中二の時にイタリアから転校してきたそいつは男の俺から見てもすげー綺麗な顔してて。
 透き通るような白い肌に銀の髪と翠の瞳を持ってて。
 こんな綺麗な人間がこの世にいるんだと、一瞬で心奪われた。





「うっわ…凄い土砂降り…」

 授業が終わり昇降口から見る外は白く霞むぐらいの大雨で、叩きつける雨音の大きさに自然と会話する声も大きくなる。

「沢田さん、急いで帰りましょう」
「うん、そうだね」

 靴を履き替えたツナと獄寺が傘片手に振り返る。
 そんな二人とは違い俺は靴は履き替えたものの傘は手に無く、何も持たない手を軽く上げて二人に笑い掛ける。

「じゃあね、山本」
「おう!また明日な!」

 急ぎの用事があるというツナが土砂降りの中傘をさして外へ出る。
 ツナを慕う獄寺も当然の如く一緒に学校を出て行こうとするが、外に出る直前にちらりとこちらを見て「じゃあな」と言葉を投げて来た。その素っ気無く投げられた言葉一つでも気分が分かり易く上向いていくのだから、我ながら単純だと思う。
 ツナ以外には歩み寄ろうともしない獄寺がこうして自分から声を掛けてくれたのだ。彼に惚れている身としては当然の事ではないかと思う。
 傘を忘れ、親が車で迎えに来るまで帰る事の出来ない憂鬱だった気分も、獄寺のそのたった一言で綺麗に吹っ飛び、鼻歌混じりに制服から携帯を取り出した。
 殆どの生徒が急ぎ足で帰り人気の無い昇降口。土砂降りにより湿気を帯びた冷えた空気で冷たくなっているリノリウムに座り、取り出した携帯を弄る。いるのは自分一人。
 雨音だけが大きく響くそこで俺は最近毎日のように見ている動画チャンネルを開いた。
 それは『less』という人物がピアノをただ演奏しているだけのチャンネルだった。一言も喋らず、映し出されるのは手元だけ。
 チャンネルの説明文には何も無く、動画の説明文もいつも曲名しか書かれていない。どんな人物なのかは一切わからない。
 そんなチャンネルに昨日投稿されたばかりの動画。タップすればいつも通り斜め上からのアングルで白と黒の鍵盤が映し出され、そこにスケッチブックを持った手がフレームインする。スケッチブックにはやや斜めに傾く整った綺麗な字が並んでいる。書かれているのは最近流行りの曲名だ。
 そのスケッチブックはすぐに引っ込められ、白い手が鍵盤の上に乗せられる。指が長く綺麗な手はぱっと見女の人のようにも見えるが、少し節くれだっているのを見るときっと男性なのだと思う。その手から奏でられるのは先程スケッチブックに書かれていた曲だ。
 元はポップな曲調だったものがバラード調にアレンジされ流れるように奏でられる。それはとても心地良い音色で自然と体が揺れた。
 アレンジされているのに何の違和感も無く心に染み渡っていく。癒しに音があるとすればきっとこんな音だ。
 ゆっくりと約四分の曲がフェードアウトしていき終われば白い手は鍵盤から離れ、再びスケッチブックを画面に映す。
 さっきと違い次に書かれていたのは全く知らない曲だ。何だか短調という文字が見えたのできっとクラシック曲なんだろうがよくわからない。
 クラシックに今まで興味を持った事が無い自分には当然の如く聴いたところでわからない。けれど彼が奏でる曲は知らない曲でも興味の無いジャンルでも好きだった。

 今まで野球だけだった自分が何故毎日のように彼の動画を、しかも興味を持った事も無いピアノの演奏を見るようになったのか。
 それは数か月前、部活の先輩に勧められたのが切欠だった。
 何でも今人気のアーティストの曲をアレンジして演奏した動画をその本人が見たらしく、それをツイートした事によって一気に知られ、人気が出たらしい。

 今すげえ人気の演奏動画、知ってるか?知らねえなら一度見てみると良いぜ!すげえ良いから!

 正直あまり見る気は無かったのだが、先輩から勧められた手前一度は見た方が良いかと半ば渋々といった気持ちで検索し、就寝前に開いた動画。
 一、二分だけ見れば良いかと最初は思っていたのに、気付けば最後まで見てしまっていた。それどころか睡眠時間を削ってまで他に上げられていた動画も見ていた。
 どこか切なく、胸がぐっとなるような綺麗な音。彼の奏でるその雰囲気は俺の胸に共鳴するように響き、捕らえて行った。

 それ以来時間さえあれば『less』の動画を見るようになった。
 今も携帯から流れるピアノの音色が胸の内に響き渡る。激しい雨音で所々聞こえ辛くなる音に、こんな事になるならイヤホンを持ってこれば良かったと音量を上げたその時だった。


「校内での携帯の使用は特別な理由が無い限り原則禁止だよ。山本武」
「っ、雲雀」

 決して大きい声ではない筈なのによく通る低い声に慌てて振り向けば、風紀委員の赤い腕章を付けた学ランを羽織る見慣れた姿。
 中学時代から変わらない年齢不詳のその先輩は雨で冷え切った空気よりも冷たく感じる瞳をこちらに向け、軽く腕を組み佇んでいた。

「わりぃ、授業中じゃねえし、見逃してくんね?」
「見逃す道理が無い。反省文三枚」
「ははっ、きびしーなー」

 そうは言いつつも一応放課後というのを鑑みたのだろう。じゃなければ反省文では無く没収されていた筈だ。
 雲雀に見つかってしまった以上、指摘を無視して動画を見る事は流石に出来ない。
 生配信では無いのだから家に帰ってからまたゆっくり見る事にしようと画面を消そうとする。するとふと雲雀の視線がその画面に向けられている事に気付いた。
 それも一瞬だけ見るといった感じではなく、じっと画面に向けられる視線。
 その瞳からは何の感情も読み取れないがさっきまでの冷たい色は見えず、もしかしてと俺は目を瞬かせた。

「もしかして雲雀もこの動画見てるのか?」
「さあね」

 雲雀の興味を持っているものを俺は全然知らないが、世間で流行ってるような動画を彼が見ているとは思えず驚き混じりに訊ねるが、軽く流されてしまう。
 その暗に言う必要は無いと言わんばかりの返しに思わず苦笑した。
 雲雀とは特別仲が良いわけではないが、中学からの付き合いだ。先輩と後輩で、部活や委員が一緒な訳でもないので関りはあまり無いと言えば無いのだが、それでもここまで距離が縮まらないのは雲雀くらいだと思う。
 そもそも自分に限らず雲雀が誰かと仲良く話しているところなんて見た事もないし、想像も出来ないのだが。

「反省文、明日中に提出して」

 そう言うなり背を向け去って行く。その背中からはもうこっちに少しの興味も無い事が伝わってきた。
 再び一人になった昇降口で雲雀が去った方を見つめる。

「…反省文ってどう書くんだろ」

 反省文なんて一度も書いた事の無い自分には書き方がよくわからない。読書感想文みたいな感じで良いのだろうか。
 ああ、そうだ。獄寺に聞こうか。獄寺はよく服装やサボりで注意されて雲雀に反省文を書かされていたから書き方を知っている筈だ。

 そう言えば関りが殆ど無かった雲雀とあまり機会は無いがそれでも話すようになったのは、その事が切欠だったように思う。
 獄寺といる事の多い自分と、獄寺の元に注意や制裁といった理由でやって来る事の多い雲雀。
 今思えば他の違反者には風紀委員が来るのに、獄寺の所には雲雀が来る事が何故か多かった。それだけ他の委員じゃ獄寺の対応は出来なかったという事なんだろうか。
 でも例え雲雀が来ても獄寺がそれを正した事は無いけれど。

 携帯から流れ続ける悲しい程綺麗なピアノの音を聴きながら、俺はそんな事をぼーっと一人考えていた。





 それから約一か月後、俺は晴れ渡った空の下、屋上でいつもと同じようにツナと獄寺の三人で昼休みを過ごしていた。
 昨日見たテレビの話や部活であった話をしながら購買で買ったパンに齧りつく。

 今日はもう早く帰ってしまいたい。今日も部活はあるが、とてもじゃないがこんな状態じゃ身が入らないだろうと自分で思う。あの野球しかなかった自分が。
 数か月前の自分では全く考えられない。
 そんな事を考えているとふとこちらを見るツナと目が合った。

「山本、何かあったの?」
「え?」
「何だか朝からずっとそわそわしてるから」

 ツナに指摘され、思わずパンを掴む手が止まる。

「…そんなにそわそわしてた?」
「うん」
「授業中あんなに上の空で気付かない奴がいるかよ」

 にこにこと笑い掛けるツナと呆れた様子の獄寺に気恥ずかしさが湧き、頬を掻く。
 確かに朝から、というか昨日の夜から落ち着きが無くなっている事は自覚があったが、まさか気付かれるとは。
 二人がそれだけ言うという事は余程だったのだろう。理由はばれていないだろうが、他のクラスメイトにもそう見られていたのかと思うとやっぱり恥ずかしかった。

「もしかして山本がいつも見てる動画?」

 ずばり言い当てられ、どきりとする。
 時折勘の良さを見せる友人のそれは今この時も遺憾なく発揮されたようだ。

「…ん、実は今日の夜、生放送があってさ」

 今やすっかり日課になってしまっている『less』の動画視聴。その事はこの二人は知っている。
 『less』の動画を見始め暫く経つが、変わらず演奏動画は上がり続けている。
 週に一、二回投稿される動画。動画で演奏される曲はクラシック曲と最近話題となっているような流行りの曲。あとコメントもちゃんと読んでいるらしく、稀にコメントにあった曲を弾く事もあった。
 その編成はずっと変わらない。
 けれど彼の動画で以前と変わった点が一つだけある。

 それは雰囲気だった。
 『less』の奏でる音の雰囲気が変わった。

 弾いている曲のジャンル自体はいつもと変わらないのだが、奏でる音が違うのだ。
 切なく胸が苦しくなるような儚げだった音が、今は聴いていると幸せな気分になる柔らかで温かな音になっている。
 それは他の人も気付いていたらしくコメントでもその事に触れているのをいくつか見た事があるが、俺はその変化がどこからきているのか何となくわかった。
 以前の音はまるで俺の心境をそのまま形にしたような音に感じたから。ずっと傍で見つめ続け、想いを寄せ続ける獄寺への恋心を。
 だからきっと『less』も俺と同じように誰かに片想いをしていて、それが良い方向へと変わっていっているんじゃないかと思った。
 勿論それは全部俺の勝手な予想だ。『less』は動画内で一言も喋らないし、コメントを残したりもしない。SNSのアカウントも持っていないから本当の事は誰にもわからない。
 けれど俺はその自分の考えが間違いではない自信が何故かあった。

 奏でる音の変化に比例するように、元からあった『less』の人気は更に拍車がかかっていった。
 動画が上がればすぐさま再生数が爆発的に伸び、Twitterのトレンドにも入る。
 彼が弾いた曲もトレンド入りし、その曲は売り上げさえ伸びると言われ最近ではテレビでも謎の天才ピアニストとして取り上げられるようにもなった。

 そんな『less』が昨夜、突然翌日夜のライブ配信予約をしたのだ。
 今まで生配信は一度も無かった。突然表示された配信予約の表示にネットは騒然とした。
 勿論俺もその中の一人な訳で。
 楽しみで楽しみで、昨日は中々寝付けなかった。それでも今眠気が無いのはそれだけ今夜の配信への期待から興奮しているからなんだろう。
 でもまさかそれが分かり易く表に出てしまっているとは思っていなかった。

「あー、それでかぁ。クラスでも朝から話題になってたもんね」

 本当に好きなんだね、とツナが微笑む隣で獄寺は興味無いと言わんばかりに視線を逸らし制服から煙草を取り出す。
 きっとまだ食事中の俺らに気を遣って少し離れた所へ移動し吸おうとしているんだろう。
 獄寺は決まって『less』の話題になると途端喋らなくなりどっか行ってしまったりする。
 よく音楽の授業をサボっているし、音楽自体に興味が無いのだろうかとも思ったけれどCDショップにいる姿を何度か見た事があるのでそういう訳でもないんだろう。
 獄寺に恋をしてもう二年。こうして一緒にいる事は多いけれど未だに獄寺の事はわからない事が多い。獄寺は自分の事を話したがろうとしないから。

「あれ、獄寺くん。指どうしたの?」

 聞こえたツナの声に俺もつられるように獄寺の指へと視線が向く。煙草のパッケージを握る右手。ごつごつとした指輪がいくつも嵌められたその右手の人差し指に微かに赤い痣があるのが見えた。
 ツナが言ったのはこの痣の事なのだろう。遠目で見ればわからないんじゃないだろうかというくらい薄らと赤くなっているその痣はけれど気付いてしまえば何だか気になってしまう。

「今朝、煙草でちょっとやっちゃいまして…」
「大丈夫?保健室で薬とか…」
「そんな大した事無いんで大丈夫ですよ」

 獄寺の『大丈夫』は信用ならない事を俺達はよく知っている。
 些細な事でも強がって弱みを見せまいとする獄寺は限界まで我慢して後で大変な事になるというのが今まで何回もあった。
 中学の頃は頻繁に雲雀に殴られ全身傷だらけになる事がよくあり、その度に『大丈夫』と言って手当ても適当だった。
 高校に入ってからは傷をつくる事自体殆ど無くなったけれど、その時の事を知っているからこそ些細な怪我でも心配してしまうツナの気持ちは俺にもよくわかった。
 けれど確かに今回の怪我は獄寺の言う通り大した事はなさそうに見える。
 白い指に映える赤い火傷痕。

「…綺麗な指なのになー」

 勿体無い。

「はぁ?」

 思わず出てしまった言葉に獄寺が思い切り顔を顰めこっちを見る。
 その顰められた表情さえ勿体無いと感じてしまう俺はきっと重症なんだろう。眉間に皺が寄っていないときは物凄い美人なのにと。
 こんな事を言ってしまえば更に顔を顰め凄まれるだろうから絶対に言わないけれど。

「…お前、頭おかしいんじゃねえの」
「ははっ、酷いのなー」

 呆れた様子で言われ、笑う。
 勿体無いとは思うけれど、結局のところ獄寺に恋をしている俺はどんな表情でも言葉でも、自分に向けられるものならば嬉しいのだ。
 あまり他人と関わろうとしない彼だからこそ尚更。
 好きな相手がこっちを見て、話しかけてくれる。それがあまりに嬉しくて。屋上のドアが開いた事にも、俺達のすぐ近くに人が来てる事にも全く気付かなかった。

「これ没収ね」

 突然近くから聞こえた低い声と共に獄寺の肩越しから腕が伸び、彼の握っていた煙草を奪う。
 節くれだった長い指に整った形の良い爪。そこから伸びる白いシャツに靡く黒い学ランが顔まで確認せずとも誰かわかってしまう。
 神出鬼没、けれど獄寺といるとよく出会う風紀委員長。

「っ、ヒバリ!」
「何度も没収されてるのに君も懲りないね」
「テメッ、返せ!」
「言われて返すわけがないでしょ」

 全く困ったものだね、と取った煙草を制服にしまうその顔はどこか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 違反者を取り締まっているというのに声音も穏やかで柔らかく感じる。
 中学の時は有無も言わさず即行トンファーを振り翳していた風紀委員長と、いくら叩きのめされようと屈するどころか向かっていった問題児は顔を合わせる度に激しくぶつかり合っていたけれど、今はめっきり無くなって軽い言葉の応酬があるだけだ。
 違反を取り締まる風紀委員長と違反を繰り返す問題児という関係は変わっていない筈なのに、今の二人は何だか不思議に思えた。

「応接室来て。反省文書いてもらうから」
「…めんどくせぇ…」
「それが嫌なら一週間の奉仕活動というのもあるけど」
「反省文でオネガイシマス」
「そう。なら行こう」

 雲雀に促され、渋々と云った様子で獄寺が立ち上がる。
 ツナに「すいません、ちょっと行ってきます」と断りを入れる獄寺を雲雀が背を向け待っている。獄寺以外に用は無いと言わんばかりに俺やツナには声をかける事も興味も無いといった後姿。
 その後姿がふと此方に振り向いた。獄寺にしか向けられていなかった視線が一瞬だけ俺に向けられ視線が合う。時間にして一秒か二秒くらいのそれ。

 その一瞥はあまりに冷えていて鋭利だった。

 凡そ敵意も無い相手に向けるような目ではない。
 一か月ほど前の土砂降りの雨の日にもあったが、雲雀の自分へと向ける目はいつも冷え切っている。
 感情が見えない、けれどどこまでも冷たい目。それはあまりに獄寺に対して向けるものとは違っていていつも何故だろうかと思っていた。
 ツナや、他の生徒へと向けるものとも違う。俺にだけ向けられる冷たい瞳。
 何故だろう。嫌われるような事をした覚えは無いし、そもそも嫌われるぐらい深く関わった事も無い筈なのに。
 それとも俺がそう思っているだけで、只の気のせいなのだろうか。
 そんな何とももやもやした気持ちでいる間に獄寺は雲雀と共に屋上から出て行ってしまっていた。
 快晴の下残されたのはツナと俺と、食べかけのパンだけ。
 獄寺のいなくなった空間はやっぱり寂しくて。
 少し前までの浮ついた楽しい気持ちは消え、溜息を吐けばツナが「あの人も山本も分かり易いよね」とどこか哀し気に笑みを浮かべ呟いたのが聞こえたが、その意味をこの時の俺はわからなかった。











 夜二十一時前。部活から帰って来てすぐに夕食と風呂を済ませた俺はパソコンの前に座っていた。
 全画面で表示されているのはライブ配信待機画面。その画面隅にある配信開始までのカウントダウンが心拍数を弥が上にも上げていく。
 後で飲もうとパソコン横に置いた水は緊張のあまり手を付ける事無く、既に温くなっていた。
 今まで人生でこんなにも緊張した事があっただろうか。
 他の人が見ればたかがピアノ演奏のライブ配信だろうと呆れられるか馬鹿にされそうだと思いながら残り一分を切った表示に口の中の唾液を飲み込む。
 自分でも何でこんなに緊張しているのかはよくわからない。
 きっと『less』はライブ配信だからといって突然喋る事も無いだろうし、いつもの動画と変わらずピアノを弾くだけだろう。
 そうとわかっていながらも呼吸を浅くさせる程に高鳴る鼓動は止まらない。
 この感情は何となく恋に似ている気がすると思った。獄寺へと向ける感情と。

 ずっと片想いしている相手へと向ける感情とピアノ演奏の動画投稿者へと向ける感情が似ているなんて、やっぱりおかしいのだろうか。

 そんな事を考えている内にカウントダウンは0となり、画面が暗転した。

 いよいよ始まる。

 パソコン脇に置いた汗ばむ手を握り締める。その瞬間、画面にピアノの鍵盤が映し出された。
 いつもの動画と変わらないアングル。そこにいつもと同じように文字の書かれたスケッチブックが現れる。

 『管弦楽組曲第3番第2曲 アリア』

 そのスケッチブックが引っ込められ、鍵盤に何度見たかもわからない白い手が乗せられる。

 そこから奏でられるのはあまりに綺麗な、幸せに満ちた音だった。

 この曲を知っている。どこで聴いたかまでは覚えていないけれど、普段クラシックを聴く事の無い俺が知っているくらいだからきっと有名な曲なんだろう。
 けれどこの曲はもっと切なく、寂しいイメージがあった。どうしてかはわからない。でも厳かで、別れの時に悲しい気持ちを抱えながら聴くような、そんな曲だと。
 そう思っていたのに、今聴く曲はどこまでも澄んでいて聴いている人の心を満たすような音だった。
 確かに以前と比べて『less』の奏でる曲は雰囲気が変わった。でも、今日はまた一段と違う。
 感覚的なものだから何て表現したら良いかわからないが、何だか一線を越えたというか。例えるなら今までが緩やかなスロープのように徐々に変わって来たのに対して、今日は一気に高い段差を上ったような、そんな感じだ。
 温かさと喜びと、幸せに溢れているような音。
 その大きく変わった『less』の音に他の視聴者も気付いたらしく、変化に触れたコメントがいくつも流れていく。

 今、この瞬間、『less』が何処かでこの音を奏でている。

 そう思ってしまえば高揚感が止まらない。
 いつもの動画とは違う、生だからこそのリアル感とそれによる興奮でどんどん『less』の音と、手しか見えないその存在に飲み込まれていく。
 もしかしたら息をする事さえ忘れていたかもしれない。それくらい俺は音と画面に全ての感覚を集中させていた。
 細い指がゆっくりと止まり、曲が終わる。そうすれば盛り上がるコメント欄とは逆に無音が訪れる。
 鍵盤から離れる手。それから微かにだがペンを走らせる音が聞こえた。マジックペン特有のキュ、キュという音。
 その直後、再び画面には文字の書かれたスケッチブックがアップで映し出された。
 急いで書いた所為かいつもより少し斜めに傾いた字でそこには「何かリクエストがあれば」と書いてある。
 それが表示された瞬間、待ってましたと言わんばかりにコメント欄が高速で流れていった。目で追うのも難しい速度で、こんなの追えないんじゃないかと思ったが彼はその中から何を弾くか決めたらしい。
 次に鍵盤に手が置かれた時、奏でられたのは今人気のドラマの主題歌となっている曲だった。楽譜も無いのに即興で、詰まる事無く指が鍵盤の上を流れていく。
 前から練習していたんだろうか。それとも聴いた事のある曲は楽譜を見なくても弾けるのだろうか。そもそもそんな事が可能なのか音楽にほぼ関わってこなかった俺にはわからないがコメントは沸きに沸いている。
 深い愛を歌っている歌詞なのに物悲しい曲調が話題となったその曲も、どこか満ち足りた音となって耳に届く。
 有名な昔の洋楽も、俺が生まれる前に物凄く売れたとかいう曲も、ネタで話題になったアニメの曲も。どれもリクエストされた曲を瞬時に弾いていく。
 『less』本人がリクエストされたコメントの中から選んでいるとはいえ、そのジャンルの幅広さと楽譜無しで少しも止まる事無く奏でられる曲にコメントは留まる事を知らないかのように盛り上がっていった。
 勿論自分もそんな中の一人な訳で、温かな音に引っ張られるように幸せな気持ちで満たされていく。

 この時間がいつまでも終わらなければ良いのに。

 そう思うが、そんな事が叶う筈も無く。『less』が「今日の配信はこれで終わりです」と書かれたスケッチブックを出した事で夢見心地だった気分を一気に寂しさを持って現実へと戻ってきてしまった。
 ぺらりと頁を捲り、「他のリクエストの曲は後日動画で上げたいと思います。ありがとうございました」と書かれた頁を見せ、『less』が鍵盤の上でこちらに向かって手を振る。
 楽しかった。幸せな時間だった。だからこそ一気に押し寄せる寂しさに前のめり気味だった体が自然と項垂れ後ろに下がる。
 流れる「お疲れ様でした」「もっと聴きたかった」「また配信して」というコメントを脱力感と共にぼーっと見つめる。その時だった。
 カメラ近くに配信用のパソコンを置いていたのだろう、『less』の右手がカメラの近くまで寄る。その時、俺は見てしまった。

 右手の人差し指。そこにある赤い痕に。

 見覚えがある。あるに決まってる。だって正に今日の昼休みに、同じ位置に同じような赤い火傷の痕がある手を見たばかりだ。
 そう、同じように白くて、男にしては細くて長い指の、綺麗な手に。
 よく見れば指の根本は薄らとだが肌が一層白くなっていて、それが日焼けで出来た指輪痕だと気付いてしまえばもう後は連鎖反応のように点と点が一気に繋がっていく。

 何で、何で気付かなかった。
 あんなに傍で、毎日のように見ていたのに。動画も、彼も。
 人差し指の火傷痕。指輪の日焼け痕。『less』の話題になった途端何も話さなくなるその姿。これで他人である筈が無い。


 『less』は獄寺だ。


 今まで獄寺から音楽についての話を聴いた事が無ければピアノを弾ける事すらも知らなかった俺は、『less』が獄寺だなんて思いもしなかった。
 衝撃的過ぎる真実に体が固まり、瞬きも忘れて画面を見つめる。一度気付いてしまえばもう『less』ではなく獄寺としか見えなくなった腕が画面外にあるであろうパソコンを操作しているのかアップで動いている。
 初めての配信で切り方に戸惑っているんだろう、暫く画面には鍵盤の上に置かれたままの左手とこちらに伸ばされる右腕だけが映っていたが漸くわかったのか、また右手がカメラに向かって振られる。
 そして再び画面外のパソコンへと右手を伸ばした瞬間。『less』の手だけしか映っていなかった画面に別のものが映り込んだ。

 鍵盤の上に乗せられていた左手に、そっと重ねられる他の誰かの手が。

 それは本当に一瞬だった。直後すぐに配信は切られ、画面は真っ暗となる。
 けれど未だ残るコメント欄では今までで一番じゃないだろうかというくらい今見えた手についてのコメントで溢れ返り猛スピードで流れていく。
 黒い画面。そこに反射で映る自分の顔は滑稽な程歪み、蒼白だ。
 艶めかしささえ感じるような手つきでそっと包み込むように重ねられた手は、あれは男の手だった。
 節くれだった長い指と整えられた形の良い爪。一瞬の出来事だったがわかる。気付いてしまった。
 コメントではあれは誰だ、彼女か、でも男の手っぽくなかったか、録画してた奴解析頼むなど流れているが、俺はわかってしまった。
 だって、あの手も、俺は今日近くで見た。
 獄寺の白い手から煙草を取っていく、その手を。

 頭の中でその男の今までの姿がいくつも流れていく。
 昇降口で携帯を使っていた事を咎められた時の、『less』の動画を見つめる目。動画について訊いた時に「さあね」と流したその言葉。
 獄寺と話している時だけ心なしか感情が宿り弾んでいるように聞こえる声。優しくなる瞳。そして俺にだけ向けられる冷え切った視線。

 男は気付いていたんだ。ずっと前から。俺が獄寺を好きな事に。
 そしてあいつも、獄寺を。

「っ………!」

 いつもは鈍いくらいなのに、なんで今日に限ってこんな気付いてしまうんだろう。
 『less』の奏でる音が徐々に変わっていき、そして今日大きく変わった理由。重ねられた手の意味。同じ部屋に二人がいるという現実。
 それら全てが一つの事実を俺に突き付けてくる。

 握り締めた拳が震える。食いしばった歯の奥から漏れそうになる情けない声を必死に押し殺せば目の奥が熱くなった。

 だから俺は『less』に獄寺へと向けるものと同じような感情を無意識とはいえ抱いていたのか。『less』は獄寺なのだから当然と言えば当然だったのかもしれない。
 そして俺は『less』の奏でる曲を通して獄寺の心の内を聴いていたんだ。俺と同じように誰かに想いを寄せる、その心を。

 いつの間にかスリープ状態となったパソコンの画面はもう何も映し出していない。
 それでも俺はそこから動く事も出来ず、只肩を震わせていた。









「やあ、山本武」

 翌朝、とてもじゃないが朝練に出る気分になれず、いつもより遅い時間に一人登校したその廊下。
 背後からした出来れば会いたくなかった人物の声に俺はぎこちなく振り返った。
 そこには赤い腕章を付けた学ランを羽織る男が一人、こちらを見て笑っている。

「…雲雀…」
「随分顔色が悪いようだけど何かあったのかい?」

 こちらを気遣うような言葉。けれどそこには微塵も友好的な感情は感じられない。
 間違いなく目の前の男は笑っているのに、どこまでも冷たいその笑みは俺の体を冷やし、嫌な汗が流れた。

 この男が今まで自分に対し笑った事があっただろうか。気遣うような言葉をかけてきた事があっただろうか。

 明らかに昨日までとは違う態度に自然と足が後ろへと下がる。
 脳裏に浮かぶのは昨日の配信でのあのシーン。白い手に重なる男の手。

「……何か用か?」
「何も用が無いのに話しかけたらおかしい?」

 おかしいだろ。
 だって雲雀が用も無いのに自分から話しかけて来た事なんて一度も無い。
 向けられる瞳はどこまでも黒く、何を考えているのか全くわからない。けれど友好的でない事だけは俺にもわかった。

「昨日の配信は見たのかい?」

 冷ややかに、楽しそうに笑う。

「『less』、だっけ?昨日生配信があっただろう」
「……雲雀は配信、見てたのか…?」
「聴いていたよ」

 『見ていた』ではなく、『聴いていた』という男に何処でと訊ねようとした口は一層深くなった笑みに閉ざされた。
 その細められた瞳が言っている。「君は知っているんでしょう」と。
 立ち尽くす動けない俺の横を雲雀が笑みを浮かべたまま通り過ぎていく。
 余裕さえ感じられる深められた笑みは勝者のそれだ。

 蘇る昨日の配信。重なる手。
 あれは、俺に見せる為に、


「あれ、お前朝練出てなかったのかよ」

「獄寺…」

 廊下で立ち尽くしていた俺に後ろから声が掛けられる。
 何をするでもなく一人廊下に立ち尽くす俺を不思議に思ったのだろう。眉を僅かに寄せ、訝し気にこちらを見る獄寺に俺は呆然と視線を向けた。
 いつもはその姿を見ただけで幸せな気分になっていたのに、こんな苦しくて切ない気分になる時が来るなんて。

「お前、どうした?具合でも、」
「獄寺、リクエスト、しても良い?」

 獄寺の言葉を遮るように口を開く。
 俯いた視線の先、白く綺麗な右手には昨日よりも薄くなった火傷の痕が見えた。

「獄寺に弾いてほしい曲があるんだ」
「山本、お前…」

 獄寺の綺麗な翠の瞳が驚きに大きく見開かれる。
 その瞳を見つめながら俺は有名な失恋ソングのタイトルを口にする。
 数日後、きっと獄寺はこの曲を弾いた動画を上げてくれるんだろう。
 そして俺はその動画を見ながらみっともない程に声を上げて泣くのだ。

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