「ごめんな」

 この世の者とは思えない綺麗な存在が、路地裏で倒れたままの僕を見つめ、謝る。宝石のように綺麗な瞳を歪め、とても辛そうに。
 何故謝るのか。
 それが僕には理解できなかった。
 だって彼は僕を助けてくれた。その血を分け与えて。
 その意味は数秒前まで死にかけだった子供の僕でもわかった。

 この美しい人は、吸血鬼だ。
 口の中に残る甘い血の余韻に浸りながら僕は生まれて初めて心揺さぶられ鷲掴みにされたその存在に目を大きく瞬かせた。





 それは何年前の事だったか。曖昧ではあるが百年以上前である事は確かだ。
 その当時十にも満たなかった僕は汚いものしか見た事が無かった。
 口減らしの為僕を売り払った親も、親から僕を買い取り羽振りの良い問屋へと売った奴らも、子供は暴力さえ振るえば言う事を聞くと思い込んでいた問屋の奴らも、そしてそいつの喉元に短刀を突き立てた時に出た悲鳴も噴き出した血も。
 全てが見るに堪えない汚さで、醜かった。
 この世界は見る価値の無いものしかない。そんな世界に生きるという事に何の意味も見出せず、生への執着が欠片も存在しなかったのは不思議な事ではなかった。
 だから僕はあの夜、暗い路地裏で人外に囲まれ死に絶えそうになていた時も、何の感情も浮かびはしなかった。
 只僕を見下ろす人外の姿も、自分から流れ出る血も、やはり汚いな、と霞む視界の中思っただけだった。

 あの美しい存在が現れるまでは。

 地面が濃い闇に覆われ、一瞬で周りの人外を飲み込む。
 そう、正に一瞬だ。一欠けらの悲鳴さえ発する間も無く飲み込み、人外が消えた。
 一体何が起きたのかと出血で指一本動かせない体で眼球だけを動かし、視線を漂わす。
 そこで見たのだ。満月を背にこちらを見つめ佇む銀色の存在に。
 目を見開く。
 一目見て人間ではないとわかった。だってこんな綺麗な人間がいる訳が無い。
 けれどあの汚い人外共と同じ存在にも思えなかった。
 そして理解する。彼は特別なのだと。
 他のどんな存在とも違う、彼だけが特別だからこんなにも美しいのだと。
 彼がゆるりと足を踏み出す。
 人外を飲み込んだ漆黒の闇が彼の足によってぱしゃりと波紋を浮かべ、揺れるのが見えた。
 一歩一歩、闇を揺らし彼が近付く。
 恐怖など微塵も無かった。寧ろ早く早く、と近付く彼の姿に心臓が強く脈打ち、血を流した。
 彼がすぐ傍らで膝をつく。そして白い指を持ち上げたかと思えばその指を自ら強く咬み、血が出た指を僕の口に当てた。
 言葉は無い。けれど僕はそれが当然のように口を開け、指を伝う血を舐めた。
 広がる鉄の甘美な味。こくりと飲み込めばその瞬間、体中の血液が熱湯に変わったかのように体が熱くなり、喉から音にならない声が出た。
 しかしそれは一瞬の事で、忽ち体は冷え、さっきまであった体中の傷口の痛みは消え失せ。体が少しも動かせなかったのが嘘だったかのように全身に力が戻ってくる。
 それはまるで人外に襲われる前に戻ったように、いや、そんなものではない。そう、まるで全く別の存在になったような。
 そこで僕は理解した。自分は人ならざる者になったのだと。

 どこまでも綺麗だった。
 血を飲んだ直後に変わった、光舞う目の前の光景がではない。
 どこまでも深い闇を従える、煌めく翠の瞳をもったこの人があまりに綺麗で、目も心も捉われ他へと一切目がいかない。

 けれど僕を救った美しい彼は苦しそうな顔で謝罪の言葉を口にし、立ち上がる。
 そしてそのまま背を向け立ち去ろうとする彼に、僕はすぐに立ち上がり後を追った。
 地面を覆っていた、彼が生み出した漆黒の闇はもう無く、血を流し続けていた体の傷も全て消えていた。
 しっかりとした足取りで、迷う事無く彼の背を追う。
 視界の端で見た事も無い光る虫や鳥のようなものが飛んでいるのが見えたが、そんなのどうでも良かった。
 只彼の傍にいたかった。彼から離れたくなかった。
 そんな僕を見て彼はどこか哀しそうに笑い、けれど拒絶する事無く僕を受け入れた。

 それから二人の穏やかな生活が始まった。
 今までの汚いものしか存在しなかった生活とは打って変わり、穏やかで満ち足りた生活。
 僕に血を与えた始祖である隼人と名乗った彼は僕に色々な事を教えてくれた。
 今まで全く見えなかった周りを行き交う人外の事や、命を奪わずに人間から血を摂取する方法。
 勉学や、食べ物、お金の稼ぎ方、本当に様々な事を教わった。
 今思えばそれはまだ幼かった僕を助ける為とはいえ、人外に変えてしまった事への罪悪感からそうしていたのだろう。
 もしかしたら親代わりになろうとしていたのかもしれない。
 けれど当時の僕はそんな事に気付く事も無く、只隼人が教えてくれているという事が嬉しくて、全ての言葉に耳を傾け学んだ。
 そして暫くして気付いた。彼はとても不思議な存在だと。
 始祖としての力を使えば何だって手に入るし、出来るのにそれをしようとしない。
 普通の人間のように働き、お金を稼ぎ、食べ物を買って来て食べる。
 食べる必要など無い体の筈なのに態々人間のルールに則りお金を払ってまで食べ物を手に入れ口にするその姿は不思議でしかなかった。
 何故そんな面倒な事を態々するのか。
 そう訊ねると彼は柔らかく微笑んで、言った。人間の世界で暮らしているのだから同じように生活するのは当然だと。
 人外の頂点と云われる始祖の彼が、その気になればそれこそ蟻を踏み潰すよりも容易く人間を殺す事が出来る彼がそう言う。
 その言葉から彼がどれだけ人間を愛し、人間と共に生きる事を大切に思っているかが伺い知れた。
 そして同時にそれは僕には全く理解できない考え方だった。
 僕にとって人間は全くどうでもいい存在で、共に生きたいだなんて微塵も思わない。寧ろ煩わしいくらいだ。
 けれど隼人がそう言うのであれば。僕の唯一である彼がそれを望むのならば、それで構わなかった。
 彼だけが特別で、彼の傍にいる事が僕の全てだった。
 彼と共に生きれるのであれば、他はどうでもいい。
 人間も人外も、目が痛くなるくらいの極彩色の世界も。全てがどうでもいい。
 そんな僕が彼と共に暮らし百年以上が経ったある日。
 彼がふと口にした一言が僕の心臓を凍り付かせた。

「恭弥も大きくなったなぁ」

 昔を懐かしむように目を細め、笑みを浮かべながら言う。
 嬉しそうな彼とは反対に、僕はその一言に頭が真っ白になるくらいのショックを受けた。
 始祖である彼は不老不死で。見た目の年齢も自由自在に変えられたが、僕は違う。
 彼の血で人外になったとはいえ、確実に歳は重ねられ、ゆっくりと着実に体は成長していた。
 彼とは違い外見を変えられない僕の体は老いていく一方だ。
 その現実は僕に避けようも無い別離の未来を突きつけてくる。
 何百年後かわからないが、このままでは確実に僕は年老いていき、死ぬ。
 それは僕にとって耐え難い事だった。

 隼人と離れるなんて、隼人の傍にずっといられないなんて。
 隼人とずっと生きていきたい。それこそ未来永劫、共に。

 その願いを叶える為の方法は一つしかない。

「──ねえ、隼人」

 君の血を、もう一度僕に───。










 ぱちり、と目が開く。
 開かれた視界には先程まで見ていた汚いものも、絶望に近い衝撃を受けたあの時の風景も、そして彼の姿も無かった。
 あるのはいつもと同じ、きらきらと光る無駄に鮮やかな世界と見慣れた寝室の白い壁。
 その光景にさっきまで見ていたものは夢だったのだと瞬時に理解する。昔を思い出させる、夢。

「………」

 薄手のカーテン越しに差し込む太陽の光が部屋を明るく照らす。
 何時だろうかと一瞬頭に過ったが、今日から大学は夏休みだ。急いで起きる必要は無い事を思い出し、体に入りかけた力を抜く。
 ベッドの上、白いシーツに伸ばされた自分の腕には昨日確かに抱き寄せて眠った彼の姿は無い。
 額に滲んだ汗をその伸ばしていた手で拭う。そうすれば目の前を優雅に泳ぐ魚の姿をした人外が横切っていった。
 六十センチ程の大きさの鯉によく似たそれは口をぱくぱくと動かしながら水色の鱗を輝かせ、周りを漂う。
 その姿に、これの所為かと手で払う仕草をすればそれに従うように魚の人外は僕から離れ、窓を突き抜け外へと泳いで出て行った。
 あの人外がいると空気が湿り気を帯び、肌に纏わりつくようなものになる。冬ならばそれに対し特に何も思わないが、今のような暑い時季には不快でしかない。
 じっとりと滲んだ汗で張り付くように体に纏わりつくシーツを剥がし、体を起こす。
 そして傍らに置かれた椅子に乱雑に掛けられたシャツを羽織り、気配のする隣の部屋へと繋がる扉を開けた。



「おはよう」

 扉を開けた先、明るいリビングでソファーに座った隼人がこちらを見て笑う。
 僕もおはようと返せば隼人は読んでいた本に栞を挟み、ローテーブルへと置いた。
 膝の上では耳に炎を灯したヒョウ柄の子猫のような人外が丸くなって眠っている。
 隼人が白い指でその人外の喉元を撫でればぐるぐると喉を鳴らしているのが聞こえた。

「朝飯、桃で良いか?」
「構わないよ」

 全く何も摂取せずとも生きていける体であるにも関わらず、普通の人間と同じように食べようとするのは元人間である僕の為だ。
 別に僕は食べずとも良いのだが、僕を思って隼人がしてくれるという事自体が嬉しいので僕はいつも笑って返事をする。
 とはいってもお互い調理が得意ではない為、果物や野菜をそのまま食べるか、良くてサラダにするぐらいなのだが。
 時の流れを大切にする隼人は四季を感じられるようにと食材もその時の旬の物に拘る。
 昨夜はトマトをふんだんに使ったサラダだったが、今朝は桃らしい。きっと良く熟れた桃が出てくるに違いない。
 そう思いながらぺたりと裸足でフローリングの上を歩き、彼へと近付いたところで外から弱い人外の気配が一つ近付いてくるのを感じとる。
 弱い人外などそれこそ溢れかえる程辺りにいる為一々気にして等いないが、先程も感じた不快な湿気と共に部屋に入って来たその気配にちらりとそちらを見る。
 そこには案の定、窓を突き抜け部屋に入り込み空中を泳ぐ、先程見た魚型の人外の姿。
 もう一度追い払おうかとしたところで隼人の膝の上で丸くなっていた猫の人外がぴくりと動いたのが視界の端に見えた。
 耳を立て、むくりと頭を起こす。そしてその大きな目が魚の人外を捉えた瞬間、猫の人外は隼人の膝から飛び上がり、空を泳ぐ魚へと飛び掛かった。
 その猫を魚はゆるりと躱し、再び外へと泳ぎ出て行く。その後を追い、猫も空を蹴り外へと飛び出していった。
 家の中から僕達以外の人外の気配が無くなる。魚の人外がいなくなった事で湿った空気も消え、僕は息を吐いて未だに額に張り付いたままだった前髪を軽く掻き上げた。

「朝飯の前にシャワーでも浴びてくるか?」
「うん、そうしようかな」

 確かに汗の掻いた体のままでは些か不快だ。
 シャワーで汗を流してから食事をした方が良さそうだと首筋を拭うように掌を当て擦る。

「魚で汗掻いたか?」
「…そうだね」

 寝室で泳いでいた青い魚。
 けれど思い出されるのは過去の記憶だ。

「…昔の夢を見たよ」

 こちらを見るその姿は出会った時よりも若い。
 始祖である彼は見た目の年齢を好きに変える事が出来るが、その美しさと翠の鮮やかさはどの姿でも変わる事は無い。
 きっと、それは僕と出会う前からずっと。

「…ねえ、隼人。君の過去が見たいな」

 ソファーに座ったままの彼が綺麗な瞳を一つ瞬かせた。

「君が今までどんな場所で生きて、どんな風に過ごして、何を考えていたのか。僕に教えてよ」

 彼に近付き、手を伸ばす。そして肌理の細かい白皙の頬に触れれば、瞬かせた瞳をほんの少しだけ細めて見せた。

「君が生きてきた場所へ、連れて行って」

 君が生きた場所を見たい。君の過去が見たい。
 好きな人の過去を知りたい、全てに触れたいと思うのは特段不思議な事では無いだろう。
 共に永遠を生きる事を許された僕は、彼の全てに触れる事も許された。
 それは言葉で示されずとも、わかる事だ。

「…もう何百年も前だから俺がいた時とまるで変わってると思うぞ」
「それでも良いよ」
「…色んな所で暮らしてたから回るだけでも大変だし…」
「良いよ。時間はたっぷりあるんだから」
「…そうだな、そうだった」

 頬に当てた僕の手に彼の手が触れ、包み込む。
 そして改めて噛み締めるように笑う。
 その笑みに僕も笑い、惹かれるようにして彼の隣へと座った。
 ソファーが軋んで沈み、彼の顔が近付く。

「夏休み中、全部使おうか」

 触れている頬とは反対の頬に唇を落とす。

「そしたら沢田さん達が大変だろ」

 喉を震わせ笑いながら言う彼に、今度は唇の端へと口付ける。

「普段僕達のお陰で楽してるんだから夏休み中位退治屋らしく働かせた方が良い」

 そう口にすれば、「駄目だ」と笑いながら僕の鼻へと口付けた。
 唇の戯れ。そこから僕の手をすり、と一撫でし、離れていく。
 ソファーに座ったままローテーブルへと手を伸ばし、置かれていた携帯を手に取る。
 操作し、表示された画面には沢田の名前。
 「二週間な」と笑みを浮かべつつメッセージを打ち込み始めた彼に、僕は口角を更に上げ、一層上向いた気分のままシャワーを浴びる為立ち上がった。
 二週間という期間は彼の事を考えると破格の期間だ。それだけ彼も嬉しく思っているという事だろう。

 シャワーを浴び、此処に戻ってくる頃にはきっとテーブルには切られた桃が置かれている事だろう。
 それを食べながらこれから二週間の話をして、それから荷物を纏めて。
 ああ、考えるだけで楽しい。
 彼と永遠を生きるというのはこんなにも幸せだ。

 どこからともなくまたやって来た青い魚を今度は追い払う事無く、僕はバスルームへと続く扉を開けた。

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