夕暮れ時。赤く染まる応接室で夕日よりも遥かに大きく不気味に輝く赤い月を見上げ舌打ちをした。
 日に日に大きく赤く染まっていく月は嫌でも目に入り、否応無く気分を悪くさせる。

 何百年に一度現れるその月はウィッチムーンと云われ、その名の通りこの世に魔女が生まれた時に現れると言われている。
 突然空に現れたそれは最初は普通の月と同じ大きさ、色をしていて、それが日が経つにつれ大きく赤くなっていき今や血のように赤く、太陽の三倍はある大きさで空に不気味に在る。
 世界のタイムリミットは近い。
 ウィッチムーンの色と大きさは世界のカウントダウンを表している。
 世界の滅びの時が近ければ近い程ウィッチムーンは大きく、赤くなる。どれ程になれば世界が崩壊するのかはわからないが、恐らくもう然程時間は残されていないのだろう。
 いつ滅びるかも知れない世界。
 その世界を救う方法は唯一つ。ウィッチムーンと共に生まれた魔女と云われる存在が犠牲になるのみ。
 世界で唯一人しかいない魔女が消えればウィッチムーンも消え、世界は救われる。
 この世界に生きる人間ならば子供でも知っている常識だ。
 だが誰も魔女がどんなものなのか知らない。一目見て魔女とわかるような特徴的な容姿なのか、魔法のような特殊な力を使うのか。それとも普通の人間と全く同じなのか。
 髪の色は。目の色は。肌の色は。
 そもそも魔女と呼ばれているが女なのかもわからない。
 世界中の人間が魔女という存在を知っているのに、その正体を誰も知らない。
 人類が誕生してから約五百万年。魔女というものがどの時代から存在しているのかはわかっていないが過去の記録や遺跡の調査等からこの世界に過去十回はウィッチムーンが出現した事があるというのは判明している。
 ウィッチムーンの現れた回数はそのまま歴代の魔女の人数を表す。
 要するに今まで十人以上の魔女がいたという事になるのだが、世界中のどこにも魔女についての詳細な記述が書かれている物は見つかっていない。
 ウィッチムーンについての記録は溢れかえる程世の中にあるというのに、不自然な程に魔女についての書かれている物が無いのだ。

『ウィッチムーンと魔女は同じ時にこの世に現れる』
『魔女がこの世から消える時、ウィッチムーンも空から消え、世界は崩壊から免れる』

 どれも書かれている事はそんな内容で、魔女自体について詳しく触れている物は一つも存在しない。
 世界各地の地中深くから発掘された遺跡からこの世界はかつて一度滅びた事があるとの話だが、滅びるとは具体的にどのようなものなのか。
 魔女が消えれば世界は救われると言うが、消えるとは単純に死ぬという事を指しているのか。それとも何か別の意味や、手順、方法があるのか。
 何もわかっていないというのに、世界の滅亡を目前にして中には理性を失い、おかしな行動を取る人間も目につくようになってきた。
 ある国では何もわかっていないというのに魔女に莫大な懸賞金を懸け血眼で探し、他の国では魔女と疑わしき人間を片っ端から捕まえるまるで魔女狩りのような行為が行われているという。
 幸いこの国ではそんなおかしな行為は行われていないが、カルト宗教や団体があちこちで出来、騒ぎ回っているのは気に食わない。
 並盛も例外ではなく、増えていくそういった草食動物共を連日咬み殺し回る日々に流石に辟易してきた。
 毎日こんな状況が続けば月を睨み付けたくもなる。
 苛立ちのままに指先で窓枠を叩いた音は思ったよりも大きく応接室に響いた。

「ヒバリ」
「漸く書けたの」

 赤い月に背を向け、後ろから聞こえた声に振り向く。
 そうすれば革張りのソファに座るこの部屋同様に夕日で赤く染まった彼と目が合った。
 全てが赤に染まり彼の色である銀も翠も見えなくなってしまっている事が何故か気に食わず、自然と眉が寄る。
 風紀委員を除けば誰よりもこの部屋に世話になってるであろう問題児の前にはいつも通り文字が書き連ねられた原稿用紙三枚がペンと共に置かれており、窓際から離れその重ねられた紙を手に取った。
 存外整った字を書く彼の文章は学力の高さを窺わせるように理路整然としており、とても読みやすい。それが反省文というのは全く褒められたものではないが。
 数え切れない程書いてきた物だ、彼にとってすっかり書き慣れた筈の物だというのに今日は何故かいつもより時間がかかっていた。
 下校時間も過ぎ、殆どの生徒が帰った後の校舎の静けさは応接室にも齎される。
 立ったまま反省文の一枚目に目を通し、ぱらりと捲る。それと同時に獄寺が身じろいだらしく、きしりとソファの軋む音が聞こえた。

「ヒバリはさ」

 聞こえてきた抑揚の無い、静かな声に用紙から彼へと視線を移す。
 交わる視線。きゃんきゃんとよく吠える口よりも時に煩いぐらい感情を見せるその瞳が、今は不気味な程静かで。
 何の感情も見えない瞳に僕は違和感を覚えた。

「もし自分が魔女だったらどうする?」

 突拍子もない質問だった。
 僕があの赤い月を見ていたからそんな質問をしてきたのか。それとも彼も他の草食動物共と同じように間近に迫った終わりの時に精神が不安定になっているのか。
 どちらにせよ下らない質問だ。あり得もしない、何も生み出さない無意味な質問など答える必要が無い。
 普段ならば間違いなく鼻で一笑し終わるようなその問いに対し、そうしなかったのは彼がどこかいつもと違って見えたからかもしれない。

「どうする、とは?」
「自分を犠牲に世界を救うか?」
「しないよ」

 下らない、と息を漏らし即答する。
 やはり下らない質問だった。自分を犠牲にするかなど。

「お前の大好きな並盛は良いのか?」

 世界が滅んじまえば並盛も無くなるんだぞ、との言葉に僕は用紙を持ったまま腕を組み、こちらを見上げ見つめる彼を見下ろす。
 組んだ腕にぶつかり、紙がくしゃりと乾いた音を立てた。

「世界が滅ぶのと並盛が滅ぶのは同義ではないよ」
「同じだろ。世界が滅んだら並盛も滅ぶって事なんだから」
「違うよ」
「ふーん、やっぱお前って変わってんな」

 満足する回答だったのかは知らない。けれど僕の答えを得て、彼の中でこの話は終わったらしい。
 言い終わるや否や彼の視線がテーブルの上へと戻っていく。用紙も無くなりペンだけが転がるテーブルに。

「…君は?」

 それは無意識だった。気付けば口から勝手に言葉が出ていた。
 彼が問いを受け、再びこちらを見る。

「ん?」
「君だったらどうするの」

 もしかしたら僕はこんな問いを投げ掛けてきた彼の真意が知りたかったのかもしれない。
 この問いを通していつもと違う様子の、彼の何かがわかるのではないかと。

「俺は」

 獄寺が目を伏せ、銀色の睫毛に瞳が隠れる。
 その瞳が再び覗いた時、そこには真摯な光が見えた気がした。

「俺は、大切な人を守る為に犠牲になる事を選ぶ」

 正直その回答は意外とは思わなかった。
 何せ彼は指輪の為に命を捨てようとした過去が有る。自分の身を顧みない言動や戦闘スタイルからしても予想はつく。
 更にはあの草食動物への阿呆らしいまでの忠誠心。あの草食動物を助ける為ならば少しの躊躇も無く彼はその身を投げ出すだろう。
 そう僕は彼の事を思っていた。が、次に彼が口にした言葉は僕にとって意外なものだった。

「…でも、すぐには出来ない。少しでも長く、ぎりぎりまで好きな人と一緒にいたいって思う」

 彼の言う『好きな人』が誰なのはわからないが、それがあの忠誠を誓う草食動物で無い事はわかった。
 あれ程尻尾を振り、尽くしていた主人ではなく、最後の時を過ごしたいと思っている相手がこの男にはいるという。
 それを聞いて僕はどんな顔をしていたのか。獄寺は僕を見て眉尻を下げ笑った。

「…変な話しちまったな」

 どこか愁いを帯びた笑み。それは僕が初めて見る表情だった。

 ゆっくりとソファから立ち上がり、彼がドアへと向かう。
 ドアに手をかけ、そこで赤く染まる後姿がこちらに振り返った。

「ヒバリ」

 彼が僕の名前を呼び、笑う。

「俺、お前の事結構好きだったぜ」

 はっきりと通る声だった。
 決して仲が良いとは言えない間柄だと思う。何度ぶつかり合い、咬み殺したかわからない。
 そんな相手からの言葉に、どういう意味かと問う前に彼は応接室から出て行った。
 違和感や疑問は浮かぶものの、嫌悪や不快感は不思議と無い。
 只、何故だか赤く染まる姿ではなく、彼自身の色が見たかったと漠然と思った。

 一体何だったのか。
 今日の彼はあまりにいつもと違った。
 感じた違和感はまるで水風船の中に水を注いでいくように胸の内であっという間に大きく、重くなっていく。
 すっきりとしないもやもやとした感覚に手にしたままだった反省文を何ともなしに捲る。

 明日も学校だ。気になるものは明日彼に直接訊けば良い。
 そう思い捲った三枚目。最後の頁。
 そこで今まで升目に従い綺麗に書かれてきた文字と違う、左隅の余白に書かれた横文字に気付き、目が留まった。
 流れるような、綺麗な筆記体で書かれた短い文字。恐らくイタリア語なのだろう。
 言葉の意味はわからないが、それが酷く気になった。

 きっとここに今日の彼から感じた違和感の答えがある。
 何故だかそんな気がした。

 やはり明日もう一度彼と話をしなくては。

 読み終えた反省文をデスクの上に放り、窓際から空を見上げる。
 変わらずそこにある赤い月に、彼との先程の会話が頭の中で蘇った。










 次の日、起きると世界は一変していた。
 十年以上ずっと空に在り続け、日に日に赤く、大きくなっていったウィッチムーンが忽然と消えたのだ。
 世界は滅亡から免れた。
 どのテレビ番組もその話題一色で、外を出れば歩いている草食動物の顔は一様に前日までとは打って変わり歓喜に満ちていた。
 いつ終わるかも知れなかった世界が何の前触れもなく救われたのだから、それが当然と言えば当然だろう。
 けれど僕の心は世の中や晴れ渡った雲一つない空とは反対に、どうにも晴れなかった。
救われた事に浮かれ、騒ぐ草食動物達を朝から咬み殺して回らなくてはいけなくなった事もあるが、やはり昨日の事が気に掛かって仕様が無い。
 彼は一体何を考え、あんな事を言ったのか。
 喉に引っ掛かった魚の骨のように気になり続けるそれを解消するには彼と会って、話をするしかない。
 トンファーに付いた血を払い、倒れる草食動物の横を通る。
 何故ここまで彼の事が気になるのかわからないまま、足早に学校へと向かう。
 だが騒ぐ草食動物があまりに多く、学校に着いた頃には既に多くの生徒が登校した後だった。
 外があれだけ浮かれていたのだから予想は出来ていたが、校内は外以上に騒がしく、それは長期休暇に入る前日の浮かれ具合の比では無かった。
 あまりの騒がしさに己の眉間に力が入っていくのがわかるが今はそれらを咬み殺して回るよりも優先すべき事がある。
 いつもならば登校してまず向かう応接室には目もくれず。向かう先は二年生の教室、獄寺隼人が在籍するクラスだった。



「ひ、雲雀さん…!」
「ここに来るなんて珍しーな!どうしたんだ?」
「獄寺隼人は何処」

 僕の姿を見るなり声を掛けてきた沢田綱吉と山本武に間を開けず問う。
 獄寺隼人の容姿はよく目立つ。
 イタリアと日本のクォーターだという彼はともかく白い。それは遠くからでも簡単に見付けられるくらいに。
 なのでこの教室に入った時点で彼がいない事はすぐに気付いた。
 彼は沢田綱吉の忠犬だ。基本主人の元から離れる事をしようとしない彼だが本来は僕と同じ、一人でいる方が楽な人種だという事は気付いていた。校舎裏や屋上で一人サボっているのを何度も見た事がある。
 そんな男だ、群れている事の多いこの二人の傍にいなくても何ら不思議ではないのだが、例え一人になるにしても主人に行き先を告げている筈。
 そう思い口にした言葉だったが、対して彼の主人である沢田綱吉が僕に向けてきたのは問いに対する答えではなく、何とも間の抜けた顔だった。

「え…?」
「獄寺隼人は何処と訊いている。もしかして休みなの?」

 同じ事を二度も言わされ、気が急いているのもあり苛立ちが募る。
 もし休みならば沢田綱吉から彼の住所を訊くか、生徒名簿を調べなくてはいけない。
 早く答えろと見つめる先、沢田綱吉はいつもの怯えた表情とは別に何故か動揺する素振りを見せた。
 その隣では山本武が首を傾げこちらを見ている。

「ゴクデラハヤトって誰なのな?」
「…は?」

 この男は何を言っている?
 込み上げるムカつきのままに睨み付ければ山本武の隣に立つ沢田綱吉が「ひっ、」と怯えた顔で悲鳴を上げていたが知った事ではない。
 こんなふざけた答えを返されて腹が立たない方がおかしい。

「何を言ってるの」
「いや、あの、俺達、そのゴクデラハヤトって人を知らないんですが…」
「ふざけているの」
「いえっ、ふざけてなんて…!」

 苛立ちで自分の声が低くなっていくのがわかる。
 何故そんな下らない嘘を吐いてくるのか。何の意味もなさない嘘を。
 もしかして赤ん坊絡みか。
 彼らは度々赤ん坊が考案したという遊びで周りを巻き込み、問題を起こす。今回もその可能性がある。
 いずれにせよこちらの質問に真面目に答えるつもりが無いというのならば実力行使で訊き出すしかない。
 服の裾からトンファーを取り出し、きつく握る。
 そこでこちらが振り被るよりも先に山本武が「まあ落ち着けよ」と一歩踏み出し、沢田綱吉の前に立った。
 飄々とした様子だがこちらの動きに警戒しているのが端々に見て取れ、それがまた神経を逆撫でていく。

「雲雀、俺達本当に知らないんだって。そのゴクデラハヤトって奴を捜しに来たのか?どんな奴なんだ?」
「知らない筈が無い。君達いつも群れていたじゃない。このクラスにいるでしょ、銀髪で翠の瞳の素行不良者で、」

 何故こんな事まで説明をしなくてはいけないのか。苛立ちも露わに口にしたその時、視界の端にいた他の草食動物の表情が見え、言葉が止まる。
 僕がこの教室に入って来た瞬間、距離を取り遠巻きにこちらを見ていたこのクラスの草食動物達。
 その彼らが困惑の表情を一斉に見せたのだ。
 それはまるで、

「雲雀。そんな奴、このクラスにはいないぜ?」

 本当にこのクラスに獄寺隼人という存在がいないかのように。

「あ、雲雀さん!?」

 山本武の言葉を最後まで聞く前に教室を飛び出す。
 沢田綱吉と山本武だけならば赤ん坊絡みのいつもの遊びだと思えた。だが他の草食動物のあの様子。
 赤ん坊絡みならばあの二人以外が関わる事はまず無いだろうし、そもそも演技をしているようには見えなかった。
 ならば幻術の類かとも思ったが、もしそうならば僕が気付かない筈が無い。

 おかしい、何かがおかしい。
 僕がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか。

 酷い胸騒ぎの中、駆け足で応接室へと向かう。
 応接室へと行けば昨日までの出席簿の写しや学級名簿が保管されている。それを確認できれば。

 持ち歩いている鍵で応接室の扉を開け、中に入る。
 学級名簿が保管された奥の棚へ早足で向かう。その途中、デスクの上ある筈の物が無い事に気付き、体がスッと冷えていくのを感じた。
 獄寺隼人が昨日、赤く染まったこの部屋で書いていた反省文が。
 昨日僕はこのデスクの上に彼の書いた反省文を置き、そして鍵をかけて帰った。そして今さっき、僕は鍵を開けて此処に入った。
 要するに今僕が鍵を開けるまで誰もこの部屋に入っていないという事だ。にも関わらず、置いていった反省文が無い。

 何故無いのか。

 胸騒ぎが嫌なものへと変わっていく。
 体どころか心臓さえも冷えていくような感覚の中、力が入っているのか入っていないのかもわからない右手を棚へと伸ばす。
 取り出すのは『全学年学級名簿』と書かれた黒い綴込表紙。それを開き、目当ての頁を開く。彼がいる筈の学級名簿を。
 五十音順に並んだずらりと並んだ名前。それを上から順に読んでいく。
 たった一人の名前を見逃す事の無いよう、ゆっくりと。

「…───」

「委員長、おはようございます。委員長にお客様が、」
「Buon giorno,恭弥!ウィッチムーンも消えて今日は本当に良い日だな!」

 後ろで応接室の扉が開き、副委員長と騒がしい声の主が入ってくる。
 馴れ馴れしく僕の名前を呼んでくる人間など一人しかいない。姿を見ずともその客人とやらが己の師匠と一方的に自称する異国の男だとわかる。
 振り向く事無く学級名簿を見たまま騒がしい声を無視して口を開く。
 決して僕に対し嘘偽りを言う事は無いとわかっている部下である人物に。

「…草壁」
「はい」
「君は獄寺隼人という生徒を知っているかい」
「…いえ、私の記憶にはそのような生徒は…」

 そう、と学級名簿を閉じ、振り返る。
 そこには困惑の色を僅かに浮かべつつも何も訊ねる事はしない部下と、予想していた通りの男の姿があった。

「跳ね馬」
「ん?何だ?」
「『アディオ』ってどういう意味」

 昨日、反省文の隅に書かれていた文字。
 デスクの上から忽然と姿を消してしまったが、その文字ははっきりと思い出せる。

『addio!』

 綺麗な筆記体で確かにそこにはそう書かれていた。

「アディオ?ああ、addioか!何だってそんな言葉、」
「良いから答えろ」

 余計なやり取りは必要無い。
 知りたいのは彼が残していったその言葉の意味だけ。

「あー、addioは別れの言葉の一つだよ。イタリア語にはいくつか別れの言葉があるけど、addioはあまり使わない言葉だな」
「何故」

「永遠の別れを意味するからな。その言葉は二度と会う事の無い相手に使う最後の言葉なんだよ」



『もし自分が魔女だったらどうする?』

 彼の言葉が甦る。
 魔女は誰なのか。魔女は何故世界を救おうとしないのか。そういった魔女を責め立てるような疑問はテレビ等のメディアや、擦れ違う草食動物達からもよく聞いたが、魔女側の立場に立った質問はその時初めて聞いた。
 何故その時に気付けなかったのか。
 誰もそんな問いかけをしたり、考えたりしないのは『自分が魔女ではない』からだ。
 魔女ではないからそんな事考えもつかないし、考える理由も切欠も無い。
 でも彼はその問いをした。

 今までの歴代の魔女の記録が消されたかのようにどこにも存在しない事。
 学級名簿に彼の名前が無い事。彼の書いた反省文が無くなっている事。
 誰も彼の事を憶えていない事。
 彼の姿が無くなった事。
 ウィッチムーンが空から消えた事。

『魔女がこの世から消える時、ウィッチムーンも空から消え、世界は滅亡から免れる』

 全ての点が繋がる。


 彼こそが魔女だったのだ。


 それを僕一人だけが知っている。
 何故かはわからないが僕だけが獄寺隼人という人間がいた事を、彼が自らを犠牲に世界を救った事実を知っているのだ。

 食いしばった奥歯がぎしりと鳴る。

 魔女が誰かという事を知らなくとも、この世界は魔女の犠牲によって救われたという事を誰しもがわかっている筈だというのに。
 魔女という一人の人間が犠牲になった事など知った事ではないとばかりに訪れた平和に喜ぶ世の中も、彼の事を覚えていない草食動物共も。
 全てが腹立たしくて咬み殺してしまいたくて仕方が無かった。
 けれど何よりも。
 気付けなかった自分自身に対して腹が立って仕様が無い。

『ぎりぎりまで好きな人と一緒にいたいって思っちまう』
『俺、お前の事結構好きだったぜ』

「馬鹿じゃないの…っ」

 赤い中、儚く笑った彼の姿が甦る。

 彼は恐らく知っていた。自分の存在というものが消え去ってしまう事を。全員の記憶から消えてしまう事を。
 だから彼は僕に対してあんな事を言った。あんな別れの言葉を書き残していった。どうせ全て消えて無くなるのだからと。
 けれど僕は憶えている。何もかも全て。

「…忘れてなんてやるものか」

 例え僕だけだろうと彼の事を憶えている限り、彼はこの世界から完全に消え去ってなどいないのだ。
 彼は今もこの世界のどこかにいる。そうに違いない。
 そうでないと許さない。彼も、世界も、自分自身も。

 彼を捜さなくては。

 彼が犠牲となり創った平和で、彼がいない世界で安穏となんて生きられる訳が無いのだから。










 並盛にある森の奥。そこにひっそりと佇む館の二階、ダンスホールとして使うには手狭だが、小さなパーティーならば十分な広さであろうそこの壁に凭れ、僕は立っていた。
 視線の先では沢田綱吉が笹川京子と並び、周囲から祝福の言葉を受け笑っている姿が見える。
 その輪に加わるつもりは毛頭無い。手に持つワインの入ったグラスに口を付け視線を動かせば同じように壁を背にこちらを見て笑う六道骸と目が合い、盛大に舌打ちをした。
 懇意にしている者のみ招いてのボンゴレボスの小さな婚約パーティーは本来ならば僕が参加などするものではない。
 それでも今此処に来ているのは情報を得る為に他ならない。十年間捜し続けている、獄寺隼人の情報を。
 十年前のウィッチムーンが消えた日。世界からも人の記憶からも忽然と姿を消した彼。
 その彼を捜し出す為に僕は財団を起ち上げた。
 世界各地の魔女やウィッチムーンに関する文献について調べて集め、彼の姿を捜す。
 だがそれは一つの組織だけで行うにはどうしても限界があった。そんな時、僕の元へボンゴレから提携の話が来たのだ。
 群れるなんて想像しただけで不愉快極まりなかったが、何代も続く巨大マフィアボンゴレの情報力とコネクションは強大だ。
 キャバッローネを始めとする多くの同盟ファミリーと関連企業や組織は世界各地に点在し、その情報が手に入るというのは大きい。
 全ての要請に協力するつもりはないが、獄寺隼人に関する調査、及び情報をこちらに提供するというのを条件に、当時建設予定だったボンゴレの並盛アジト併設を許可した。
 そういう経緯があり、ボンゴレから定期的に調査報告が送られてくるようにはなったが、他の組織は別だ。
 それらの不定期な連絡を待つぐらいならば直接聞いた方が早いし、何か他にも新しい情報が手に入る可能性もあると考えたのが今僕が此処にいる理由だ。
 小さなパーティーと言えど、守護者全員と大きな同盟ファミリーのボスはやって来ている。
 その中でも特にキャバッローネのボスである跳ね馬と、霧の守護者である六道骸が大きな目的だった。
 かなり不本意ではあるが、六道骸は裏で独自の情報網を持っており、跳ね馬に関しては無条件で何かと協力を申し出てきて色々と手を回し調べ回ってくれている。
 その彼らから情報を受け取る為に来たのだが、六道骸は顔を合わすなり咬み殺したくなる笑顔で「貴方が喜ぶような有益な情報は残念ながらありませんよ」と言い放ち、跳ね馬に関しては未だ沢田綱吉と談笑している。
 時刻を見れば既に二十一時近く。跳ね馬と話をした後はすぐに帰るとしよう。
 話さえ済めば此処に居続ける理由は無い。

「恭さん」

 携帯をスーツの内ポケットへとしまいながら哲が近付き、傍らに立つ。
 彼との付き合いももう長い。何の報告かなど大体わかる。
 視線を向ける事も無くそのまま壁に凭れていれば予想通りの報告が彼から告げられた。

「中東ですが、獄寺さんらしき人物の情報は無かったそうです」
「そう」
「ですが独自にウィッチムーンや魔女について研究、調査している人物と接触したらしく、その研究内容についての写しを入手したと」
「わかった」

 財団員の報告を聞き、凭れていた壁から体を離す。
 持っていたグラスを近くのテーブルへと置き、離れた位置にあるテラスへと向かった。
 いくら親近者のみの小さなパーティーと言えど群れている事には変わりなく、苛立ちは確実に募っていく。
 テラスに移動すれば騒がしさも減り、外の空気で少しは気が晴れるだろう。
 そう考えホールの端を移動していたところに革靴の足音が駆け足で近付いてくるのが聞こえてきた。
 どうやら騒がしさから離れる事は出来ないらしい。だが目的であった用事が早く済むのは有難い。

「恭弥!」

 名を呼ばれ、隣に男が並ぶ。
 特にそれに答える事も足を緩める事も無く、テラスへと歩を進めれば師を名乗るその金髪の男も同じ速度で付いてきた。

「元気にしてたか?」
「見ればわかるでしょ」

 只でさえひと月に一度は連絡を寄越したり、勝手に施設へ乗り込み頻繁に関わってこようとする男だ。
 こっちが変わりない事などわかりきっているだろうに、意味の無い挨拶に横目で見れば「そうか」と肩を上げて笑う。
 ツナも漸く婚約かー、めでたいな!などと男が話している内に辿り着いたテラスからは冷えた夜風が吹き込み、髪を靡かせていく。
 そのテラスの縁に凭れ、男の鳶色の目を見れば瞬時に空気が変わった。
 ここからが本題だ。

「上海の辺りで調べて回ったけど新しい情報は特に無かったな」
「そう」
「来週北欧に行く予定があるんだがそっちはもう調査済みか?」
「デンマークとノルウェーは三か月前に財団員が行った。その他は最後に行ったのが一年以上前だ」
「デンマークとノルウェー以外だな、わかった」

 小さく頷き、取り出した携帯に何かを打ち込み始める。大方部下への日程や行き先調整を兼ねた連絡だろう。

「しっかし銀髪に翠眼なんてすぐ見つかりそうなもんなんだけどなー」

 打ち終わったスマホをしまいながら口にした男の言葉に確かに、と心の内で頷く。
 翠眼でさえ珍しいというのに、その上銀髪となると世界で一万人もいないのではないだろうか。
 実際彼を捜し続けて十年になるが、あれほど目を惹く銀髪と翠眼を持つ人間を見た事が無い。
 それほど人目を惹く容姿だというのにどの情報網にも引っ掛からないのは不思議に思うのはこちらも同じだ。

「…必ず何処かにいる」

 僕が憶えているのだ。この世界の何処かに彼は必ずいる。
 これは願望や希望などではない。確信だ。

「…本当そのハヤトって奴の事、大切なんだな」

 跳ね馬が顔を見て柔く笑う。
 この男は師匠というのを自認している所為か、どうにも親や兄かのように接してくる嫌いがある。
 今のもそれ故の発言だろう、こちらを見つめるその視線に顔を顰め、背ける。
 この男と言い、沢田達と言い、誰の記憶にも記録にも無い獄寺隼人の存在を否定せず捜索に協力し続けてくれているのは有難いが、こういった獄寺との関係を詮索したり勝手に想像されるのは気分の良いものではない。

 そもそも大切かどうかなど知らない。
 名をつける事も出来ない、知り合いというのが一番言葉として近い関係だった獄寺隼人の事を僕は殆ど知らない。
 言葉を交わすよりぶつかり合う事の方が多かった彼とは会話らしい会話をしたのだってあの赤く染まった部屋が初めてだったように思う。
 それぐらい何も無い関係だった。
 けれど僕は彼の事を憶えている。
 原稿用紙に書かれた文字も、儚げに笑った顔も、好きだったと告げたその声も、全て。
 だから僕は彼を捜す。只それだけだ。

「また何処か捜しに行くのか?」
「明日イタリアに行く」
「イタリアって、お前三日前にこっちに帰ってきたばっかじゃなかったか?」
「いたのは北。今回は南に行く」

 彼はイタリアと日本のクォーターだった。そうなるとやはりイタリアか日本に可能性を見てしまう。
 イタリアはボンゴレとキャバッローネが中心となり捜しているが、組織が巨大になればなる程抜けというものは出てくる。
 個人で回った方が思わぬ収穫がある事もある。その考えからイタリアと日本を行き来する生活をずっと続けている。
 それを苦だと感じた事は一度も無いが、周りから見ると違うらしい。
 目の前の男は溜息のような息を吐き出し、後頭部に回した手で頭を掻いた。

「折角日本に帰って来たんだから少しはゆっくりしてってからでも良いんじゃないか?ほら、此処みたいな場所でのんびりしてさ。時には休養も必要だぜ?」

 自然好きだろ?と跳ね馬がテラスの外へ視線をやり、笑う。
 別に自然が好きな訳では無い。静かな場所が好きなだけだ。
 けれどこの場所は確かに悪くないと同じようにテラスの外へ視線を向けた。
 森に囲まれ、湖に面したこの建物は元々宿泊施設だったものだ。
 それが長らく放置されていたのをボンゴレの敵対ファミリーが並盛のアジトを落とす足掛かりにと根城にしたがすぐに見つかり殲滅。
 建物も壊す話が出ていたが、勿体無いとボンゴレがそのまま元の所有者と掛け合い、買い取った。
 元より並盛で活動していく上であまり目立たない場所に社交の場として使える場所が欲しかったらしく、この場所が偶々丁度良かったのだろう。

 テラスから見る景色は元宿泊施設というだけあって確かに悪くない。
 吹いた夜風に木々がざわりと鳴り、目の前の小さな湖を波立たせた。
 空に大きく在る丸い月。それが湖面に映り、波に反射して光って───、

「…っ…!?」
「恭弥?」

 思わず目を瞠り、息を呑んだ。

 湖に映る月が、赤い。
 空に浮かぶ月は白いというのに。

 それはまるで、ウィッチムーンのように。

「恭弥!?」


 見つけた。


 テラスの柵を掴み、乗り越える。
 テラスの下の芝生に着地し、そのまま湖に向かって走った。
 赤い月が揺れている。彼がそこにいる。直感でそう思った。姿なんて見えなくたってわかる。
 走る速度のままに少しの躊躇も無く湖に入る。
 冷たい水が革靴の中に入り込み、スラックスが重たく脚に纏わりつく。背後から制止するような声が聞こえてくるがそんなもの知った事ではない。
 十年捜し続けた彼が、獄寺が、そこにいるのだ。すぐそこに。
 腰より少し上ほどの浅い水深の湖を掻き分けるように赤い月を目指して真っ直ぐ進んでいく。
 スーツがどんどん重くなっていく。冷たい水が体を一気に冷やしていく。けれど足は止まらない。心臓が早鐘を打ち、早く早くと足を進めていく。

 漸く、漸くだ。

 湖の中央、赤い月が浮かぶ場所でそうする事が当たり前のように湖の中へと潜った。
 水深が浅い筈のそこは潜った途端底が無いのではないかと思える位に深く、暗く変わり。その暗闇の中で見えた一点の白い光に向かって手を伸ばす。

 十年捜した。世界中捜し回った。
 どれだけ見つからなくとも、何の情報も得られなくとも、一瞬たりとも諦めた事も、気持ちが不安に揺らいだ事も無かった。
 君が何処かにいる事はわかっていたから。

 光に触れる。
 形を持ったそれを二度と離すまいときつく握れば体が一気に浮上していく。

 ──君はこんなところにいたんだね。

 浮上感に身を任せ水面に出た途端、水中で見た深さが幻だったかのように足が湖底に着く。
 立ち上がり、すぐに暗闇の中掴まえた光だった存在をしっかりと抱き寄せ、支える。光は人の形へと変わっていた。十年前よりも成長した彼の姿へと。

「…獄寺」

 名を呟くように囁く。それは確かに彼に届いたらしい。
 濡れた銀色のけぶる睫毛が震えながらゆっくりと持ち上がっていく。翠の瞳が僕を映し出した。

「………ヒバリ…」

 掠れ声で名前を口にされた瞬間、目の前の体を抱き締めていた。
 肩口に顔を埋め、きつくきつく抱き締める。
 十年前は肩程の長さだった彼の銀糸は長く伸び、水面に揺蕩っているのが見える。
 その色があの日見たような赤色に染まっていない事に胸が締め付けられる感じがした。

「…眩しい」
「…そうだね」

 耳元で呟いた彼に答える。

 十年前の僕は気付かなかった。
 君がいる世界はこんなにも眩しい。










「どうぞー」

 ダークブラウンの重厚な扉から控えめなノック音が響く。
 入室を伺うそのノックに返事をすればゆっくり開いた扉から目を惹く鮮やかな銀色が現れた。
 腰くらいまである長い銀の髪を後頭部で一纏めに括り、浅葱色の着流しに白い大輪の牡丹がいくつも描かれた深紫の打掛を羽織ったその人は翡翠の瞳を柔らかく細め、会釈して部屋に入った。
 和服に全く詳しくない俺でもわかるぐらい高級感の漂うそれらはきっとあの人がこの綺麗な人の為に誂えたものなのだろう。
 それぐらいこの人によく似合っていたし、他の人が着てもこんな綺麗にはならないだろうと思えた。
 そしてこの人を見ていると魔女だというのは本当なのだろうなと改めて思ってしまう。
 周りの人とは明らかに違う、綺麗な人。

「お待たせしてしまいましたか?」
「ううん、こっちが突然呼んだんだから気にしないで」

 そう言い応接用のソファを勧めれば、着物を気遣ってだろう。彼、獄寺くんは静かにゆっくりと腰を下ろした。
 その姿を確認し、俺も向かいのソファに座る。そのタイミングで「珈琲入ったぜ!」と山本がトレイ片手に入って来た。
 獄寺くんと俺の間にある大きな木製机に珈琲が注がれたカップと、綺麗な花の絵が描かれた缶が置かれる。
 それを開ければ途端甘いカカオの香りが辺りに広がった。

「イタリアから届いたチョコレートなんだ。一緒にどうかなって…チョコレート、大丈夫だった?」
「はい、有難うございます。頂きます」

 その言葉にほっと息を吐く。山本も良かったなと云った笑顔を向け、俺の右隣に座った。

 俺達はあまりに彼の事を知らない。
 彼は懐かしそうに目を細め、優しい眼差しでこちらを見てくれているというのに。

 それにもどかしさを感じながらも、三人で話に花を咲かせていく。
 最近あった事や、あそこで食べたあれは美味かったとか、仕事が山積みになってしまってリボーンに思い切り蹴られた話とか、そんな他愛もない話を。
 それに対し獄寺くんは訊けば答えてくれるが、殆どは俺の話に頷いたり相槌を打ったり優しく微笑むだけだ。山本に対しては口調が乱暴になったり、呆れた顔を見せたりもするが、きっと俺達はそういう関係だったのだろう。

 何故俺達は彼の事を忘れてしまったのだろう。それがとても寂しい。

「それでね、えっと、獄寺くんに話が、」
「─すいません、時間みたいです」

 時間にして彼が来てから二十分も経っていないタイミングだった。
 今まで切り出し辛くて話題に出せなかった本題とも云える話をしようとしたその時、まだ半分ほどしか飲んでいなかったカップをソーサーに置き、獄寺くんが微笑んだ。
 え、と言う間もなく、扉の外から聞こえてくる声やざわつく気配。それに気付き、確かに時間がきてしまったようだと察する。
 こんなの超直感が無くてもわかる。何故ならこの流れを過去何回と繰り返しているからだ。現に隣で山本も早かったなーと苦笑している。
 近付いてくる足音と、扉越しでも伝わってくる険呑な気配。
 それがすぐ近くまで来た瞬間、大きな音を立てて扉が開かれた。
 開かれた扉から姿を現したのは予想通りの人物。

「雲雀さん、」
「沢田綱吉、これで何度目?こそこそと」

 苛立ちそのままに睨み付けてくる鋭い漆黒の瞳は何度経験しても慣れる事は無い。
 鼓動が早くなる中、すいませんと謝罪を口にするが雲雀さんはテーブルの上に置かれたチョコを見た途端、大きく舌打ちをして更にその機嫌を降下させた。

「僕の許可なくこの子を呼び出すな」

 普通の人ならば腰を抜かすか、もしくは死を覚悟するのではないだろうかという鋭い視線をこちらに投げ、獄寺くんの手首を掴む。
 そのまま掴んだ腕をゆるりと持ち上げ獄寺くんを見つめる。その目からは波が引いていくように先程までの剣呑な雰囲気が消えていくのがわかった。

「行くよ」
「沢田さん、すいません。今日はご馳走様でした」

 獄寺くんが促されるまま立ち上がり、笑顔で頭を下げる。
 それをそんなの必要無いとばかりに雲雀さんが腕を引き、引っ張るようにして部屋から出て行った。
 二人がいなくなり、一瞬静まり返る空間。
 そこに俺の深く吐き出した息の音と、山本の苦笑する声が響く。

「…やっぱり駄目だったかー」
「雲雀、すげーのな」

 これで何度目だろうか。雲雀さんのいないタイミングを狙って獄寺くんを呼んで話をするという作戦は今回も本題に入る事が出来ず終わってしまった。
 いつも雲雀さんが財団の仕事で不在という時を狙って獄寺くんを呼んでいるのだが目的を達成できた試しがない。
 獄寺くんが雲雀さんに伝えてるのかとも思ったがそんな様子も無いし、これは雲雀さんの第六感的なものなのか、それとも獄寺くんにGPSでも付けているのか。
 真相はわからないが、ともかくここまでくると凄いとしか言いようがない。
 雲雀さんがここまで怒るのは内緒で獄寺くんを呼び出しているのが原因だとわかっているのだが、こちらにもそうせざるを得ない理由があるのだ。

 十年前、ウィッチムーンが消えた日。雲雀さんが『獄寺隼人』という人物を捜し、教室に訪ねてきた。
 それから一、二か月くらい経った頃だっただろうか。雲雀さんが俺達やディーノさんに獄寺くんの話をしたのは。
 獄寺くんに関する、雲雀さんが知りうる限りの情報を俺達に話し、そしてそれらしき人物を発見した際はこちらにその情報を寄越して欲しいと話をしに来たのだ。
 そう、お願いをしてきたのだ。あの雲雀さんが。
 雲雀さんにとってそれだけ大切な人だったのだろう。話をしに来た雲雀さんは傍目から見るといつもと変わらないように見えたけれど、よく見ると僅かに疲れや焦りがあるように感じられて。
 後日、草壁さんから雲雀さんが並盛を毎日のように捜し回っていたと聞いて、胸が苦しくなった。そしてその時絶対見つけてあげたいと、そう思った。
 俺と山本と、いつも三人で一緒にいたと言っていた、その顔も知らぬ友人に会いたいと。そう思った。

 雲雀さんの事を何かと気に掛け、構っていたディーノさんはそんな存在が雲雀さんにいたという事を知って目に涙を浮かべ「俺が必ず見付けてやるからな!恭弥、良いか、愛は偉大なんだ!絶対見付かる!」とビアンキのような事を言い抱き締めようとしてトンファーで殴られていたが、すぐに部下に指示を出して捜索に入っていた。
 それに対しまだ中学生だった俺は捜したくても限界があって。雲雀さんのような権力も無ければ、十代目と言いながらもディーノさんのようにファミリーを動かせる力も無く。
 どうしたら良いのだろうと悩む俺に、リボーンはすぐさま九代目に直談判しに行くぞとイタリアへ俺を連れて行った。ボンゴレを動かすなら九代目の一声が必要だと。
 リボーンがこんなにも積極的にすぐ動いたのはその彼が俺の友人だったらしいからでも、雲雀さんの為でも無かったのだが。
 ずっと空席だった嵐の守護者。雲雀さん曰く、そこが本当は埋まっていたというのだ。
 獄寺隼人。彼こそが嵐の守護者で、しかも五つの炎の波動を持つ稀有な人物だったと。
 それがリボーンが動いた大きな理由だった。空席の嵐の守護者が埋まるチャンス。それは結果的に守護者が揃っていない事で何かと口出しし、反発してくる上層部を完全にとは言えないが多少は黙らせる事が出来る。
 そう考えリボーンは九代目に直接話をし、結果ボンゴレ及び傘下のファミリーは彼の捜索を行ってくれる事になった。魔女であるという事は伏せて、だが。

 そういう経緯があった為、リボーンを始めボンゴレは獄寺くんを嵐の守護者としてファミリーに招き入れたいのだ。
 けれど雲雀さんは彼の事は財団で面倒を見ると言い、獄寺くんを連れ帰り、まるで何かから守るように接触を全て拒否した。
 そんな雲雀さんに、せめて彼と話だけでもさせて下さいとお願いする事数日。
 捜索に協力したという事があったからか。それとも獄寺くんの口添えがあったのか。それはわからないが本当に不服そうに、渋々と云った様子で雲雀さんが獄寺くんをボンゴレアジトに連れてきた。
 その日に事件は起きたのだ。

 最初はぎこちないながらも漸く会えた友人との会話を俺も、他の守護者の皆も楽しんでいた。
 けれど途中で本当に五色の色を灯せるのかという話になって。その時に止めていれば良かったのだ。獄寺くんの隣に座る雲雀さんの纏う空気が冷たく刺々しいものに変わっていくのに気付いていたというのに。
 獄寺くんが言われるがままに指輪を嵌め、炎を灯す。
 五色の炎。その炎圧と澄んだ色を見てリボーンが言った。嵐の守護者にならないか、と。
 その瞬間雲雀さんの怒りが頂点に達した。
 天井まで届くんじゃないかというくらい紫の炎を燃え上がらせたトンファーを目の前の机に叩き込み、砕いた。それは見事に真っ二つに。
 ふざけるな、と言ったその声は怒りで震えていたように思う。
 そのまま雲雀さんは獄寺くんの腕を引いて、扉も破壊し出て行った。
 雲雀さんがあれだけ怒りを見せたのは初めて見た。その場にいたディーノさんじゃないが、あの瞬間は本当に死ぬかと思ったし、ランボに至っては本気で泣いていた。
 それ以来雲雀さんの前で嵐の守護者の件は話してはいけないというのが暗黙のルールなった訳だが、獄寺くん本人の話を聞いていないというのもあり諦めきれずこうして雲雀さんに内緒で獄寺くんを呼ぶというのを繰り返しているのが現状だ。
 その度にすぐさま雲雀さんがやって来て三十分以上会話した事なんて無いのだが、それでも会う事自体許してくれているのはきっと俺達が獄寺くんの友人だからだろう。
 雲雀さんは獄寺くんの為に怒り、そして獄寺くんの為に動いている。獄寺くんを財団で預かり、極力外に出させないようにしているのだって魔女である彼を守る為だ。
 そもそもあの雲雀さんが十年も世界中を駆け回り捜していたぐらいの人なのだから。
 獄寺くんの事を忘れてしまった俺にも、それぐらいはわかる。本人は否定するかもしれないけれど。

「でもさ、多分雲雀が来なくても断られてたと思うぜ?」

 守護者の話、と言う山本に大きく頷く。

「うん、俺もそう思う」

 獄寺くんが守護者の話を受けるつもりが無いのを俺も本当はわかっていた。なんとなくだけどその理由も。
 いくら裏で事あるごとに言われ、圧力をかけられていたからといってこっちの都合を一方的に押し付けようとしてしまった。
 こんなの雲雀さんが怒るのも当然だ。

 でも、もう終わりにしよう。
 俺達は本当は嵐の守護者が欲しかったんじゃない。
 友人としての獄寺くんが欲しかったんだ。
 消えてしまったものは戻らないし、獄寺くんと俺達がどんな仲だったのかわからないけれど、新しい関係を築いて本当の友人になりたかった。
 マフィアとか守護者とか魔女とかそんなの関係無く、他愛ない話で笑い合えるような、そんな関係に。

「…次は守護者の話関係無く、お茶にしようか」
「そうだな!」

 次からはちゃんと雲雀さんに伝えて、それから獄寺くんを誘おう。
 そうすれば雲雀さんは不機嫌な様子で、でも嫌々ながらもきっと許してくれるだろうだから。










 スーツから濃紺の着流しに着替え、襖を開ける。
 襖が隔てていた隣の部屋、そこには先程僕が腕を引き連れ帰ってきた獄寺が右手人差し指に小鳥を乗せ、微笑みながら見つめ座っているのが見えた。
 僕が部屋に入って来たのを見付け、黄色の小鳥が彼の指から羽搏き僕の肩へと止まる。
 飛んだ小鳥を目で追う翠の瞳。そんな彼の僕が誂えた着流しと打掛を纏う姿に目を細めつつ、襖を閉め、近付く。
 小鳥を追っていた瞳が僕を見つめ、笑った。

「随分早かったな」

 それが着替えの事を指しているのではない事くらいわかる。
 伝えていた時間よりも早くこっちに帰ってきた事についてだろう。

「予感がしたから時間を繰り上げて帰ってきた」

 用事ももう済んでいたしね、と獄寺の後ろ、床の間に置いてある手元箪笥を開ける。
 そして中にある柘植の櫛を取り出せばこちらを呆れの色を滲ませた瞳で見る獄寺と目が合った。

「受けないってわかってるだろ」
「それでも気に食わないものは気に食わない」

 そんな事はわかっている。万が一にも彼が守護者の任に応える事は無いなんて事。
 過去、あれ程守護者やボスの右腕である事に固執し執着していた彼だが、それは沢田綱吉への敬慕の念故だ。
 そしてだからこそ獄寺は再び守護者になる事も、ボンゴレに戻るつもりも無い。何よりも敬愛する沢田綱吉の為に。

 獄寺が魔女だったという事は僕達、そしてボンゴレの守護者の面々を含めほんの一部の人間しか知らない。
 だがもし獄寺が嵐の守護者に就き、その後彼が魔女だという事が周りに知られてしまえばどうなるか。そんなもの火を見るよりも明らかだ。
 若いだの日本人だの、そんな下らない理由で沢田綱吉を認めない人間が未だボンゴレ内部に多くいる事はこちらにも伝わっている。
 そんな奴らが嵐の守護者が長く空席である事について何も言わない訳が無い。ボンゴレを一つに纏める為にも赤ん坊は次期トップとなる沢田綱吉を周囲に認めさせ、内部を早急に固めてしまいたいのだろう。
 だから獄寺が欲しい訳だが、魔女であった事がもし知られれば今度はその件で激しく追及されるだろう。
 ああいう輩は常に相手を攻撃できるネタや口実を探している。新しい守護者なんて恰好の攻撃の的だ。徹底的に調べられるに決まっている。
 世の中には魔女は世界を滅ぼす悪だと考えている過激な人間も少なくない。
 十代目は魔女を守護者に任命した。魔女を匿っている。魔女を殺せ。そういった声が上がるだろう事は想像に難くない。
 そうすれば良くて派閥同士の対立激化、最悪クーデターからの殺し合いの内部抗争、ファミリー分裂だ。
 第一例え魔女だという事がバレなくとも、獄寺がどこにも記録の残っていない素性も得体も知れない人間である事は変わらない。
 その時点で攻撃されるであろうことは赤ん坊もわかっている筈。
 にもかかわらずそれでもしつこく獄寺に声を掛けてくるのはそれだけ彼の力が欲しいという事か。
 五つの炎に戦闘能力、年齢にそぐわぬ学力の高さと沢田綱吉への絶対的なまでの忠義心。
 彼を捜索する上で与えたそれらの情報がこんな事になるとは。

 そもそも獄寺を見るボンゴレの構成員共の目も気に食わない。
 ついさっきも沢田綱吉の執務室から獄寺の手を引いて出て、財団へと戻る先程の道中、擦れ違う奴らは皆一様に見惚れ、熱に浮かれたような瞳を獄寺に向けていた。
 獄寺が人の目を惹く容姿をしているのは中学の時から知っていたし、大人になりその容姿に拍車が掛かっているのもわかっているがそれでも気分の良いものではない。
 睨み付ければ顔を青くし、走り去るか後退りをするかで近付いてくるような奴はいなかったが。

 執務室のテーブルにあったあのチョコレートもそうだ。
 あの缶には見覚えがあった。あれは確かイタリアの有名な老舗菓子店の物だ。
 大方獄寺の為にと用意したのだろうが、その気を惹こうとするような行為が僕の神経をまた逆撫でていく。

 口から出る舌打ち。
 そんな僕の考えを知ってか知らずか、獄寺が「我儘な奴」と笑う。
 たったそれだけで僕の気分は不思議な程に凪いでいった。

「獄寺。後ろ向いて」
「今回は何?」

 着物の袖口に腕を入れ中を探る僕を見て、獄寺が言われた通りにこちらに背を向け訊ねる。
 僕が遠方に行く度に幾度となく繰り返される行為。彼も今更理由を訊ねたりなどはしない。

「鼈甲」

 京都の店で買った鼈甲の髪飾りを手に持ち、櫛を口に咥えながら獄寺の髪に手を掛ける。
 手触りの良い、さらさらと滑り落ちる長い銀の髪。その髪を一つに纏めている髪留めを解いていく。
 黒漆に沈金で桜の描かれたそれは二週間程前に仕事先で購入してきた物だ。それを解き、傍らに置けば獄寺が手を伸ばし取っていった。
 手に取った髪留めを眺めている獄寺の髪を柘植の櫛で丁寧に梳いていく。椿油の染み込んだ櫛で梳かされ、銀糸がより艶やかになっていく。
 先程よりも一層滑らかになり手から滑り落ちそうになる髪を纏め、手に持っていた新しく購入した鼈甲の髪留めで一つに括っていく。

「出来たよ」

 花を模った鼈甲の髪留めで彩られた銀糸に満足し、櫛を手元箪笥に仕舞う。
 そうして手の内で黒漆の髪留めを転がし眺めていた獄寺の前に座れば、翠の瞳がこちらを向く。
 灰掛かっていながらも鮮やかなその翠に、次は翡翠も良いかもしれないと思いつく。
 彼の瞬く星のような銀糸には翡翠の翠が良く映えそうだ。まあ彼の瞳程鮮やかな翡翠は何処を探しても見付からないだろうが。

「いつも言うけど見えないんだって」

 僅かに唇を尖らせ、白い腕を頭の後ろへとやる。こちらからは見えないが後ろでは結ったばかりの髪飾りをその白い指で触れているのだろう。
 買ってきた髪飾りを見せぬまま髪を結い、その事に獄寺が文句を言うのもすっかりお決まりとなった流れだ。

「僕が見えてる」

 白銀の髪を梳き、彼の為に手に入れてきた髪留めで結う。
 その時間を僕は気に入っていたし、獄寺もその事に気付いているらしく僕がいる時は決して自分で髪を結う事はしない。
 彼の髪を結うのは僕の役目だ。

「似合ってるか?」
「似合ってるに決まってるでしょ」

 あまりに当たり前の事を言うものだから、僕が選んだんだよ?と返せば、そうだな、と獄寺が笑う。
 それに僕も笑えば胸を満たす温かな空気がそこに流れた。
 こういったふとした瞬間に訪れる時間も僕は気に入っている。



「失礼します」

 流れる穏やかな時間を壊さない程度の静かな声が廊下に面した襖の向こうから聞こえてくる。
 一拍置き、開けられる襖。その先には膝をつき頭を下げる哲と傍らに置かれた盆が見えた。

「お茶をお持ちしました」

 入るタイミングを見計らっていたのだろう。
 話が落ち着いたタイミングで襖を開けた哲は二人分の湯呑と茶菓子が乗せられた盆を僕達の前に置き、何を言う事も無く頭を下げ再び静かに部屋を出て行った。
 目の前には湯気を上らせる緑茶と栗の入った羊羹。
 それを見るなり獄寺の瞳が無邪気に輝いた。

「そういえば京都に行ってたんだもんな」

 獄寺が僕の買ってくる菓子をいつも楽しみにしているのは知っている。
 彼を暗い世界から引っ張り上げてからの時間は中学時代の時間と比べると短いが、あの時よりも多くの事を知った。
 本を読むのが好きな事、夜は中々寝付けない事、そして意外と和菓子が好きな事。

「チョコレートも美味いけど、やっぱヒバリが買ってくるやつが俺、好きだな」

 和菓子切で一口サイズに切った羊羹を口へと運び、そう笑う。
 そう言われれば悪い気はしない。
 自然と弧を描く口のまま湯呑に口を付ける。
 薄らと立ち昇る白い湯気。その向こうで笑みを浮かべたまま羊羹を小さく切り分ける獄寺が見えた。

「なあ」
「何」

 穏やかな笑みで、その笑み同様に穏やかな口調で僕に訊ねる。
 それに対し僕も穏やかな気持ちのまま笑みを浮かべ答えた。

「もし俺がまた魔女になって、犠牲にならないと世界が滅ぶってなったらどうする?」

 まるで明日雨が降ったらどうすると訊くかのような話し方。
 その質問は十年前のあの時を思い出させた。
 もし自分が魔女だったらどうすると訊いてきたあの時を。
 けれどあの時とは違う。
 彼の表情も、僕の気持ちも、僕達の距離も。

「壊してあげるよ」

 笑みを浮かべたままに迷う事無く、考える間も無く答える。
 思考を巡らす必要など無い。

「君が犠牲にならなきゃいけない世界なら、そんなもの僕が壊してあげる」

 君が憂うもの、君を脅かすもの、全て。

 君が居ない世界なんて御免だからね。
 そう笑い、湯呑を置く。向かいで獄寺が肩を一度だけ震わしおかしそうに笑った。

「世界が滅んだら俺もいなくなると思うけど」
「世界が滅ぶのと君が居なくなるのは同義じゃないよ」
「変な奴」

 今度は肩を何度も震わし、笑う。彼もあの時のやり取りを思い出しているのだろう。
 ならば僕もこの後言う台詞は決まっている。

「君は?」

 あの時と同じ言葉を投げる。
 あの時と違う答えを返すであろう君に。

「──俺の世界はもう此処だからな」

 唯一人、魔女の事を憶えていた男の傍。それが獄寺の小さな、小さな世界。

「この世界が無くなるのは、嫌だな」
「じゃあやっぱり壊すしかないね」

 君を魔女にしようとする世界を。ウィッチムーンを再び生み出そうとする世界を。

 君の世界を消し去ってしまうような世界なんて滅んだって構わないでしょ。
 それにまた十年かけて君を捜すのは嫌だと言えば、お前ほんっと我儘!と獄寺が声を出して笑った。
 その嬉しそうに、楽しそうに笑う彼に僕もつられるように笑う。

 二人だけの世界が温かく、ゆっくりと満ちていく。

 世界の為に犠牲になる魔女はもう何処にもいない。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -