて愛されなければ生きていけない。
 俺の事を心配し姉貴が村にやって来た次の日、安心したのか母さんは微笑みながら眠るように息を引き取った。
 最期の最期まで父を愛し続けた母さんはやっぱり幸せそうだった。

 母さんの姿を脳裏に浮かべ、思う。

 誰かを愛する大切さをあの黒い肉食動物に教えてあげたい。

 別に彼に愛されたいわけじゃないし、愛してもらえるとも思っていない。
 只愛し方も愛され方も知らない彼に、愛し方を教えてあげたいと思った。
 誰かを愛する事はこんなにも幸せで、愛される事はこんなにも温かいのだと、教えたい。
 これから先彼はきっと何匹もの雌を娶るだろう。その時にその相手をちゃんと愛せるように、この先の彼の人生が温かく幸せに満ちたものになるように。

 ───よし、決めた。

「…草壁」
「はい」
「ちょっとお願いがあるんだけど…」

 俺の命が燃え尽きる残り僅かな時間、その全てを彼の為に使おう。
 いつか彼に町の動物達皆に認められ、祝福される相手が見付かる、その時の為に。
 その相手を愛せるように、俺が彼に愛し方を教えよう。
 その為にまず俺が出来る事は───。










 山の見回りを終え、日が暮れ明かりの灯る町の道を歩く。
 闇に紛れて群れで襲撃を仕掛ける事の多い野良への対策として日が落ちると町中の明かりと言う明かりが全て灯る。
 外灯は勿論、軒先に数多く吊るされた提灯全てが灯り、町全体が橙の光で染まる。
 それは山の上から見るとまるで燃えているように見える程だ。
 夜でも時に眩しさから顔を顰める事もあるその明るさは正直好きな物では無いが、襲撃のリスクを考えると消す訳にもいかない。
 野良を全て咬み殺せばそれも可能なのだが、まるで無限に湧いて出ているかのように野良はいくら咬み殺せど現れる。
 特に最近は冬が終わり暖かくなってきたのもあり、野良の動きは活発だ。
 お陰で見回りの範囲が広く、時間も長くなっている事に苛立ちを覚えつつ、町の中央にある己の屋敷へと帰った。
 いつも通り出迎える草壁の横を通り真っ直ぐに浴室へと向かう。
 向けてくる視線も顔色を窺う言動も何かと鬱陶しく、草壁だけを残し全ての使用人を立ち退かせた屋敷に今は数日前から草食動物が一匹住んでいる。
 早く妻を娶れだの世継ぎを作れだの飽きもせずに言ってくる奴らを静かにさせる為に花印を刻み連れ帰ってきた銀色の兎。
 煩いようなら離れにでも移動させようかと考えたが、兎は特に不平不満を言う事も無く、進んでこちらに接触してこようとしない為三匹となった屋敷の生活は今までと何ら変わりがない。
 野良狩りで汚れた体を洗い、着替えてから広間へと向かう。
 道中兎がいる部屋の前を通ったが、中を覗く事も声を掛ける事もしない。
 そのまま素通りし、食事が用意されているであろう襖を開ける。
 三十畳以上ある広い空間。その中央に一つだけ置かれた黒い膳と少し離れた位置に座る草壁を視認し、足を踏み入れる。
 膳の前に座れば直前によそわれたであろう食事から湯気が立ち昇り、食欲を刺激する匂いが鼻腔を擽った。
 白米に味噌汁、メインの焼魚に小鉢が二つ。
 いつもと変わらぬ品数に見慣れた料理。
 その筈だったのだが、隅に置かれた小鉢に視線が止まった。
 それは見慣れない料理だった。恐らく白和えなのだろうが、その食材が見た事が無い。
 細い茎に濃い緑の葉。山菜の類か。
 時折山の中で暮らす草食動物が山や森で採れた食材を売りに町まで下りてくる事があるが、これもそれかと草壁へ視線を向ければ彼はすぐにこちらの考えを察したようで口を開いた。

「隼人さんが自ら山で採って来られた山菜です。調理も恭さんの為にと隼人さんご自身がされたんですよ」

 …隼人。
 確かあの兎の名前だったか。
 細くて小さな銀色の雄兎。

「…一匹で行かせたの」
「いえ、危険ですので私も一緒に」
「そう」

 いつもならば魚から手をつけるが、今日はその小鉢を手に取った。
 顔を近付け、匂いを嗅ぐ。するのは普通の白和えと同じ胡麻の匂い。特に臭いが強い食材ではないらしい。

「先に少し味見させて頂きましたが、とても美味しかったですよ」

 すぐに食べようとしない様子に毒を疑っているとでも思ったのだろう。
 その言葉は直接的な言葉を使わずとも毒見を意味している事は明らかだった。
 そもそも山や森に自生している植物は毒を持っている物が多い。草食動物達はそれらをわかっているが、僕もそうだが肉食動物の殆どがその知識を持たない。
 それを理解した上で肉食動物の下にいる草食動物が主である肉食動物を殺す為に毒のある山菜を食事として出すという事も稀にだがあると聞く。
 この男の事だ、兎がそういった事をすると疑った訳では無いだろう。恐らく家に仕える動物として自然と取った行動だ。

「………」

 膳に置かれた漆塗りの箸を手に取る。
 兎が作ったというそれを少量を摘まみ上げ、口へと放り込めばシャキシャキとした食感と共に白胡麻の味が広がった。
 どうやらこの山菜自体に癖は然程無いらしい。
 何を気にしているのか知らないがこちらを注視してくる草壁の視線を感じつつ、何も言う事無く二口目を口へと入れた。










 夕刻となり明かりを灯した部屋で開いた日記を眺め笑う。
 日記をつける事の大切さを俺に教えたのは母さんだった。
 一日を振り返り、楽しかった事や嬉しかった事を書き記す。それはどんなに小さな事でも良い。そうすれば書いている時も、後で読み返した時も幸せな気持ちになれるから。
 だから逆に悲しい事は書いてはいけない。悲しみが心に残ってしまうから。
 一日一日を愛おしみ、大切に生きる。
 そう教わった通り書き続けた日記はこの屋敷に来てからも続いている。
 小さな事ばかり書いていた日記だが、三日前からその内容は主に夕食の事で占められていた。
 三日前の出来事は今思い出しても嬉しくなる。
 一品だけではあるが初めて黒豹に食事を作った日。
 草壁に付き添ってもらい山で二輪草を摘み、白和えを作った。
 正直本当に食べてもらえるなんて思っていなかった。
 町の長なんて命を狙われる事も少なくないだろうし、屋敷に草壁以外の使用人を置いていないくらいだ。
 他者に心を許さない彼が来て間もない、まともに会話をした事が無いどころか顔さえほぼ合わせていない草食動物の作った物なんて食べないだろうと思いつつも作った。
 それで例え食べてもらえなくても毎日作り続ければいつかはきっと食べてもらえる筈。
 そして料理に込められた想いにも次第に気付いてくれるんじゃないかと思い作った。
 自分が食べる為でなく、誰かの為に作った料理はそこに作った者の想いが必ず込められている。その事にすぐは無理でもいつか気付いてくれる。
 そう思い、作った白和え。村では動けなくなった母さんの代わりによく料理はしていたので味には自信があった。
 けれど黒豹がどんな味付けや食材を好み、苦手とするのか何も知らない。
 明日はその辺りを草壁から聞いて作る物を決めよう。
 そんな事を夜、部屋で一人考え過ごしていると突然草壁が訪ねてきて教えてくれたのだ。恭さんが料理を全て食べられました、と。
 それは本当に、本当に嬉しかった。
 その日の日記には興奮から乱れる字体で喜びが書き連ねられている。
 次の日、もっと美味しい物を食べてもらいたいと俺はまた草壁と山に入り、採ったタラの芽で天ぷらを作った。
 そして今日は春しめじを採ってきて汁物を作った。今日も食べてもらえるだろうか。
 いつもは俺の料理が出来る頃には草壁の料理も出来ていてすぐに夕食となるのだが、今日は俺の料理だけが早く出来てしまったので草壁の料理が出来るまで部屋で待つ事になった。
 特にやる事もなく自分の書いた日記を見返していたが、どうせなら明日の料理も考えてしまおうか。
 日記には毎日では無いが翌日の目標や予定を書いたりもする。
 未来に希望を持つ事は明日をより楽しく、豊かにするものだから大切な事だ。
 これも母さんが教えてくれた。

「確か蕗の薹も沢山生えてたよな…」

 明日は蕗の薹を使って何か作ろうか。蕗の薹といえば天ぷらだが、天ぷらは昨日作ったばかりだから別の料理にしよう。
 そんな事を考えながら日記に書きこもうとペンを持つ。

 その瞬間。
 手にしっかりと持った筈のペンが滑るように床へと転がり落ちていった。
 畳に落ちるペンがスローモーションで視界に映り、目で追う。

 いつも通り持った筈のペンが落ちた。その事実に俺は思わずペンを落とした右手を見つめ、固まった。

 手に、力が入らなくなってきている。

 今までと同じ感覚ではもう物が持てなくなっているのだと気付く。
 体力が落ちてきている自覚はあった。
 今日山道を登った時もすぐ息が上がってしまい、三日前登った時と比べると確実に歩ける距離が短くなっていた。
 同行していた草壁にも心配され、その時は適当に誤魔化したが山に登れるのも後数回かもしれない。

 自分に残された時間はきっと僅かだ。

 確実に迫っている死期。その間に俺は何が出来るのか。
 残り僅かな時間であの黒豹に教えてあげる事は出来るのだろうか。

 覚悟を決めた筈なのに、こうして実際に目に見える形で自覚してしまうと途端に不安に襲われる。
 死ぬ事自体が怖い訳では無い。
 黒豹に誰かを愛する事を教える前に死んでしまう事が。黒豹に何も残せない事が怖いのだ。

 愛してもらおうなんて思わない。
 彼には俺なんかよりも相応しい相手が絶対いるのだから。
 これから先、心から愛する事の出来る相手と出会う日がきっと来るのだから。

 震えそうになる手で畳の上に落ちたペンを拾う。さっきよりも力を込めて、確実に。
 そして拾ったペンをぐ、ぐ、と数回握り締めた。

 …うん、大丈夫。まだいける。まだ時間は残されている。

 強く握ったペンを片手に再び日記へと向かう。
 一つ深呼吸をして、白い頁に『ふきのとうの味噌和え』と書き込んだ。
 これが明日の希望になる筈だ。目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。

 その時、部屋の外から廊下が軋む音が聞こえ、耳がぴくりと動いた。
 きっと草壁が夕飯が出来たと呼びに来たのだろう。日記を閉じ、ゆっくりと廊下に面した襖の方を見る。
 軋む音が部屋の前でぴたりと止まった。
 そして視線の先、松の絵が描かれた襖が開かれたが、その姿を見て俺は思わず目を見開いた。

「兎。夕食だよ」

 現れたのは特徴的な髪形の大型犬ではなく、着流しを着た黒豹だった。

「雲雀、様…」

 俺の返事を待つ事も無く黒豹は踵を返し広間の方へと向かう。
 想像もしなかった突然の展開に呆然としてしまったが、後を追うべく慌てて机に手をつき立ち上がる。
 立ち上がった直後に少し足がふらついたがそれは最初だけで、歩き始めれば意外としっかりとした足取りに自分自身安堵した。
 体格差のある黒豹と自分とでは歩幅も大きく違う。
 こちらを振り返る事も無く、どんどん進んで行く後姿を駆け足で追う。
 それでも向こうの方が早く、前を歩く黒豹が先に広間へと入る。数秒遅れ、続いて入ったそこで俺は本日二度目の驚きに見舞わられた。
 もうすっかり見慣れた、どこか寒さを感じてしまう位に広い空間。
 そこにいつもと違い、膳が向かい合うように間を開けて二つ置かれていた。
 それはこの屋敷に来て、初めて見る光景だった。

「早く座りなよ」
「…あ、はい」

 固まる俺を奥の膳の前に座った黒豹が座るよう促す。
 それに戸惑いつつ従えば、まるでこれがいつも通りかのように黒豹は夕食に手を付け始めた。
 反して俺はさっきから動揺しっぱなしで。
 一緒に食事をとる事は勿論だが、こんな長く相手の顔を見るのも初めてだった。

 何故彼はいるのだろうか。
 箸を手に持ち、思う。
 朝から野良狩りに行っているこの黒豹が帰ってくるのは毎日戌の時で、俺の食事が終わった後だった。こんな早くに帰って来た事など無い。
 此処に来てからずっとそうだったので、それが決まった生活サイクルなのだと思っていたが実はそうではないのかもしれない。
 結局のところ俺はこの黒豹の事を何も知らないのだ。

「ねえ」
「っ、はい」

 どうやら箸を持ったままぼうっとしていたらしい。
 かけられた声に慌てて背筋を伸ばし、答える。
 相手は俺の主であり、俺は彼にとって只の所有物であり、繁殖用の草食動物だ。その立場をしっかりと弁えるのは当然で、無礼な態度を取ってはいけない。
 もしそんな態度をとって捨てられてしまえば。それだけは避けなくてはいけないと強く握った箸先が震える。
 だって俺はこの黒豹に愛し方を、愛する事の大切さを教えると決めたのだから。
 花印を刻まれた存在だからと言ってそれに安心し、驕ってはいけない。
 彼は俺を特別な存在と見初めたから花印を刻んだわけではないと俺はしっかり理解している。
 早く相手を見付けろと周りに煩く言われ、仕方なしに目についた俺を連れ帰っただけだ。
 彼にとって花印も俺も、全く特別なものでは無いのだ。きっと彼は不要だと感じた瞬間、何の躊躇も無く俺を捨てる。
 いずれその時が来るとしても、今はまだ駄目だ。まだ俺は何も出来ていない。

 ─もし叶うのならば、彼が本当に愛する相手を娶る、その時まで此処に。

「これ、君が作ったんでしょ」

 漆塗りの桜の絵が描かれた椀を手に、黒豹が真っ直ぐと見つめてくる。
 こんな長く見つめられる事も会話する事も初めてで、手が汗ばみ始める中こくりと頷いた。

「今日も山から採って来たの?」
「…はい」
「これ何て茸?」
「春しめじ、です」
「ふうん」

 俺の弱弱しい言葉に相槌を返し、黒豹が椀に口を付ける。
 その瞬間胸に込み上げたのは正しく『感動』だった。
 あの黒豹が、目の前で俺の作った料理を食べている。
 その事実に歓喜で胸が震えた。

 俺が作った物もしっかりと完食していると草壁から聞いてはいた。
 けれど聞くのと実際に目にするのとは大きく違う。
 ちらりと離れた位置に控えている草壁に視線を向ければ、微笑み頷く姿が見えた。
 その姿にこれは現実なのだと改めて実感が湧き、体が熱くなる。

 …嬉しい。
 嬉しい!

 屋敷に来てから全く目もくれず、会話どころか姿を見る事も殆ど無かったというのに、今日は部屋まで俺を呼びに来て一緒に食事をし、こうして会話までしている。
 これが嬉しくない筈が無い。

 これは凄い進歩だ。
 彼がいつの日にか誰かを愛する、その時の為の大きな大きな一歩。
 それを今日、踏み出したのだ。

 今日の日記はこの事について書こう。
 目の前で黙々と食事を進める黒豹を見ながら、自分も漸く箸を動かす。
 椀に口を付ければ、今まで一匹で食べていた時よりもずっと美味しく感じられて。
 目の前の黒豹もほんの少しでも自分と同じように感じてくれていたら嬉しいと椀で口元を隠しながら笑みを浮かべた。

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