桜も散り、葉桜となった頃。
名も知らぬその人物は突然この町にやって来た。
「リボーン、この人は…?」
講義も終わり、大学を出てすぐ。そこにいた人物を見て沢田は驚き、足を止めた。
いつもは夜になるまで家で寝て過ごしているリボーンが昼に出歩いているというだけでも驚きだというのに、その隣には眩いばかりの金髪姿の見知らぬ男性。
その容貌から明らかに日本人ではないであろうその人は沢田を見るなり笑顔で近付き、思わず半歩程後退りしてしまう。
「こいつはディーノ。イタリアで退治屋をしている、俺の昔の教え子だぞ」
「ツナ、だよな?リボーンから聞いてるぜ。同じ退治屋同士、よろしくな!」
「あ、はじめまして…」
手を差し出され、こちらも差し出せば強く握られる。
その手の力強さと背の高さから大きな人だなあとぼんやりと思う。そして金色と眩しい程の笑顔に太陽みたいな人だとも。
「ツナ。ディーノはお前と同じで『退魔の力』を持ってる。お前はまだ力の使い方が上手くねーからな、この機会に色々と教わると良いぞ」
「同じ師匠に、同じ力を持った者同士だ。仲良くしようぜ!」
「あ、はい、宜しくお願いします!」
退治屋の中でもごく僅かな人しか持っていないという『退魔の力』は強力だが故に扱い方が難しい。
現に沢田も度々自分の力である筈なのに反動で体が吹っ飛んでしまったり、手が強く痺れたりと上手く扱いきれずにいた。周りに同じ力を持つ人間はいない為色々と自分なりに試行錯誤していたのだが、その使い方を教えてもらえるのならばとても有難い。
今は獄寺達始祖がいるお陰で町は平和ではあるが、いつ強い人外が現れるかもわからないし、いつまでも獄寺達に頼り切っているのは良くない。獄寺達二人がいなくてもこの町を守れるくらいに強くならなくては。その為にリボーンが言った通りこの機会に教われるだけ教わるのが恐らく強くなる為の一番の近道だろう。
リボーンもきっとそのつもりでこの太陽のような人を呼んだのだろうと思ったのだが、どうやらそれは違ったらしい。
「で、リボーン。噂の始祖は何処にいるんだ?」
「…本当に倒しに行くつもりか」
「当然だろ?退魔の力を持った退治屋なら誰もがそう思うだろ」
あの始祖が二体もいるって風の噂で聞いてイタリアから飛んで来たんだぜ?いるんならすぐ教えてくれよと笑うディーノの言葉に沢田は思わずリボーンの方を見る。
視線の先ではリボーンがハットのブリムを掴み目深に被り、やれやれと言わんばかりに息を吐く。その姿に沢田は心臓がばくばく鳴り、背中に嫌な汗が滲み始めるのを感じた。
倒す?始祖を?
その始祖が誰を指しているかなんて考えなくてもわかる。脳裏に浮かぶのは共に生きる事を選んだ黒色と銀色の友人の姿。
「リボーン…!」
思わず非難めいた声をあげる。
当然だ、獄寺と雲雀は始祖であろうと沢田にとって大切な友人で。その友人を殺しに来たと言われれば黙っていられる訳がない。
例え兄弟子に当たる人だろうと、その人と対立する事になろうと全力で止めなくては。
「さっきも言ったがここにいる始祖は人間に対して友好的だ。倒す必要はねえ」
「いや、確かに聞いたけど、あの人外の頂点に立つ始祖が人間に友好的ってのがいまいち信じられないんだよなあ」
「…会ってみない事には、って事か」
「そういう事!」
『退魔の力』を持つ退治屋にとって始祖を倒す事は生涯の夢であり目標であると昔退治屋見習いになりたての頃に沢田はリボーンから聞いた。
吸血鬼であるなりそこないを何体も生み出す事の出来る始祖を倒せばその名は退治屋界で轟き、誰もが一目置く存在となれる。退治屋としての信念や使命も勿論あるが、その栄誉を夢見て誰もが自らの死を顧みず始祖を追うと。
この人もそういった栄誉や名誉が欲しくて来たのか、それとも只単純に退治屋として人外である始祖を倒したいと思いやって来たのか、それはわからない。
だがこの人が人外に対して良い感情を持っておらず、始祖を倒したいと思っているのは確かだ。
二人と会わせたくない、会わせては駄目だ。
獄寺に連絡して今の間だけでも町から離れててもらおうか。いや、それで万が一雲雀に事情を知られればあの人の事だ。町から離れるどころか自らやって来て戦いになる事は容易に想像がつく。それは何が何でも避けたかった。
ここまで沢田が心配し不安になるのはディーノが『退魔の力』を持っているからに他ならない。
相手が人外や只の退治屋であればどんなに強くてもここまで心配する事は無い。
何故ならば始祖は不死身だからだ。
どんなに相手が強かろうと始祖である獄寺達が死ぬ事は決してない。けれど『退魔の力』を持つ退治屋だけは別だ。
『退魔の力』だけが始祖を殺す事が出来る。
それはリボーンも勿論知っている。だからリボーンもディーノと獄寺達を会わせる等という事、絶対に避けようとすると思っていたというのに。
そのリボーンが沢田に言った言葉はとても信じられないものだった。
「…ツナ。獄寺達のところに案内してやれ」
「リボーン!?」
「大丈夫だ。お前が心配しているような事にはならねえ。…逆の心配はあるがな」
「え…?」
どういう意味かと訊ねようとしたが既にリボーンは話は終わりだと言わんばかりに視線を外し、ディーノに向かい話をしている。恐らくこれから始祖の所へ案内するとでも言っているんだろう。
本当は案内などしたくない。
けれどリボーンが大丈夫だと言うならば大丈夫なのだろう。彼は無茶な事を言いだす事は度々あるが嘘を吐いたことは沢田が知る限りでは無い。
さっきの発言に引っ掛かる部分はあるが、案内しなくてはいけない流れに沢田は掌を強く握りしめ、渋々ながら強張る足を動かした。友人達の居場所は連絡を取らずともわかる。彼らは決まって講義後、あの場所にいるから。桜の蝶が飛び交う綺麗な世界を見せてくれたあの場所に。
もしかして始祖と知り合いなのか?と後ろから付いてくるディーノの言葉に、ええまあ、と適当に相槌を打ちながら沢田は歩を進める。
予想はしていたが彼は沢田と始祖が友人同士だという事をリボーンから知らされていないらしい。
友人だとわかっていながらその友人を殺しに行きたいと言うような人では無いという事はわかったが、ここで俺の大切な友人なんですと言ったらこの人は会う事を止めてくれるのだろうか。態々始祖を倒す為にイタリアからやって来たというこの人は。
そんな事を考えている内に大学からすぐ近くにある目的の場所へはあっという間に着いてしまった。
春には薄紅色に咲き誇っていたその公園の桜は今は全て葉桜へと変わっている。周りに人気の無いその緑色の大きな桜の木の下、木製のベンチとテーブルが置かれた小さな休憩スペースに予想通り彼らはいた。
テーブルを挟んで向かい合わせに座り本を読む月色の人と夜色の人。その姿はどこからどう見ても人間にしか見えない。けれど違う事を沢田は知っている。
今日みたいに天気が良い日はいつも二人は此処で揃って本を読んでいる。今日も変わる事無く予想通り本を読んでいた二人に沢田は今日だけはいないで欲しかったと僅かに目を伏せた。
何と声を掛ければ良いのか。重い足取りで二人まで後十メートル程というところまで近付いた。その時、気付いていただろうに全く反応を見せていなかった雲雀が突然ぱたりと本を閉じた。そして本をテーブルに置くなり立ち上がり、こちらへと体を向ける。
向けてくるその視線はいつもとはまるで違う、指先から血の気が引いていくような剣呑なものだった。
「沢田。一体何を連れて来たんだい」
雲雀の冷たく硬質な声に沢田は思わず体が震え、声を詰まらせる。
何と説明するのが一番良いのかわからない。
それでも何とか言葉を紡ごうとしたその時、後ろにいたディーノが斜め前方へと立った。話があるのは俺だと言うように、先程までとは全く違う空気でもって。
「よう、俺はディーノ。イタリアで退治屋をしている。お前達がこの町にいるっていう始祖か?」
あまりに直球な言葉。
けれどその言葉に雲雀は顔色一つ変えなかった。只冷たく鋭利な視線を射抜かんばかりにディーノへと向ける。
「そうだと言ったら?」
「そうだな、その時は…」
ディーノが腰に携えていた鞭の柄を掴む。
そしてそれを一気に引き抜いた。
「狩らせてもらうかな!」
高らかに告げられた宣戦布告。
瞬間、雲雀の纏っていた空気が明確な殺気へと変わり、周囲の温度を一気に下げた。
「雲雀さん…!」
恐れていた事が起きてしまった。二人は此処が昼の公園だとか関係無くやりあう気だ。
沢田は咄嗟に対人外武器であるグローブを身に着けた。それは決して雲雀に向ける為ではない。
対人外武器とは云うがそれは人間に対しても有効であったりする。素手で殴るよりもグローブを身に着けた方が遥かに威力は上がる。
だからこそ沢田は今、武器であるグローブを身に着けた。自分より強いであろう目の前の兄弟子を止める為に。
それで例え人外の味方なのかと罵られ蔑まれようが構わない。友人を守りたい。人間だとか人外だとかそんなのは関係ない。
ディーノが攻撃しようとした瞬間、ディーノを殴ってでも止めようと沢田は強く汗が滲む拳を握りしめた。
その時だった。
一触即発の空気を霧散させる程の冷たい何かが一瞬で場を飲み込み、体が固まる。
いや、違う。
僅かでも体を動かせば死ぬと本能が察知し体の動きを止めているのだ。指一本さえ動かせない圧倒的なまでの恐怖に呼吸をする事さえ躊躇する。微かに吐き出す吐息が震える。
寒くて寒くて仕様が無い。なのに体からは冷たい汗が吹き出し、止まらない。斜め前方に立つディーノの額からも汗が流れ、顎から滴り落ちるのが沢田には見えた。その顔は瞬きする事無く目を開き、強張っている。
殺気とは違う、けれども死を色濃く感じさせるこの冷気は何なのか。それは足元を見ればわかった。
頭を動かす事さえ出来ない中、眼球だけを下へと向け見つめた先。縫い付けられたように動かない足元はさっきまで立っていた公園の草の上でも、土の上でも無かった。
闇だ。一点の光も無い完全なる闇。それがこの場にいる全員の足元を侵している。
影とは違う。夜の闇とも違う。もっと深く濃い、飲み込まれてしまえば二度と戻って来る事は無いとわかる、どんな光さえも届く事は無い冷たい闇。
傍には変わらず桜の木があり、頭上には青空が広がっているというのに、足元には闇が広がる。それがあまりにも非現実過ぎる光景で本当に現実なのだろうかと思ってしまう。けれどこれは間違いなく現実だ。
こうなって漸く、先程リボーンが言った意味を沢田は理解した。
リボーンは最初から獄寺達の心配はしていなかったのだ。リボーンが心配していたのはディーノの方だった。獄寺達と対峙した時、ディーノが殺されるのではないかと心配していたのだ。
沢田を始め、ディーノもリボーンさえも動けない闇の中、雲雀だけが振り向き、獄寺を見つめる。沢田達が訪れても、ディーノが武器を構えても顔を上げる事も無く本へと視線を向けていたもう一人の始祖である獄寺を。
この場にいる誰よりも白く、光を集めたような容姿の彼がこの闇を生み出しているのだとその場にいる全員が理解していた。
「ディーノ、だっけか」
決して大きくない彼の声が闇を震わす。ディーノの肩が大きく跳ねた。
「武器を収めてくれねえか。あんたと戦いたくない」
単純に言葉だけを聞けば獄寺がディーノに懇願しているように思える。けれど実際には違う事を全員がわかっていた。
「俺達は絶対に人を襲わない。そう誓う。だから態々イタリアから来たとこ悪いけど見逃してもらえねえかな」
本から顔を上げた獄寺が闇の中でさえも鮮やかに輝く翠をディーノへと向ける。
彼がその気になれば一瞬でこの太陽のような人を闇の中に消し去ってしまえる事は明白だ。
赤子の手をひねるよりも、蟻を踏み潰すよりも容易くこの人を殺す事が出来るだろうに、それをせずに見逃してくれという理由。それを沢田は知っている。
それは彼が人を愛しているからだ。
自分達を殺しに来た退治屋であろうと殺そうとしない。
この恐ろしいまでの闇も、彼を飲み込む為に生み出したわけではない。
きっとこれは自分との圧倒的な力の差を見せて引いた方が良いとわからせる為にしたのだと本能的な恐怖で震える中沢田は思った。
そしてそれはきっと彼も理解している。
「…何百、何千年先も殺さないと?」
「ああ」
「人が好きだからな」
これだけの闇を生み出している者とは思えないほど柔らかく微笑み、獄寺が言う。
彼は本当に心から人間を愛している。
きっと彼は自分が殺されるその時が来たとしてもその人間を殺そうとはしないだろう。
何故彼がそこまで人間を愛しているかはわからない。けれどそれは真実だ。
「…わかった。その言葉を信じる」
つっても、どのみち退治しようにも敵わないんだろうけど、とディーノが諦めと悔しさが入り混じった顔で苦笑する。
その瞬間足元を覆う闇が空気に溶けていくように消えた。
ディーノに攻撃の意思はもう無いと判断したからなのだろう。闇が消え、戻った日常の風景に詰まっていた息を深く吐き出した。
目の前に広がるのはいつもの陽が差す明るい公園。けれど自分達だけがいつもと違っていた。さっきまでの恐怖で流れた汗で服が張り付き、手が未だ小さく震える。
ディーノも同じだろうに、けれど彼は力が入らないだろう重たい足を無理矢理動かし獄寺達に背を向けた。
言葉も無く公園を去っていく彼に掛ける言葉を自分は持っていない。
『退魔の力』を持ち、人外は敵だと信じて始祖を倒す事を目標としていた人が、人を愛する始祖の存在を知り、そして始祖との絶対的な力の差を見せつけられた。
そんな気持ちを俺は理解できない。『人外=悪』という考えを持たず、始祖が友人の俺には。
遠ざかっていく背を見やり、沢田はリボーンへと視線を向けた。
きっと彼の心情を理解出来るとしたら彼の師であり、長く人外を狩り続けてきたリボーンだけだろうと沢田は思った。
けれどそのリボーンもディーノに声を掛ける事も追う事もなく、獄寺の方を見るだけだ。
「悪かったな」
告げられたリボーンの謝罪に獄寺は薄い笑みを浮かべたまま答える。
「…これで信じてもらえました?」
例え『退魔の力』を持った退治屋に襲われようと、人間を殺す事は無いと。
「ああ、そうだな」
お前が人間の敵に回らないって事も、敵に回したら勝てねえって事もな。
その言葉に沢田はリボーンが何故ディーノを獄寺達のところまで連れて行ったのかを漸く理解した。
完全には獄寺達を信じていなかったリボーンが、彼らが本当に人間を殺さないのかを試す為だったのだ。
「お前が殺さなくても雲雀の方はわかんねーけどな。まあそこはお前が抑止力になってくれんだろ?」
そう言い、にやりと笑ってリボーンも公園を去って行った。きっと先に去ったディーノの所へと向かったのだろう。
残されたのは獄寺と雲雀と、そして自分だけ。
「獄寺くん…」
「すいません、怖がらせてしまいましたね」
申し訳なさそうに笑う友人に沢田は首を振る。
確かに怖かった。死ぬのではないかと恐怖を感じた。けれどそれは獄寺に対してではない。
ほんの僅かな光さえも見えない、いとも容易く全てを呑み込めるだろう圧倒的な闇に対してだ。
そして謝るべきは彼ではない。
謝らなくてはいけないのは自分だ。
始祖を倒しに来た事を知っていながら獄寺達の元へと案内した自分の。
「ううん。ごめんね、俺…」
「謝らなくても大丈夫です。わかってますから」
謝罪を遮るようにそう笑う獄寺の傍で、雲雀は沢田に対し顔を顰めて呆れたように溜息を漏らす。
わかってますから、どうかその力を人へと振るわないで下さい。それが例え俺達の為であっても、と眉尻を下げる獄寺に、沢田はまたごめんと謝った。
「君の闇をここまではっきりと見たのは初めてだ」
闖入者によって乱された二人きりの静かで穏やかな空間が再び戻り、雲雀は満足気に笑みを浮かべ獄寺の向かいのベンチに再び座る。
二人の時間を邪魔したというだけでも叩きのめしたいくらい腹立たしいというのに、あの退治屋は事もあろうか自分達を狩ると宣った。獄寺に危害を加えようとしていた。
殺す。そう思った。
雲雀にとって獄寺に害を及ぼす存在は全て殺すべき対象となる。実際に行動に移すかどうかは関係ない。獄寺に対しそういった考えを持った時点で殺そうと思う。
獄寺と違い、雲雀は人間に対して何の感情も無い。獄寺を中心とした考えしか持ち合わせていない。
なので当然敵意を向けてきたディーノを雲雀は殺そうと思った。死んで然るべき存在だと考えた。
そんな相手を獄寺の意思とはいえ見逃してやったのだ。それを手引きし獄寺を試すような事をしたリボーンも。
本来ならばもやもやとしたものが少なからず心中に残るだろう出来事だったが、今雲雀の機嫌は良い。それは決して見逃した事に納得がいっているからではない。獄寺の闇を見れたからだ。
勿論人間を襲うような人外を退治する時にも獄寺は力は使う。けれどあまりに力の差があり過ぎる為、獄寺が使う力はいつだって小さく抑え込んだ、瞬きをした瞬間に終わっているくらいの闇だった。
先程の力も本気を出していない事はわかっているがこんなにも長く、大きく、強い、そして深い獄寺の闇を見たのは初めてだった。
─いや、正確には二度目だろうか。
昔、夜の闇が包んでいた路地裏で。何体もの人外に襲われ意識も朦朧としていた時に見たあの時に。
流れる血で視界も狭まり霞がかって。ああ、自分は此処で死ぬんだなと静かに思ったあの時、餓えた獣のようにあれ程群がっていた人外が悲鳴さえ上げる事無く一瞬で消え去った。
その時見えた気がしたのだ、夜の闇とは違う、もっと深く濃い闇が周りを包み込んだのを。ぼやける視界の中で。
綺麗だと思った。こんな綺麗な闇がこの世にあったのかと遠のきつつある意識の中感動さえ覚えた。
そして自分はその時見たのだ。闇の中でもはっきりと鮮やかに浮かび上がる銀色と己に向けられる煌めく翠を。
その瞬間、全てを捨て、全てを捧げる恋に自分は落ちた。
「なんだ?怖くなったか?」
そんな雲雀の想いの強さを未だ理解しきれていないのか、それとも想われる事への自信が無いのか。
挑発するような笑みを浮かべながらも目の奥に不安の色を見せる獄寺に雲雀は微笑みながら緩く頭を振る。
「いや、あまりに綺麗で見惚れた」
あの時と同じように。
そう言えば獄寺は瞳をぱちりと瞬かせた後、そうか、と口元を綻ばせ手元の本へと目を伏せた。
これでまた二人だけの静かな時間が流れる。そう思ったが、視線の先の開かれた頁を見て獄寺の翡翠が再び大きく開かれたのが見えた。
「あ」
「どうしたの」
「本の文字がいなくなってる」
見れば確かに古びて茶色く変色している頁には文字が一切無い。そこにあるのは不自然なまでの空白があるだけ。
「…隼人の力に驚いて逃げて行ったんじゃないの」
稀にだが古い書物は文字自体が力を持ち人外となる場合がある。きっとこの本もそうだったのだろう。
獄寺の白い指で捲られていく頁に文字はどこにも無かった。
「まじか…丁度良いとこだったのに…恭弥、ちょっと探すの手伝ってくれよ」
「…仕方ないな」
文字から生まれた人外は小さく、戦う力も無い。他の人外に見つかればすぐに食べられてしまうかもしれない。そうなればこの目の前の本に文字が戻る事は二度と無い。
本の文字が消え失せようが雲雀にはどうでも良い事なのだが、それで獄寺が悲しむのならばどうにかしなくてはいけない。
食われてしまう前に早く見つけた方が良いなと立ち上がりかけたその足元。生い茂る草の影に動く蜥蜴のような姿に雲雀は身を屈めそれをひょいと摘まみ上げた。
「隼人、これじゃないの」
「あっ、それだ」
白い体に黒い文字のような模様がびっしりと描かれた蜥蜴のような人外。
その脚は普通の蜥蜴とは違い六本あり、とても細い。蜥蜴のような、虫のようなそれを獄寺へと差し出せば獄寺はそれを優しく掌で包むように受け取り、そっと白紙となった本の上に乗せた。
「怖がらせちまってごめんな、もう力使わねえから戻ってくれるか?」
黒い小さな瞳を見つめながら優しく語り掛ける。言葉さえ理解できない弱い人外だ、獄寺の言っている事などわからないだろうそれはけれどまるで通じたように本の頁へと沈んでいった。
「ありがとな」
途端紙に浮かび上がる文字。その文字を獄寺は優しく撫でるように指先でなぞった。
獄寺は人間を愛している。けれど同じように人外も愛していた。
世界を構築する全てを愛するようなその感覚は雲雀には到底理解できないものだ。雲雀にとって愛するものは獄寺唯一人。他はどれだけ死のうが世界から消え失せようが興味も無い。
けれど獄寺が人を守りたいというのならば、自分はそうしよう。
その為に人外を退治したいというのならば、自分はそうしよう。
今は退治屋の手伝いのような事をしている獄寺が苦しんでいない筈が無いのだ。人外も愛する彼が。
こんな退治屋紛いをする事になってしまった一因は過去自分が取った行動の所為でもあるのだが、人外から人間を守るという行為は以前から獄寺は行っていた。それこそあの時自分に群がる人外を葬ったように。
出来る事ならば人外も殺したくない。けれど人の味を覚えてしまった人外は人間を襲い続ける。そうなれば弱い人間はどんどん殺されていく事になる。
だからこそ獄寺は苦しみながらも人外と戦い続ける。
だからこそ雲雀はそんな獄寺の前に立ち、人外を殺し続ける。獄寺が少しでも苦しまないようにと。
こんな生活がいつまで続くかはわからない。今は人間と暮らす事を望んでいる獄寺も何百年後には人間社会から離れ、どこか森や山の奥でひっそりと暮らすようになるのかもしれない。
それならそれで良いと雲雀は思う。遠い未来、人間か人外のどちらかが滅んだとしても別に構わない。
只その時に獄寺と二人、今のように穏やかな時間が過ごせればそれで。
再び本に目を落とし頁を捲り始めた獄寺を見つめ、雲雀は再び訪れた穏やかな時間の中ゆるりと微笑んだ。