『金村廉 二十三歳 金村洋装店の三代目。
二年前にプロボクサーの真田圭介の妹である真田可奈と結婚。現在は店をリニューアルしケーキの販売も行っている。』
『羽月鴒人 二十三歳 ピアニストの他、通訳や翻訳の仕事もフリーで行っている。
父は貿易会社を経営、イタリア人。母はピアニストで日本とイタリアのハーフ。異母姉弟である姉はイタリア人で料理研究家。両親はイタリアで暮らしており姉は日本を拠点としているが現在はイタリアに帰省中。』
その他諸々経歴について詳細に書かれている紙にも目を通した後、それらをデスクの上に置く。
羽月鴒人を始め、金村廉やその周囲の人間は自分に関しての何かを知っていて隠している。そしてそれを自分は知らないし、そもそもそれが何かもわからない。
ただ部下の代わりに金村洋装店に訪れた時に感じた違和感のようなものは羽月鴒人と接触する度に強くなっていく。
僕は何を知らない?
金村洋装店での「憶えていないのか?」という言葉が蘇る。
憶えていない、という事は何かを忘れてしまっているという事だ。だが自分に記憶喪失になった経験は無く、どこか一部分記憶が抜けているという事も無い。
そんな僕が何を忘れているというのか。そしてそれを何故彼らが知っているのか。
何故羽月鴒人はその事に触れようとするとまるでこの世の終わりのような表情を見せるのか。
何故彼はあんな悲しそうな目で僕を見るのか。
何もかもがわからない。けれどそれがずっと気に掛かり、日に日に胸の内の靄は強く、大きくなっていく。
きっと僕はそれが何かを知らなくてはいけない。
漠然とだがそう思い、唯一の手掛かりともいえる彼らについて調べたが何も引っ掛かる点は無かった。
個人情報の取り扱いに関してはかなり厳しい世の中だが、力を使えば更に彼らの詳しい情報を手に入れる事も出来る。けれど調べたところで何かおかしな点が出てくるとはあまり考えられなかった。
当事者であるはずの自分だけが知らないというこの状況はまるでミステリー小説の登場人物にでもなったようで、読者側ならば面白い展開なのだが自分の事となると心中穏やかではいられない。
あちこちに散らばる違和感が早く気付けと己に訴え、焦燥感を煽ってくる。頭に過る翠の瞳が心を波立たせた。
「…鉄」
「はい」
今し方デスクに置かれた書類を持ってきた自分の秘書である男に声を掛ける。
デスクの前に立ち、姿勢を正したままの彼に視線を向けた。
「僕は何を忘れている?」
表情は変わらない。けれど瞳が一瞬揺らいだのが見えた。
先日の羽月鴒人との食事、その時に鉄と知り合いかと訊ねた時羽月鴒人は否定していたが恐らく嘘だろう。
羽月鴒人と鉄は顔見知りだ。そして恐らくだが、鉄も彼らと同じで僕の知らない何かを知っている。
それは推測だったが、やはりそうだったらしい。
鉄が揺らいだ瞳をほんの僅か伏せる。
「…私の口からはお答えできません」
「…そう」
何の事を言っているのかわからないと誤魔化す事も出来たにも関わらずそう言うという事は僕がほぼ確信していると気付いているからだろう。
ここで彼を更に問い質せばもしかしたら決定的な答えではないものの何かヒントとなる事を話すかもしれない。
けれど僕はそれをせず、革張りの椅子から立ち上がる。
これは自分で調べ、自分で思い出さなくてはいけない事なのだろうと、そうどこかで感じていた。
「少し出る」
「では今お車を、」
「いらない。自分で運転する。何かあったら連絡して」
「…畏まりました」
深々と頭を下げる彼を横目にコートラックに掛けてあったポロコートを羽織り、執務室を出る。
あの日金村洋装店にいた人間は全員が僕の姿を見て過剰な反応を見せていた。その事から彼ら全員が僕に関する何らかの事を知っていると予測はつくがその内僕が知っている人間は金村廉とその妻、そして羽月鴒人のみだ。
彼らから少しでも話が聞けたら良いのだが、羽月鴒人は何故かこの件に触れる事を恐れている節がある。再びこの話を振って何か聞き出そうとしても答える事は無いだろう。
そうなると僕がとる行動は一つ。事情を知っているであろう金村廉との接触だ。
彼がいるであろう金村洋装店に向かうべく、僕は車へと乗り込んだ。
商店街近くのコインパーキングに車を停め、金村洋装店へと向かう。
事前に訪れるという連絡は入れていないがあの店は従業員を雇っておらず夫婦二人で経営している事は知っている。休業日でない限り店にいないという事は無い筈だ。
様々な店が立ち並ぶ商店街の角に位置する、遠目からでもわかる真新しい白い外観の店。その目的の店が見えたところで入口から誰かが出てくるのが見え、足を止めた。
短髪にウインドブレーカー、スニーカー姿の凡そ洋装店に客として訪れたとは思えない出で立ちの男。その男には見覚えがあった。
確か初めて金村洋装店に来た時にもいた男、僕に「憶えていないのか?」と言ってきた人物だった筈だ。
その人物が出てきた後、二人の男女が続いて店先へと出てきた。店主の金村廉と妻の金村可奈だ。
「お兄さん、トレーニング頑張って下さいね」
「試合、必ず観に行くから!頑張ってねお兄ちゃん!」
「うむ!」
聞こえてくる会話から判断するにあのウインドブレーカーの男が可奈の兄でプロボクサーだという真田圭介なのだろう。
生憎スポーツには今まで然程興味を持った事が無かった為顔は知らなかったが名前は聞いたことがある。
会話が聞こえるくらいだ、そんなに遠い距離ではないが彼らはこちらに気付いていない。このまま近付き、三人から直接話を聞こうか。そう考えた時だった。
「京子もケーキ作りを頑張るのだぞ!」
「うん!」
「では沢田、京子の事を頼むぞ」
「はい」
聞こえてきた名前。
その名前にゆるりと己の口角が上がっていく。
「…ふうん」
『沢田』と『京子』ね。
恐らくロードワークの途中にでも寄ったのだろう、会話が終わるなり真田圭介は僕がいる方とは逆の方向へと走っていく。その後姿を見送る二人に僕は堪えることが出来ない笑みを浮かべたまま背後から声を掛けた。
「やあ、『沢田』」
「っ!」
背後から掛けられた声に彼が勢いよく振り返る。その表情は面白い程に驚きに満ちていた。
「雲雀さんっ、記憶が戻って…!?」
かかった。
笑いが込み上げる。まさかこうも上手くいくとは。
「『雲雀』、ね。それが僕の名前なわけだ」
その発言で僕が『思い出した』訳では無い事に気付いたのだろう。金村廉の顔が見る見る青くなっていく。
真田圭介は金村廉の事を『沢田』、金村可奈の事を『京子』と呼んでいた。渾名にしてはあまりに不自然過ぎる呼び名だ。
初めて金村洋装店に行った時に言われた、憶えていないのかという言葉。僕を見て驚愕していた彼らの顔。
彼らの僕に関して何かを知っているような素振り。羽月鴒人が見せる、僕を見ていながらどこか遠くを見ているような瞳。
そして今呼ばれた『雲雀』という名前と、記憶が戻るという言葉。
それらが頭に浮かんでいた一つの推測を確信へと押し上げる。あまりに非現実的過ぎて俄かには信じられなかった推測を。
けれど僕に違和感を与えてきた欠片達がこれしかないと指し示していた。
「ねえ。記憶が無い僕に前世の事について教えてくれないかい?」
首を傾げ、訊ねる。
目を瞠り一層青くなった彼の顔が僕の考えが正解だと言っていた。
ふと、羽月鴒人が以前呟いていた言葉を思い出す。僕の名刺を見て「また鳥なんだな」と言った言葉を。
そうか、彼が言っていたのはこの事だったのか。
確かに僕はまた鳥だったようだ。
未だ青い顔のまま声も発する事無く固まる男の前で、今生も鳥の名を持つ黒い男は面白そうに笑った。
中心部にあるそれなりの大きさの公園。
昼は小さな子連れで賑やかなそこも今は夜の闇に包まれ不規則に置かれた公園灯の光しか灯りは無い。
その灯りの下、公園灯に凭れながら腕時計を見る。半ば一方的にではあったが約束した時間から十分程過ぎている。
これは彼の仕事が長引いているのか、それともここに来る事を躊躇し遅くなっているのか。
いずれにしろ彼がここに来るまで自分は待ち続けるだけだ。
彼は必ず来る。初めて会ってからまだ数回しか顔を合わせていないが、それでも彼が約束を反故にするような人間では無い事はわかっている。
そういえばリサイタルの時も同じように彼を待っていた、と思い出していると、ざりと砂を踏みしめる音が耳に届いた。
どうやら待ち人が来たらしい。
音が聞こえた方を向く。そこには暗闇の中でも鮮やかに浮かび上がる銀色がいた。
「…斑鳩」
頭上の公園灯の灯りがぼんやりと照らし出す距離まで来たところで足を止め、僕の名を呼ぶ。
その顔は無表情なのに僕を見つめる瞳は怯えたような色に見えて、何故だか暖めてあげたいと思ってしまう程にとても寒そうに感じられた。
「『雲雀』と呼んでくれないの?」
僕の言葉に反応する事無く、彼は只見つめてくる。金村廉の時のようにかかるかもしれないと少し期待していた部分もあったがやはりそう上手くはいかなかったようだ。
予想はしていたが金村廉から先刻の連絡でもあったのだろう。
金村廉は結局あの後何も言わなかった。彼も何か訊ねたところで答える事はないだろう。何故かはわからないが彼らは僕が記憶を取り戻す事に酷く怯えているようだから。彼は特に。
前世で彼らと僕は一体どういう関係だったのだろうか。
僕はどういう人生を送っていたのだろうか。
前世の僕にとって彼はどういう存在だったのだろうか。
それがとても知りたいと思う。
近付きたい。けれど警戒の空気を出す彼に一歩でも近付けば、彼は今以上に距離を開けてしまうだろう。それは望む事ではない。
「ねえ」
知りたいんだ。君の事を。君が何に怯えているのか。君が隠している全ての事を。君が見ている世界の事を。
「雲雀って、呼んでよ」
きっと君はそう呼んでいたんだろう?
水を湛えた翡翠の瞳が揺らぐ。彼の唇が震える。
ゆっくりと薄く開かれた唇が吐息と共に音を漏らした。
「………雲雀」
掠れた、とても小さな声だった。
それは何の変哲も無い、只の名前だ。それも記憶の無い僕にとっては何の意味も為さない筈の名前。
だというのに。彼が聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で口にしたそれは。
たったそれだけで、僕の心臓が大きく鼓動した。
どくん、と自分の耳にも聞こえるくらい大きく鳴り、呼吸が浅くなる。何かが奥から込み上げ胸を締め付ける。
正体のわからない感情が衝動となって全身を駆け巡り指先を震わせた。
「…もう一度」
もう一度、呼んで。その名前を。君の声で。
「……雲雀」
喉が、震えた。
金村廉から聞いた時には何の感情も浮かばなかったというのに。
彼が口にした途端、その名前は意味を持った。
記憶など無くてもわかる。これは確かに僕の名前だ。
自分はこの音色を知っている。
そしてそれはきっと、僕にとって特別だった。
「…一つだけわかったよ」
前世の記憶は無いけれど、胸の奥が、魂が訴えてくる。
「君が、君だけが。僕にとって特別だ」
前世の僕がどんな人間で、どんな人生を送っていたかは知らない。けれど君だけを特別に思っていたと、それだけはわかる。こんなにも今、惹かれて止まないのだから。
君の瞳が、声が、全てが、心を揺さぶる。君だけが。
前世を思い出す切欠が何かあるとするならば、それは彼しかいない。唯一の特別である、彼しか。
そう思い言った言葉に彼は泣きそうに瞳を歪め、絶望の色を浮かべた。