名刺なんて渡さなければ良かった。
 スマホに残る着信履歴を見て一週間前の自らの行為を悔いる。

 今生での二度目の再会。
 一度目の再会が突然ならば二度目の再会も突然だった。
 リサイタルに来ていたらしいその男は終演後態々俺が出てくるのを待ち、名刺を渡してきた。
 その時に名刺を持ち合わせていないと嘘を言えば良かったのに、二度と会う事は無いと思っていた男の登場に冷静さを失っていたのかもしれない。もしくはあの男が態々俺を待っていたという事実に動揺し、何もせずに帰すのは流石に悪いと思ったのかもしれない。
 自分の事なのにあの時の心情がはっきりとはわからないのだが、ともかく名刺を受け取った俺は『名刺を貰ったからには自分の名刺を渡さなくてはいけない』という至って社会人らしい考えからその後の事を何も考えずに名刺を渡してしまった。
 お近付きになりたくて、と言ってた男だ。少し考えればその後の展開ぐらいわかったものを。過去、ボンゴレの頭脳と言われた男が聞いて呆れる。

 名刺を渡した数日後、やはりと言うべきか、あの男は電話をかけてきた。

 ピアニストとしても、他の仕事でも俺は全て一人でフリーとしてやっている。登録されていない電話番号からかかってくるのは仕事上よくある事だ。
 だからその時も何の不思議も警戒も無く通話ボタンを押してしまった。
 その直後スマホから聞こえてきた声に、電話番号を登録しておけば良かったとどれだけ後悔した事か。
 自分からかける事は無いからと受け取った名刺に書かれていた電話番号を登録しなかったのが仇となった。登録さえしていればその名前を見て通話ボタンを押さないという事が出来たというのに。
 前世と変わらぬ低い声が俺の動揺など知らず機械越しに鼓膜を震わす。
 今度会えないかというその内容は何の理由も無ければ適当に断ろうと思ったが、「仕事の話がしたい」と言われれば断るわけにはいかなかった。
 何が切欠で記憶が戻るかわからない。けれど二度会って、僅かではあるが会話をした感じでは相手が何か引っ掛かるような違和感を感じている様子は見えなかった。
 普通に会って仕事の話をするだけならばきっと大丈夫な筈だ。
 半ば自分に言い聞かせるようにそう考え、約束した日までを鬱々とした気分で過ごした。

 そして約束した日である今日、あいつに指定された時間場所に俺は今立っている。

 人も車も多く行き交う日の暮れた大通り。右腕を持ち上げ腕時計を見れば約束の十分前だ。
 迎えが行くと言っていたが、いつ来るのだろうか。暗くなりイルミネーションが照らす街の中、チェスターコートに手を突っ込む。
 否応なしにクリスマスを意識させるイルミネーションの光を目に入れたくなくて目を伏せる。

 クリスマスは苦手だ。

 気を抜けばあの日の光景が蘇りそうでポケットの中で手をきつく握りしめる。
 これからあいつと会うのに、こんなんで大丈夫なんだろうか。そんな不安に駆られている俺の前に一台の黒塗りの車が止まった。国産の高級車だ。
 その運転席の扉が開き、現れた人物に思わず瞠目する。

「草壁…」
「お久し振りです、で宜しいでしょうか…お迎えに上がりました、獄寺さん」

 あの長身も特徴的な髪形も強面な顔も変わらない、前世であの男の側近だった男は俺の近くまで来ると深々と頭を下げた。
 俺の事を獄寺と呼んだ。という事はこいつも。

「…記憶、持ってるのか」
「はい。もしかしたらそうではないかと思ったのですが…やはり獄寺さんもそうだったんですね」

 姉貴や笹川京子がそうだったように自分達の周囲の人間も転生し、記憶を持っている事はあるので、草壁もそうであったとしても何もおかしくない。
 だが「迎えに来た」という事は、こいつは今生でもあいつに。

「…またあいつに仕えてるのか」
「はい。そうなりますね」

 姉貴がまた俺の姉だったように、クロームがまた骸の傍にいるように、京子がまた十代目と結婚したように。転生しても関係性は変わらないという事なんだろうか。
 そんな事を考えている俺に草壁が名刺を手渡す。そこには『IKARUGA 秘書 影沼鉄(かげぬまてつ)』とあった。

「影沼鉄…じゃあお前またあいつにテツって呼ばれてんの?」
「ええ。お陰様で何の違和感もありませんよ」

 そうだろうな、と顔を見合わせて笑う。意外な、けれど悪くない再会だ。
 内ポケットから名刺を取り出し、草壁に渡す。

「あいつの秘書ならもう知ってんだろうけど、一応名刺」
「有難うございます。ではどうぞ車にお乗り下さい。斑鳩の所へお送り致します」

 そう言い後部座席のドアを開ける草壁に、そう言えば昔も風紀財団へ行く時車で迎えに来た草壁がこうしてドアを開けてたな、と懐かしく思いながら車に乗り込んだ。
 手触りの良いシートに座ればそれを確認してから草壁が静かにドアを閉める。そして運転席に回り込んで乗り込み、ゆっくりと車を発進させた。
 走り出した暗い車内にイルミネーションの明かりが入り込む。色とりどりの賑やかな外へと目を向ける事無く、俺は右斜め前でハンドルを握る男へ視線を向けた。

「…俺、何も聞かされてないんだけど何処連れてかれんの」
「フランス料理のお店に。食事をしながら仕事の話をしたいとの事だったのですが…もうお食事は済まされていましたか?」
「いや、大丈夫だ」

 夕食にはやや早い時刻だ。こんな時刻を指定してくるという事はそういう事になるだろうと予想はしていたので食事は取っていない。
 しかしフランス料理とは。思わずチェスターコートの下に着てきた服装をちらりと確認する。

「…グランメゾンとか言わないよな?俺今日そんなとこ行ける格好してないからな?」

 今日は白いニットに濃いめのグレーのジャケットといった服装だ。仕事関連という事でそこまでラフな格好はしていないがグランメゾンのような格式高い店に入れるような服装ではない。
 もしそういう店だと言われたら草壁には悪いが近くの洋装店に寄ってもらってシャツとタイを用意しなくてはいけないだろう。
 途端不安になりやや前のめりになった俺に草壁がバックミラー越しに笑う。

「大丈夫ですよ。これから行くのはオーベルジュなので」
「オーベルジュ、ね…」

 なら今の格好でも大丈夫か、と息を吐いてシートに深く凭れる。イタリア料理店にもあるが、フランス料理店にも様々な種類がある。
 ラフな格好でも入れるブラッスリーやビストロ、ドレスコードまではいかなくてもジャケットくらいは着ていた方が好ましいレストランなど、店によって違いはあるがそれぞれの格式に合った服装をしなくてはいけない。
 最高級となるグランメゾンならばスーツにシャツ、タイは必須だが、宿泊施設にある店を指すオーベルジュならば今の格好でも問題ないだろう。

「そこまで気になさらなくても大丈夫ですよ。こういう仕事の時は斑鳩は自分の所の店しか使いませんから。ラフな格好をされていても何か言われるような事はありません」
「…ちょっと待て。自分の所の店ってなんだ」
「斑鳩グループを御存知ですか?」

 御存知も何も、この日本にいて知らない人間を探す方が難しいだろう。宿泊施設に飲食、商業施設に保険業と他にも様々な業種で会社を持つ日本有数の企業グループだ。
 そのグループ名にあいつの名前。確かに斑鳩なんて名前、珍しい方だとは思うが。

「もしかしてそこの御曹司、とか…?」
「御明察です」
「まじかよ…」

 思わず脱力し、項垂れる。

「あいつ、また金持ちなのかよ…」

 前世でも確かあいつの家は並盛の地主だかで金持ちだった筈だ。それが今生では更にスケールアップした金持ちになっているとは。
 とことん普通というものからかけ離れた男だなと考えていればそれが顔に出ていたのだろう。草壁が苦笑するのが見えた。

「…なー、草壁」
「はい、何でしょう」
「お前さ、あいつに何も言ってないのか」

 何が、何て言わなくてもわかるだろう。
 前世の記憶を持たない雲雀に仕える、記憶を持った草壁。それが何を指すかなんて。

「…言っておりません。伝える必要は無いと思いましたので」

 やはりこいつは草壁哲也だな、と後姿を見ながら思った。あの男の側に仕える事を唯一許された男、草壁哲也だと。
 雲雀にとってそれは必要な事なのか、不必要なのか。それを正しく判断し、取捨選択する。全ては雲雀の為に。
 その判断は今回も正しく下されたようだ。
 『斑鳩要』に『雲雀恭弥』の記憶は必要無いと。

「…この先も言わないでくれ」

 雲雀恭弥の事も、獄寺隼人の事も、前世の事全て。

 そう言えば草壁は前を見据えたまま、はい、と静かに答えた。
 イルミネーションが流れる中、車内に静寂が落ちた。










 連れていかれたのは駅にほど近い高級ホテルだった。そう言えばここも斑鳩グループの系列だったっけと考えつつ草壁に案内されるがままエレベーターへ乗り込む。
 辿り着いた最上階にあるオーベルジュ。そこのあまりに広く感じられる個室にあいつはいた。

「では私はここで」

 頭を下げ退室しようとする草壁に軽く手を上げ礼を伝える。そんな俺に笑みを浮かべ再び頭を下げて草壁は部屋を出ていった。
 夜景が眩しい全面の硝子窓。その前に置かれたギャルソンが引いた席に座る。目の前の黒い男と目が合った。

「一週間ぶりだね」
「…そうだな」

 穏やかな笑みを向ける雲雀に自然と心拍数が上がっていく。
 果たしてこの男を前にして平常心を保つ事が出来るだろうか。手の平がじっとりと汗ばんでいくのを感じる。
 最期の時を見ていた俺には心の何処かで目の前で雲雀が動き、喋っている事自体が信じられない気持ちがあり、気を抜けば震えだしそうな体にぐっと力を入れる。
 そんな俺とは対照的に目の前の男は酷く機嫌良さそうに目を細め俺を見た。

「食前酒は何が良い?」
「…いや、酒はいい」
「下戸かい?」
「…そういう訳じゃねえがあまり飲みたくない」
「そう」

 寧ろ酒には強い方だと思うが、アルコールが入ってしまえば人間ならば誰しも大なり小なり思考能力が鈍る。ましてや正常な精神状態でない時に飲んでしまえばどうなるかなんて火を見るよりも明らかだ。
 余計な事を口走る要因になり得るものは全て排除したかった。酒はその典型だ、飲めるわけがない。
 曖昧な断り方となってしまったがその事に特に触れる事も無く、男はギャルソンにノンアルコールのスパークリングワインを、と告げると再び俺へと視線を戻した。
 楽し気に弧を描いた口が開く。

「うちの秘書と知り合い?」
「え…?」
「初めて会った人間のようには見えなかったから」

 その言葉に愕然とする。目の前の男が恐ろしく思えた。
 案内され入ったこの個室で草壁が出ていくまでのほんの僅かな時間。言葉さえも交わさなかったというのにそれだけを見てこいつは顔見知りだという事を見抜いたというのか。
 並外れた観察眼と洞察力だ。この男相手に怪しまれる事無くやり過ごす事が出来るだろうか。
 心臓が更に激しく鼓動する。震えそうになる声を必死に抑え込みながら力無い声で否定するのがやっとだった。

 この逃げ出したくなるような空間にボトルを片手にやって来たギャルソンがグラスにボトルの中身を注ぐ。次いで色鮮やかなアミューズが目の前に置かれる。
 そこでようやく俺は軽く息を吐いた。細く、長く吐き出された息。それを見計らったように雲雀がシャンパンゴールドの液体が注がれたグラスを手に取り目線まで持ち上げた。

「乾杯」
「…乾杯」

 同じように持ち上げたグラスに口を付け、傾ける。仄かな苦みと共に広がる爽やかな香りと炭酸は、けれど俺の心を落ち着かせるには至らなかった。
 皿を挟むように並べられたカトラリーの一番外側を手に取る。そして小さく盛り付けられたアミューズの中の一つにナイフを入れながらちらりと視線を上げた。
 そこには変わらず笑みを浮かべたままグラスを傾ける雲雀がいて、不気味さを感じてしまう。
 雲雀恭弥がこんなにも機嫌良さそうにずっと笑っているのを見た事が無い。斑鳩要としての彼は詳しく知らない。けれど記憶が有る無いに関わらず、人間性は前世と大きく変わらない筈だ。今まで出会ってきた人達がそうだったように。
 そんな男が笑っているのだ、嫌な予感がしてならない。思わずごくりと喉が鳴った。

「…仕事の話って何だよ」

 相手が何を考えているかわからない今、向こうから話題を振られるのは出来る限り避けたい。こういう時は用件のみをこちらから振っていくのが得策だろう。余計な話はされたくない。どこに記憶の鍵が転がっているかわからないのだから。
 俺の言葉にグラスを下したそいつはカトラリーを手に取り慣れた手つきでナイフを沈める。アミューズの切られた鮮やかな断面が覗いた。

「通訳、してるんでしょ?何語?」

 成程、通訳者としての話か。
 ここは嘘を吐かず正直に言った方が良いだろうとアミューズを切り分けながら考える。
 こいつの洞察力は厄介だ。前世とリンクしないようにと下手に嘘を吐けば見抜かれて逆に不味い方向にいきかねない。

「…英語とイタリア語、フランス、中国、ロシア、ドイツ、スペイン…他にも喋れっけど」

 ボンゴレで十代目の右腕だった頃、大きな交渉事は俺が向かう事が殆どだった。ボンゴレは大きなマフィアだ。その繋がりを持つマフィアや組織、企業はイタリア内に留まらない。
 ヨーロッパ内は勿論、アジア、アフリカ等、世界各国に広がる。その交渉のテーブルに着く際、相手側の国の言葉で喋った方がスムーズにいく事も多々ある。
 その為ボンゴレと繋がりがあった国の言葉は大体は喋れるようにと何年もかけて身につけた。
 記憶が蘇ったと同時に戻ってきたこの知識に、どうせなら職の一つにしてしまおうと今に至るわけだが前世の記憶が無いこいつには俺がそれだけの言語を喋れるというのは想定外だったらしく、目を大きくさせ驚きの表情を見せた後、再び口角を持ち上げた。

「次から通訳が必要な時は君に頼もうかな」

 そらどーも、と口では軽く返したが今後もこいつと関わっていく事になるかもしれない可能性に内心は穏やかさからはかけ離れたものだった。
 口に運んだアミューズの味だってわかりやしない。
 上機嫌な目の前の男と対照的に、焦燥感に駆られ早くこの時間が終われば良いと考えている自分が酷く滑稽にさえ感じた。

 元より俺も雲雀も饒舌な方ではない。転生し、記憶が無くともやはりその点は同じらしくそこからは取り留めのない会話をぽつりぽつりとしていく。
 その展開に張りつめていた気が知らぬうちに緩んでしまっていたらしい。
 メインとなるヴィヤンドが運ばれてきた後、目の前の男の口から発せられた言葉に俺の頭は一瞬で真っ白になった。

「十代目」

 カトラリーを掴む手が止まる。
 動揺からぶれる視界を手元から前方へと向ければ視界の先で男はやっぱり笑っていた。

「金村洋装店で金村廉の事をそう呼んでいたね」

 持っていたナイフが僅かに震え、皿に当たって硬質な音を響かせた。
 憶えていない。自分はそう言っただろうか。あの時は突然の出来事に頭の中はとてもじゃないが冷静とはいえない状況で、ただ記憶が無いであろうこいつに思い出させるような言葉を投げかけてはいけないと強く思ったのだけは憶えている。
 まさかそんなところでミスを犯していたとは。

「金村廉は金村洋装店の三代目だ。そもそもあの店はそこまで歴史があるわけじゃない」

 目の前の黒い男はメインが運ばれてきたというのにカトラリーを手に取る事もせずテーブルの上に肘を置き、手を組む。
 何がそんなに面白いのか、真っ直ぐと見つめてくる目は弧を描いていて俺を射抜いていく。
 こいつの瞳には不思議な力でも宿っているんじゃないだろうかと思ってしまう程に目を逸らす事が出来ない。
 逃げたくて仕様が無いのに、自分を見つめる黒い瞳に縛り付けられ少しも動けない。
 只薄く開いた口から震えた吐息が漏れる。

「君は何故彼の事を十代目と呼んだの?」

 笑みを深める男に体中から血の気が引いていく。
 今俺はどんな顔をしているんだろうか。こいつの目に俺はどんな風に映っているんだろうか。
 真っ白な頭では考えを巡らす事なんて出来る筈も無く何の言葉も口から出ない。
 そんな俺をどう思っているのか。問いかけたにも関わらず何も答えない俺を気にする風でもなく笑みを浮かべたまま見つめ続ける。
 もしかしたら俺が何も答えない事さえこいつは予想していたのかもしれない。
 黒い目が細められる。体がびくりと震えた。

「君は何を見ているの?」
「は…?」
「君は僕と違うものを見ている気がする。違う世界を」

 近くて遠い、何かを。

 その言葉に俺は何て返したのだろうか。
 只その時俺は何故だか無性に苦しくて、悲しくて。
 何故死んでしまったんだ、何故あの時笑ってたんだ、何故俺を離さないんだとそんな事ばかり考えていた。

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