この世界は草食動物にとって生き辛い世の中だと常々思う。
草食動物として生を受けるか、肉食動物として生を受けるかで人生は大きく変わる。
世の中の半分以上を占める草食動物だが、扱いとしては肉食動物の小間使いか、もしくは繁殖用の相手という考えが根強い。
勿論全てがそういった考えを持っている訳では無いだろうがそういう偏見や差別があるのは確かで。
その理由は草食動物が肉食動物に比べ体格も力も大きく劣るという点もあるが、繁殖力の違いも大きいだろう。
一見全てにおいて草食動物よりも勝っているように見える肉食動物だが、繁殖力に関しては違う。肉食動物は繁殖力が極端に低かった。
一般的に肉食動物はその優れた面からエリート意識が強く、その為出来る限り肉食動物同士で繁殖し、子を成したいと考える。
だが肉食動物同士では繁殖率が低い為、その確立を少しでも上げる為に草食動物を家に迎え、子を作ろうとするのだ。
しかしいくら繁殖力に優れた草食動物相手でも相性が良くないと子は出来ない。しかも例え生まれてもそれが肉食動物とは限らない。
その為地位の高い肉食動物は何人も妻、もしくは夫を持つのが一般的だった。
労働力や繁殖相手。
肉食動物の都合の良いように扱われ、利用される草食動物。
中には辺りをうろつく野良の肉食動物によって襲われ、村の草食動物全員が攫われるという事も珍しくない。
だからこそ力を持たない草食動物達は大勢集まって身を寄せ合うようにして森の奥に隠れ、生きるのだ。
秩序も何も無い野良に見つかってしまえば最後。殺されるか、連れ去られ奴隷か繁殖道具として使われる未来しかない。
いつ来るかわからない野良の襲撃に怯え暮らす。
兎族である獄寺の暮らす村もそういったところだった。
そして今、その最悪の出来事が獄寺の村に起こっていた。
野良による白昼の襲撃。
突然の襲撃に村中がパニックになり悲鳴や叫び声が響く中、隠れていなさいと窓一つ無い物置に俺を押し込んだのは村で只一人の肉食動物であり、たった一人の家族である姉、ビアンキだった。
小麦や乾燥した野菜を貯蔵している食糧庫。そこに怒号や悲鳴だけが聞こえてくる。
今頃姉貴は村の只一人の肉食動物として襲撃してきた野良と戦っているのだろうか。
だがいくら肉食動物とはいえ姉貴は雌だ。雌は雄には敵わない。しかも襲ってきた野良は何人もいた。
「畜生っ…!開け!開けよ…!!」
このままでは姉貴が。
真っ暗な中、何度も木のドアに体当たりをする。けれど貧弱な体ではそのドアは微塵も開く気配を見せなかった。
恐らく俺を此処に入れた後、開かないように扉の前に重たい木箱でも置いたのだろう。肉食動物ならば容易く動かす事が出来るそれが俺には重たくて仕様が無い。
草食動物の中でも数が少なく、ひ弱な兎族。その中でも特に希少で、体が弱いとされる銀毛の兎である俺には。
「くそっ…!!」
何度も体当たりしぶつけた肩が痛い。疲れ切った体がドアに寄り掛かるようにしてずり落ちていく。
いつも自分は守られてばかりだ。
後妻だった母さんが屋敷を出て村で暮らし始めたのも。
本来家を継ぐ筈だった肉食動物である姉貴がこうして草食動物の村で暮らしているのも全部。
愛されなくては死んでしまう、兎族である自分の為だ。
「っ…!」
あまりに無力な自分に怒りと悔しさから拳をきつく握り締める。
やっぱり此処にい続けるなんて嫌だ。いくら自分が貧弱な兎だろうと守られているだけなんて御免だ。
よろける体を奮い立たせ、再び立ち上がり暗闇の中ドアを見据える。
その時になってようやくあれだけ怒号や悲鳴で溢れ返っていた外が静かになっている事に気付いた。
今までドアを開けようと体当たりを繰り返していたせいで全く気付かなかった。一体どれくらい前から静かになっていたのか。
襲撃が止んだのか?それとも村人全員、野良に。
その考えにぞくりと血の気が引き、背中に汗が流れる。
頭に村人達の笑顔やビアンキの姿が過り、慌てて頭を振った。
まだだ。まだ決めつけるには早い。
震えそうになる体を気力で奮い立たせ、頭の上の長い耳をぴんと立て音に集中する。
出られないのならば音で外の状況を探るしかない。体力や力は無いが、聴力には自信がある。
閉ざされた空間の外は相変わらず静かだか、完全な無音という訳ではない。
耳に届くのは数人の話し声に足音。距離があるらしく話している内容まではわからないが、雰囲気からは不穏なものは感じられない。
これは誰の声なのか。村人か、それとも野良の肉食動物の声か。
どうか皆無事であってくれと痛い程心臓が脈打つ中、聞こえてくる微かな音に更に集中する。
すると一つの足音に耳がぴくりと震えた。
足音が、徐々に大きくなっている。
誰かが、こっちに来る。
しかも止まる事無く、真っ直ぐと近付いてくる様子から、相手は此処に誰かがいるとわかっている。
誰だ。敵か、味方か。
ドアから離れ、身を屈め構える。
草食動物の中でも特に弱いとされる兎だ。もし相手が肉食動物だった場合、勝てる可能性は極めてゼロに近い。
けれど不意を突けば或いは。
はっきりと聞き取れるまで近付いた足音がぴたりとドアの前で止まる。
汗が伝う。心臓が煩い程大きく鳴る。
暗闇で広がる瞳孔を更に広げ、ドアの向こうにいるであろう存在を睨み付ける。
ごくりと喉が大きく鳴った。次の瞬間。
「うわっ!?」
大きな音を立てて突然目の前のドアが砕かれた。
吹き飛んだとか壊されたとかではない、文字通りとんでもない強い力でもってまるで切り裂くようにドアが砕かれたのだ。
飛び散るドアの木片。それから身を守ろうと咄嗟に腕を顔の前で交差させる。
破壊された入口から射し込む外の光がその腕の隙間から覗き、降りかかる木片と逆光の眩しさから反射的に目を細めた。
狭い白い視界。その中に黒い人影が見えた。
ぱき、と砕け散ったドアだったものを踏みつけ、ゆっくりと物置に入ってくるその人影。
逆光でよく見えないが、それでもわかる。
こいつは肉食動物だ。
何故さっきの俺は不意を突けばいけるだなんて思ったのだろうか。
少しの隙も感じられない圧倒的なまでの空気がびりびりと肌を突き刺し、頬伝った汗が顎から首へと流れた。
今目の前にいるのは捕食者だ。それも頂点に立つような。
「…あ…」
足が自然と後ろへ下がる。長い耳が恐怖からふるふると震えながら倒れた。
だが目の前の相手はそんな俺の様子を特に気にする風も無く、木片を踏みつけながら近付いてくる。
後退りした体が背後の壁にぶつかり、止まる。一気に詰まる距離。
肉食動物が目前までやってきて、その大きさに思わずごくりと喉が鳴った。
でかい。
肉食動物の方が草食動物よりも大きいというのは勿論知っている。
けれど村には姉以外の肉食動物はおらず、肉食動物であった父とも殆ど接する事は無かったし、幼い頃に過ごしたきりであまり記憶に無い。
なので雄の肉食動物というものをこんなにも間近に見たのは初めてといっても良い。
頭一つ分程大きなその影は静かに獄寺を見下ろす。逆光でシルエットしかわからないが、特別がたいが良い訳では無い。
只身長が高いだけのように見えるのに、その体から発せられている威圧感は普通のものではない。全身が竦んで固まり、腕が小刻みに震える。
これが蛇に睨まれた蛙と言うやつなのか。
呆然と見上げ、固まる体。
そんな俺の腕を肉食動物は突然掴んだ。
「っ、!?」
突然の事過ぎて声も出なかった。逆光により真っ黒で見えないが、肉食動物が俺を真っ直ぐ見ているのがわかる。
俺とは違う、大きな手。
それが俺の腕を掴んだまま何も言う事無く踵を返す。
そしてそのまま物置の入口の方へと俺を引っ張って行った。
「な、なに…!?」
きっとこの肉食動物にとっては大した力を入れている訳ではないのだろうが、大きな手は俺の腕を掴んで離さない。
抵抗などしたところで逃げられる訳が無いとありありとわかる一回り以上大きな手に、体が一層冷えていく。
腕を掴まれ連れ出された外。そこは長く真っ暗な倉庫にいた俺にとっては刺すように眩しく、思わず瞼が下りる。
ぎゅっと目を瞑り、再びゆっくりと瞼を持ち上げた先。そこにあったのは己の腕を掴んだままの黒い肉食動物の後姿と、自分達を取り囲むようにこちらを見つめている何人もの年のいった肉食動物達の姿だった。
「…っ」
体が竦んでしまうのは草食動物の本能故だろう。
決して力で勝つ事の出来ない相手に対して恐怖を感じてしまう。それが大勢であれば尚更。
こいつらが村を襲った野良か、と思ったがよく見ると野良にしては身形が綺麗すぎる。
見るからに上等そうな着物を着ているその姿は決まった住処を持たず森や山を移動する野良とは到底思えない。
恐らく大きな町の肉食動物だ。しかも上流階級の。
そんな町の肉食動物が野良の襲撃にあっている村にいる理由。そんなものは一つしかない。野良狩りだ。
草食動物は戦う術を持たない。野良に襲われてしまえばお終いだ。
そんな村の草食動物を守る為に町の肉食動物は近くの森を見回りし、野良狩りをするのだ。
その証拠にこの身形の良い肉食動物達の足元を見れば野良であろう肉食動物達が何人も転がっていて、村の人達が皆遠巻きに、けれどどこか安堵の目で彼らを見ている。
自分達の身を守ってくれる町の肉食動物。
けれどそんな彼らも只善意でやっている訳では無い。そこに見返りが、得られるものがあるからこそそんな事をやっているのだ。
村を守った報酬として彼らは何かしらを要求してくる。
それは村にとって大きな負担にはならない程度の金銭だったり食料だったり、
繁殖用の草食動物だったり。
「これにする」
『これにする』と言った目の前の肉食動物が掴んだままの俺の腕を引っ張り、軽く持ち上げる。
何の事かわからずきょとんとしていると、その言葉に周りにいた肉食動物達が一斉に目を瞠り、こちらを見た。
「なっ…!そんな安易に…!」
「他の者も見てから選ばれた方が宜しいのでは…!」
「そうです!それにその草食動物は雄なのでは!?」
「…そうなの?」
周りの肉食動物達に何やら煩く言われ、腕を掴む肉食動物が俺の方を振り返る。
その時俺は初めて自分の腕を掴む肉食動物の顔を見た。
一般的に整っている部類に入るであろう顔立ちの肉食動物。その雄は俺とあまり歳は変わらないように見えた。
紺色の着物を身に纏い、黒髪に三角形の尖った黒い耳。猫科に見えるがやや小さめの耳は黒豹だろうか。
長めの前髪から覗く切れ長の目は肉食動物特有の縦長の瞳孔でこちらを見つめている。
そこに獲物を見るような獰猛さは見えないが、腕を掴まれている事と自分の置かれた訳の分からない状況に頭は未だに混乱しっぱなしだ。
「え…?」
「君、雄なの?」
意味が分からず訊き返し、そこで漸く肉食動物の言う意味を理解した。
確かに彼らから見れば草食動物は皆小柄だし、母親似だと言われたこの容姿は中性的らしいのでぱっと見でわからないかもしれない。
それでも雌と間違われるなんていつもならば腹立たしい事に違いないのだが、今の俺には怒鳴る余裕どころかそもそも怒りよりも混乱や焦りの方が強く、問いに対し頷く事しか出来なかった。
「ふうん。じゃあ、」
俺の返答に返した黒豹が身を屈め、顔を近付ける。
薄い唇が開き、鋭い犬歯が覗く。そしてふわりと香の匂いが鼻を掠め、顔が首筋に埋められた。
次の瞬間。
「う、あっ…!?」
顔を寄せられた左側の首筋に鋭い痛みが走った。
咬まれた。
そう思った直後、心臓が大きく拍動し、呼吸が止まる。
全身が熱くなり、腹の奥が締め付けられるような、何十本もの針に刺されたような激痛が走り、一気に汗が吹き出す。
あまりの痛みと苦しさに飛びかけ、明滅する思考の中、これは只咬まれただけではないと本能で察した。
これは、もしかして。
「これで問題ないでしょ」
ずるりと抜かれる牙の感触。するとさっきまでの息苦しさも痛みもまるで幻覚だったかのように一瞬で消え、代わりに咬まれた首筋が熱く疼き出す。
痛みの余韻で滲む視界、そこに無表情の黒豹がこちらを見つめ、口元に付いた血を舐めとる姿が映った。
「雲雀様…!花印を…!」
騒然とする周囲が口にした『花印』という言葉。
その言葉にやっぱりそうだったのかと頭の片隅で冷静に思いつつ、体は信じたくない現実に血の気が引いていった。
『花印』とは肉食動物が一生に一度だけ使える力だ。それは繁殖力の低さを補う為に得た力とも言われている。
相手の体に咬みつき、牙を突き立てる。するとそこには花のような印が浮かぶ。
そこから花印と言われているが、その効果は繁殖能力の増強だ。
花印を刻まれた者は雌ならば子を孕みやすく、雄ならば相手を孕ませれる確率が上がる。
だがその力はさっきも言った通り使えるのは一生に一度のみ。
だからこそ肉食動物は子を成したいと考える相手、肉食動物である相手にこの力を使う事が殆どだ。妊娠確率の低い肉食動物同士の交尾。その確立を少しでも上げる為に。それが普通だ。
その一生に一度の大事な力をこの肉食動物は事も有ろうに出逢ったばかりの、しかも草食動物の雄である俺に使ったのだ。
花印には繁殖能力を上げる以外にもう一つ大きな力がある。それは同性相手に行使した場合に発動される。今のように雄が雄に花印を刻み付けた場合に。
その場合、刻まれた雄は妊娠が可能な体に変わってしまう。花印を刻み付けてきた相手の子を孕む事の出来る体に。
さっきの痛みや苦しさはその所為だ。花印によって体が子を成せる体へと作り替えられたが故の痛み。
『これで問題ないでしょ』と言ったこの雄の言葉はこういう意味だったのだ。これで雄だろうと問題ないだろと。
恐らく今の状況や周りとのやり取りから察するに、この町の肉食動物達は村を助けた見返りとしてこの目の前の黒豹の繁殖相手となる草食動物を要求したのだろう。
そこで何故かは知らないがこの黒豹は俺を繁殖相手にと考えた。けれど俺が雄だったので繁殖出来るように花印を刻み付けた、と。
そんなところだと思うが、よりによって兎族の俺に花印なんて。
他の草食動物ならば花印を刻まれたところでそれは所有物の証、繁殖相手だという印ぐらいにしかならないが、兎族は違う。
特に銀兎は。だって銀兎は、花印を刻まれてしまえば。
「ハヤト…!!」
俺を呼ぶ声。その声にハッと現実に戻る。
悲愴なまでに、叫び声のように呼ぶ声。それは姿を見ずとも誰かなんてわかる。
花印を刻まれたという現実に呆然と立ち尽くす俺に駆け寄り、黒豹を押しやって俺の両肩を掴む。その特徴的な斑点模様の耳にピンクの髪。
誰よりも俺を愛してくれた存在。
「アネキ…」
「ハヤト…そんな…」
愕然といった表情で姉貴が未だ熱を帯びる俺の首筋に震える手で触れる。きっと其処には花の紋様が浮かび上がっている事だろう。
俺を見つめる大きな瞳が歪み、見る見るうちに水を湛えていく。
そう、姉貴は花印を刻まれた兎の行く末を知っている。
「貴方っ、ハヤトに何て事を…!」
姉貴が黒豹を睨み付け、掴みかかる。
それに対し黒豹は全く動じる事無く、何を考えているかわからない黒い瞳を只向ける。
だが周りは、雲雀様に何をするだの、すぐに離れろだのと口々に怒鳴り、攻撃せんばかりの勢いでこちらに近付き始めた。
姉貴は強い。あんな年老いた肉食動物共相手に負けるとは思えない。けれどこの目の前にいる黒豹は得体が知れない。
姉貴に何かあったら。それは何よりも嫌だった。
それに姉貴がどれだけこの黒豹に詰め寄ろうが、周りの肉食動物を倒そうが、もう既に俺には花印が刻まれてしまったのだ。
「アネキ、良いから」
「ハヤト…」
黒豹の胸ぐらを掴む姉貴の腕に触れる。
姉貴がこんなにも怒ってくれているからだろうか、こんな事になってしまったというのに俺の心は驚く程に落ち着いていた。
「俺、大丈夫だから」
「ハヤト」
「村の事、頼むな」
この村で唯一の肉食動物である姉貴は唯一の守りでもあるから。
だから村の皆の事を守ってくれとそう言えば、姉貴は涙を零して俺の事を抱き締めた。
「行くよ」
表情同様に何の感情も感じられない声で黒豹に促され、体を離し姉貴に笑い掛ける。
もう二度と会えないかもしれないと思いながらしたその顔が、ちゃんと笑顔になっていたかはわからない。
姉貴に、村に、背を向ける。
まるで牢獄へと連れて行かれる罪人のようだと思いながら、肉食動物達に囲まれ歩く。
肉食動物達が暮らす町へと続くその山道を俺はその日初めて歩いたのだった。
大切にしてもらえるなんて最初から思っていなかった。
肉食動物は草食動物の事を繁殖用の相手としか見ていない事も少なくないと知っていたし、自分が連れて来られた経緯も経緯だ。
あんなので愛してもらえるなんて思えるのは夢見る少女か、余程頭がめでたい奴くらいなもんだろう。
だから覚悟はしていた。
していたが、正直ここまでとは思ってなかったのも事実だ。
広い和室。そこで草食動物である俺の為に用意してくれたのだろう、野菜や木の実しか使われていない料理を口に運び溜息を漏らす。
こんなに広い部屋だというのに向かいに一緒に食事をとる相手はいない。
いるのはこの家に仕えているという大型犬種の肉食動物、草壁という雄一匹だけ。
そいつは申し訳ないといわんばかりの表情で離れた位置に正座し、こちらを見ていた。
「…あいつ、今日も野良狩りに行ってんの?」
「はい…、本日は西の方の山に」
「…ここまできたら狩り中毒だな」
「隼人さん…」
わかってる。そう軽く手を上げて示せば、草壁は目を伏せ軽く頭を下げた。
そう、わかってはいる。野良狩りは森や山の秩序を守るという事であり、それは草食動物の村を守る、延いてはこの町の為にもなるという事を。
わかってはいるが、町の長自ら毎日朝から夕まで野良狩りに出ているというのは普通では無いという事くらい、村からほぼ出た事が無い俺にもわかる。
この町は大きい。連れて来られて初めてこの町を見た時、あまりの大きさと裕福な暮らしぶりに驚いたぐらいだ。
これだけ大きな町なのだから長が行かなくとも野良狩りに行ける肉食動物なんて何匹もいるだろうに。
「…ご馳走様」
また一つ溜息を吐き、膳に箸を置く。
その音は無駄に広い空間に大きく響いたように聞こえた。
「まだ多かったですか?」
「ん、もうちょっと少なくて良い。態々作ってくれたのに悪いな」
ご馳走様、と手を合わせた先、残された料理達が見える。
この家に来てから五日経つが、未だ出された料理を全て食べきれた事が無い。
というのも量が多過ぎるのだ。草食動物はその種族によって生体が大きく変わる。体格も食べる量も、生きる為に必要な事も。
それを肉食動物の殆どは知らないらしかった。それだけ肉食動物にとって草食動物への理解や知識は必要ないという事なんだろう。只交尾をし、子を成す為だけの存在の事など。
決して草壁が悪いと言っているわけではない。寧ろ草壁は草食動物である俺に対して何かと気を遣ってくれ、不都合は無いかと色々聞いて良くしてくれている。
要するにこんな偏見や差別も持たない草壁でさえ知識を持っていないくらい、肉食動物にとって草食動物に対する知識も理解も無い事は当たり前で普通の事なのだ。
そんなんなのだから、草食動物の中でも希少種と言われている兎族に対する知識など尚更ある訳がない。ましてや銀兎についてなんて。
もしそんなものがあれば、毎日一人で食事をさせるなんて事はしないだろう。
「隼人さん、少し散歩でもされては如何ですか?」
自分用にと宛がわれた部屋へ戻ろうと立ち上がった背中に声が掛けられ、振り返る。
こちらを見る草壁は穏やかな笑みを浮かべてはいたが、そこには心配するが故の気遣う色がありありと見て取れた。
恐らく此処に来てから殆ど家から出ない俺を気にしているのだろう。
それはそうだ、此処に連れて来られ五日。俺がこの家から出たのはたったの一度しかない。ずっと家に閉じこもっている俺が気になるのは当然と言えば当然だろう。
「すぐ近くの丘からは町が一望できて今日みたいな晴れてる日はとても気持ちが良いですよ。恭さんも気に入っていて、よく行くんです。もう少ししたらそこに植わっている桜も咲き始めますよ」
「丘って、俺の部屋から見えるあそこ?」
「はい、そうです」
「…あれ、桜の木だったんだ」
俺に宛がわれた部屋は庭に面していて、障子を開け放つと確かに少し離れた所に小高い丘が見えていた。
そこに大きな木が一本生えているのも見えていたが、何の木かまでは知らなかった。
「昔からある木で、満開になればそれは見事ですよ」
「へえ…」
それは確かに少し見てみたいかもしれない。暮らしていた村の近くにはそんな立派な桜は無かった。
けれど今はまだ咲いてないようだし、それに何よりこの屋敷から出たくない。
草壁の提案をやんわりと断り、部屋へと戻った。
この屋敷に連れて来られた日の翌日、俺は町を見て回りたいというのと、気分転換を兼ねて一人散歩しようと外に出た。
町は賑やかで、人が多くて。元いた村とは比べ物にならなかった。
そしてわかってはいたが肉食動物が兎も角多かった。草食動物なんて殆ど見なかったように思う。
それは当然だ。町というのは肉食動物が創り、肉食動物の為に在るのだから。草食動物はあくまで家での小間使いや繁殖用の存在で、そんなに出歩く事も無いのだろう。
町に住んでる割合としては肉食動物の方が遥かに多い筈だ。だから町をうろつく草食動物、しかも見慣れない顔に目が行くのは当然の事なのだが。
そうだとしても俺へと向けられる視線の数は異常だった。
行き交う肉食動物の視線が全て俺へと向けられる。それは殆どが好奇の目であったが、突き刺すような凡そ好意的とは思えない視線も少なくなく。
その日俺は視線から逃げるようにすぐに屋敷へと戻った。そしてそれ以来一度も外には出ていない。
肉食動物が草食動物を下に見る事は珍しくも無いし、それに対して特に何かを思う事も無い。
けれどいくら下に見ているとはいえ、それは小間使いや道具、もしくは愛玩動物として見ているだけで、決して厭う感情は無いと思っていた。
この町よりも大きな町に小さな頃暮らしていた事があったが、その町でもそんな風に見られる事はなかったように思う。
俺が知らなかっただけで、実際はこれが普通なのか。それともこの町だけがそうなのか。
それはわからなかったが、あんな視線を向けられてまでまた外に出たい等とはとてもじゃないが思えなかった。
襖を閉め、一人きりになった部屋。
隅にある細かい細工の施された立派な鏡台の前に立てばまるで似合わない着物を着た自分の姿が映し出される。
村で着ていた擦り切れた古い服と違い上等な着物は俺には酷く不釣り合いで。『着せられている』感が酷く、惨めにさえ感じた。
きっとこの豪華な鏡台も上等な着物も、いずれ来る筈だった肉食動物である正妻の為に用意された物だったのだろう。
それが実際に使っているのは情けなく耳が伏せられた草食動物の、しかも雄で。
鏡に映る銀兎の首筋には鮮やかな赤い桜のような花が咲いている。
五日前村で付けられた花印だ。
花印はその肉食動物により形状が違い、色の濃さは刻み付けた肉食動物の強さを表す。
濃ければ濃い程その花印を刻み付けた肉食動物が強いという事を示しているだけだが、首に咲く血のように濃い真っ赤なその花に流石町の長だな、と目を伏せた。
肉食動物は実力至上主義だ。弱い者は強い者に従い、強い者は上に立つ。
長という事はこの町で一番強い肉食動物という事だ。
「…雲雀、恭弥」
この町の長。俺に花印を刻んだ黒豹の名前。
此処に来てから俺が知った事は少ない。
俺に花印を刻んだ黒豹の名前と、その黒豹が町の長だという事と、とても強いのだろうという事と。
そして。
全く俺を愛しおらず、愛そうともしていないという事。
只の繁殖相手として連れてきたのならそこに想いなど無い事も、心を砕く必要も無い事もわかる。只交尾して子が出来ればそれで良いのだから。
だが、雲雀恭弥はそれさえもしようとしない。
布団が別々どころか寝所さえ別で、交尾をしようとする素振りさえ見えない。
会話らしい会話もした記憶が無く、食事もいつも一人。
自分で選んで、花印を刻んでまで連れてきておきながらこの扱い。
一体どういうつもりなのか、あの肉食動物は。
全く読めない黒豹に苛立ちを覚えつつ、日がよく当たっている縁側に腰を下ろす。
ここ最近暖かくなってきた春の陽気が心地良い。
少し視線を上げれば塀の向こう、先程草壁が言っていた小高い丘が見えた。
雲雀恭弥が気に入っているという丘。
そこにある桜の木を見つめながら俺は母さんの事を思い出していた。
俺と同じように体に赤い花を咲かせた銀兎の母親を。
…母さんは自分の命が燃え尽きていくのを、どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。
最期の瞬間、何を思っていたのだろうか。穏やかに笑いながら瞳を閉じたあの人は。
今の俺にはそれがまだわからない。
「…あの桜が咲く頃まで生きてられっかな」
日に日に怠くなっていく体を縁側に横たえる。
視線の先、丘の上の桜はまだ青々しく、ピンクの淡い色は見えなかった。