深々と雪が降る中、何もない真っ暗な場所を歩く。
 吐き出す息は白いのに、寒さは無い。
 ここは一体何処なのだろうか。俺は一体何処へ向かい歩いているのだろうか。
 何もわからず歩いているがそこに不思議と不安や焦燥感は無い。無音の中歩いているというのに自分の足音さえ聞こえない。

 自分と降り続ける雪だけの黒い世界。

 そこに突然別のものが眼前に現れた。黒い世界に溶け込むように黒い存在が。

「獄寺」
「雲雀…」

 黒いスーツを着た雲雀が笑みを浮かべ近付く。そのまま目の前に立ち、俺の肩に額を当てた。雲雀の黒い髪が頬に当たる。

「自分の望みがわかった」

 その雲雀の言葉にびくんと体が震える。
 俺はその言葉を知っている。いつ聞いた?
 そうだ、あのクリスマスの日、イタリアで今みたいに雪が降ってた時に雲雀が、

「…や、めろ…」

 言うな、言わないでくれ。その先の言葉を言ってしまえばお前は。

 体が強張る。手が震える。
 けれどそんな俺の言葉も届いていないかのように穏やかな空気のまま雲雀は口を開いた。


「最期の時は、君といたかった」


 とても穏やかに、幸せそうに紡いだ言葉が聞こえた瞬間、さっきまで何も感じていなかった寒さが襲ってきた。
 寒くて寒くて仕様が無い。何もない真っ暗な空間だった筈なのに気付けば周りは瓦礫だらけで。
 触れる雲雀の体は酷く冷たい。生臭い鉄のような臭いが鼻を掠めて、雲雀の体がずるりと俺に凭れ掛かるように崩れていく。

「雲雀…?」

 足元の瓦礫の上に倒れる雲雀。慌てて助けようと伸ばした自分の手は、真っ赤に染まっていた。

「…あ…ぁ…」

 闇夜を切り裂くような己の慟哭。
 その声にならない叫びに意識は浮上した。





「は…はぁ、はぁ…」

 開いた視界には良く見慣れたオフホワイトの天井。暗闇も空から降る雪も、瓦礫の山もどこにもない。
 眼前に持ち上げた震える右手には暗闇の中で見た赤は無く、そこでようやく詰まっていた息が口から吐き出された。

「…はぁ…くそっ…」

 あの時の夢を見たのはこれが初めてではない。それこそ数えきれないぐらい見てきたが、温度や臭い、触れる感触までもわかるリアルなものは初めてだった。
 それは恐らく、昨日沢田の所であの男に会ったからだろう。あの時から何十年ぶりかに再会したあいつに。

 再び生きているあいつを目にした瞬間、確かに驚喜の感情はあった。けれどそれ以上に恐ろしかった。
 俺が再びあいつの生を終わらせる存在になってしまうのではないかという恐怖に。

 あの時俺を庇ったあいつはあっさりと死を受け入れた。その時と同じように俺が要因となりあいつが死を受け入れるような事が起きないとは限らない。
 だってあいつは、最期の時は俺といたかったと言った。そんな望みを持った奴がまた俺に逢ってしまえば。
 同じ望みを再び抱き、同じ結末を迎えるのではないかという恐怖が血の気を引かせ体の奥底まで冷やす。
 けれどあいつは幸運にも記憶を持っていなかった。そんな望みを持っていた事も、俺の事も何も覚えていなかった。
 どうかこのまま何も思い出さず、何も知らずにあいつには生きてほしい。死を受け入れるなんて選択をあいつにしてほしくない。あの誇り高く誰よりも強かった男に。
 この先あいつが前世の事を思い出すかはわからない。けれどここまで思い出さなかったのだ、何か切欠でもない限り思い出す事は無いんじゃないだろうかと願望にも近い思いを抱く。

「…まあ、もう二度と会う事はねえだろうし」

 冬だというのに先程の夢の所為でじっとりと濡れた前髪を掻き上げる。
 今のあいつの名前も知らないし、向こうも俺の事を知らない。きっと二度と会う事は無いだろう。
 会わなければ記憶が蘇る可能性も減るし、あいつが再びあんな望みを持つ事もない。
 あんな、恐ろしい望みを。

 あいつの生きている姿をまた見る事が出来た。それだけで俺には充分だ。

 笑みを浮かべながら目を閉じたあいつの最期の顔が過り、治まりかけていた手の震えがまた強くなる。それを抑え込むように手をきつく握り、ベッドから降りて俺は浴室へと向かった。















 二日連続の予定外の出来事に己の気分が俄かに下降していくの感じながら人の多い道を歩く。
 日曜日なのだから仕方ないと言えばそうなのだがこの人の多さが下降していく気分に拍車をかける。
 否応なしに耳に入ってくる喧騒に三百六十度全てから感じる人の気配、眼前を遮るように行き交う人間。全てが不快で心の内で舌を打つ。

 これだから群れは嫌いなんだ。

 昨日は部下が体調を崩した為担当していた店に行けなくなり、行けそうな人間を探して向かわせるよりも自分が行った方が早いと判断して代わりに自分が向かった。その事に関しては別に良い。そういう事は稀にだがあるし、何より自分で判断したのだから問題は無い。
 だが、今日のこのイレギュラーは戴けない。
 他の一般的な企業と同じようにうちの会社も日曜日は休みだ。それにも関わらずクライアントがこの日にどうしても話がしたいというから出向いたというのに急用が入ったからと直前になってのキャンセル。これで不愉快にならない方がおかしいだろう。
 これは少しきつく言っておかなくては駄目だな、と客であるクライアント相手に思いつつ歩調を僅かに緩める。

 さて、突然のキャンセルによって予定の空いた休日をどうするか。
 このまま家に帰っても良いが、どうせ外に出たのだ。何処かに寄ってから帰ろうか。この決して良いとは言えない気分のまま家にはあまり帰りたくない。
 そう思いポロコートのポケットに何気なく手を突っ込むとその手に何かがかさりと手に触れた。何か紙の感触。
 そこでそう言えば数日前、得意先であるクライアントから何か渡されたのを思い出す。
 いつもお世話になっているから、一枚だけで申し訳ないですがと渡された何かのチケット。特に興味も無かったので何のチケットかも確認せずにポケットへ突っ込んでしまったが今手に触れている紙はそのチケットだろう。一体何のチケットだったのだろうか。
 脚を止め、折り畳む事無く突っ込んだ為しわくちゃになってしまっているチケットをポケットから取り出す。
 空色のチケット。そこには運良く今日の日付と大きく『Reito Haduki ピアノリサイタル』という文字が書かれていた。

「Reito Haduki…はづきれいと…」

 生憎音楽に造詣が深い訳じゃないので知っているピアニストなんてほんの僅かだ。
 チケットに書かれているピアニストは全く知らないが暇潰しには良いかもしれない。しかもよく見れば開演時刻は一時間後、会場も今いる場所から近い。
 これは都合が良いとチケットを再びポケットに突っ込み会場である音楽ホールへと足を向けた。





 商業施設と併設した、然程大きくは無いが比較的新しい音楽ホール。そこが会場だった。
 入口で全席自由と書かれた半券を切られホールへと入る。赤い布張りの座席が並ぶそこは既に殆どの席が埋まっている状態だった。
 もしかしたら自分が知らないだけでそこそこ有名なピアニストなのかもしれない。
 幅広い客層で埋まっている会場。けれどステージに近い前の方の席は若い女性ばかりで埋まっているのを不思議に思いながら後方、端の席へと座った。
 暫くすると会場の照明が落とされ、黒いグランドピアノが置かれたステージが明るく照らされる。静寂と共にもうリサイタルが始まるのだという緊張感が一気に会場を満たす。
 その独特な空気の中足を組み、ステージを見つめ奏者が現れるのを待つ。
 その人物はすぐに現れた。
 ステージの左手から現れたブラックスーツ姿のピアニストを観客が拍手で迎える。そんな中自分だけが手を打つ事無く、現れたピアニストの姿に驚いていた。
 ステージ中央、ピアノ前に立ち、観客へ深く一礼する銀髪のピアニスト。その人物を自分は知っている。

 …昨日、金村洋装店で見た、

「…ピアニストだったのか…」

 会話をした訳でもないし、ちらりと見ただけだったがあの色を忘れる訳がない。
 銀髪に日本人らしくない顔立ち。肌の色も白かったように思う。その外見から外国人だと思っていたが、まさか彼が『はづきれいと』だったとは。
 そして同時にステージ近くの席に若い女性が多い理由もわかった。確かにあの容姿ならば女性ファンは多そうだ。
 視線の先、頭を上げた彼がピアノに近付き、椅子へと腰を下ろす。瞬間、一層高まる会場の緊張感。
 ピアノの白い鍵盤の上に指が置かれ。そして。

「………っ…」

 生み出された音に、一気に呑み込まれた。
 どこまでも澄み切った、美しい鮮烈な音。けれどどこか歪さがあり、そこに人間味と温かさを感じる。
 普段音楽をあまり聴かない人間でもわかる。

 これは、人を魅了する音だ。

 どうやら容姿だけで客を集めるようなピアニストではなかったらしい。
 流れるように奏でられる、心を捕らえて離さない音色。

 こんな音を奏でる彼は一体どんな人間なのだろうか。

 音色に呑み込まれながらも沸々と湧き上がる関心に、高まる高揚感。
 暇潰しにと訪れたリサイタルだったが仕事での苛立ちは完全に消え去り、笑みを浮かべながら音色に耳を傾けた。










 約二時間に渡るリサイタルが終わり、観客も帰り静かな会場の入口前のホール。そこの柱に腕を組んで凭れ、彼が現れるのを待つ。
 恐らく裏口があるだろうし、こちらの正面入口から出てくるであろう保証は無かったが、何故だか彼はこちらに来ると思った。
 自分以外の観客がいなくなってから三十分程経っただろうか。いつ出てくるかもわからない知人でも無い人間を待つなんて自分でも驚きだが、どうしても彼に会いたかった。
 あの心を捕らえ満たしていった、鮮烈過ぎる音を奏でる彼に。

 係員さえいなくなったホールに足音が聞こえる。彼だ。姿を見ずとも確信した。徐々に近づいてくる音に口角が上がるのを止められない。

「やあ」

 楽しい気持ちのまま凭れていた柱から背を離し、現れた彼に声を掛ける。
 そこでようやく僕の存在に気付いたのだろう、彼は目を大きく見開き足を止めた。その驚き以外に何か他の感情も入り混じっているような表情は昨日初めて会った時と重なった。
 細身のダークグレーのルダンゴトを羽織り、中にはブラウンのジャケットと白いシャツ。首にはボルドーのマフラーが掛けられ、その出で立ちは容姿を抜きにしてもまるでヨーロッパの人間のようだ。そう、まるでイタリアのような。
 リサイタルで着ていた衣装が入っているであろう鞄を手から落としてしまうのではないかというような様子で僕の顔を見つめる彼に、何故そこまで驚愕するのかと疑問に思う。
 …そういえば金村廉が知り合いに似ている、と言っていたような気がする。その知り合いとやらと関係があるという事だろうか。
 その知り合いとどんな関係なのかは知らないが普通の反応とは言い難い彼の様子が気になりつつも彼との距離を詰めた。

「昨日、金村洋装店で会ったね」
「…あ…」
「素晴らしい演奏だった。とても良かったよ」

 呆然とというより愕然とと云った様子で僕を見つめる瞳はまるで木々の緑を映した湖面のような翠で。染めているんだろうと思っていた髪は根元から見事に銀色でよく見れば眉も睫毛も全てが銀色だった。
 昨日はちらりと見ただけで気付かなかったが、近くで見てその色の美しさに思わず驚く。その造り物のようにさえ感じる程の容貌にも。
 今まで色々な人間を見てきた。けれどこんな美しい人間は初めてだった。

 …呑み込まれてしまいそうだ。

 人の美醜を気にした事など無かったがあまりの美しさに己の内側が彼に引っ張られていく感覚がして、目を伏せる。
 美しい演奏と美しい容姿。それだけでこんなにも惹かれるものだろうか。
 彼には他に何か大きなものがある気がしてならない。自分がこんなにも気にかかる何かが。
 その何かがわからず胸の内が靄がかるが、今気にしても仕様が無いとジャケットの内ポケットへと手を入れる。
 そしてそこから黒い革製の名刺入れを取り出し、名刺を一枚出して彼へと差し出した。

「え…?」
「自己紹介がまだだったから」
「いや、なんでそんな態々…」
「君とお近付きになりたくてね」

 そう、彼と話がしてみたくて、彼がどんな人間なのか知りたくて、それで自分はここで待っていたのだ。
 そんな僕の言葉に彼は翠を揺らし、戸惑いながらも名刺を受け取った。

「…『IKARUGA代表取締役社長 斑鳩要(いかるがかなめ)』…」
「そう。宜しく」

 僕の渡した名刺を見つめ呟いた後、彼がどこか切なげにフッと笑う。

「…また鳥なんだな」
「…?」

 小さく呟かれた言葉。それは僕に聞かせるつもりはない言葉だったんだろうが僕の耳に確かに聞こえた。
 また、とはどういう意味なのか。
 確かに自分の名字である斑鳩は鳥の名前だ。けれどまた、という意味がわからない。
 呟きの意味がわからず考える僕の前で彼は笑みを消し、溜息を一つ漏らす。そして徐にジャケットの内側へ手を入れた。

「…こんなん渡されたら俺も渡すしかねえじゃねえか…」

 ダークブラウンの名刺入れから抜き出された白い名刺。それを渋々といった様子で僕へと差し出した。

「羽月鴒人。よろしく」

 愛想ゼロで渡された名刺。そこには『ピアニスト、通訳、翻訳 羽月鴒人』と書かれていた。

「ピアニスト以外にも仕事してるんだ」
「…まあな」
「ふうん」

 彼の事は殆ど知らないが今日の会場の様子を見た感じ、ピアニストとしてだけでは食べていけないというようには見えなかった。
 実力も人気もあるにも関わらず違う職も持つ彼を不思議に思いつつ、羽月鴒人という文字に目を向ける。
 チケットには名前は英語表記でしかされていなかった為わからなかったが、そうか。こういう字を書くのか。
 その名前を見て、僕は彼へと視線を向け笑った。

「…何だよ」
「君も鳥じゃない」
「…は?」
「鴒人って、これ鶺鴒でしょ?」

 鶺鴒の文字が使われた名前を指して言えば彼は一瞬きょとんとした顔をした後、笑った。どこか愁いを帯びた表情で。

「…そうだな。俺も鳥だ」

 何故彼はそんな切なげな表情をするのか。何故彼はそんな苦しそうな瞳で僕を見るのか。

 その理由を知りたいと彼を見つめながらその時僕は漠然とそう思った。

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