漆黒の空から雪が舞い落ちる。
爆発で崩落し覗いた暗闇からふわりふわりと降る雪は瓦礫だらけとなったそこに降り注ぐ。
その中灯した黄色い炎は少しも暖かさを与えてはくれない。
冷え切った空気も、己に覆い被さる男の体さえも。
「くそ…!」
黄色の炎を灯し続けてどれくらい経っただろうか。
はっきりとした時間はわからないが、今までこれ程までに灯し続けた事は無いと言い切れるぐらいに長い時間灯しているのは確かだ。
長時間の炎により確実に疲労が溜まっていっているのがわかる。体に力が入らない。
けれど炎を灯す事を止める訳にはいかなかった。
この炎を止めてしまえば、こいつは。
獄寺は歯を食いしばり、炎を灯し続ける。
守るように自分に覆い被さる黒い男、雲雀恭弥を生かす為に、血を流し続ける彼の脇腹に炎を当てながら。
何故こんな事になってしまったのか。
どこかから情報が漏れていたのか、今となってはわからない。
ただ雲雀との任務で潜入した敵対ファミリーで予期せぬ戦闘となり、そして情報には無かった数の敵に襲われた。
激しい戦いだった。
多くの匣持ちとの戦闘は厳しく、その中で瀕死の敵が使った匣。それがどのような匣だったかはわからないが最期に一矢報いろうと使ったであろうそれは大きな爆発を生み出し、屋敷を崩壊させた。
一瞬だった。シールドを展開する暇も無く爆風で体が吹き飛び、天井も壁も床も、全てが崩れる。
ただ爆風で舞った粉塵で視界が覆われ上下さえわからなくなる中、目の前に黒い何かが現れたのだけはわかった。
そして気付けば瓦礫の中自分は倒れていて。自分の上に雲雀が覆い被さっていた。
飛んできた瓦礫で抉られたのか脇腹から大量の血を流しながら。
その時に気付いた。屋敷が崩れ落ちる爆発の中、目の前に現れた黒はこいつだったという事に。
そして、俺はこいつに守られたんだという事に。
何故こいつはそんな真似をしたのか。
雲雀と自分はそんな仲ではなかった筈だ。自分の身を呈してまで相手を守るような、そんな仲では。
昔は顔を合わせばぶつかり合い、大人になってからはさすがにそんな事は無くなったが特別親しいという間柄でもない。
雲雀は風紀財団の財団長で俺は十代目の右腕という立場から仕事の依頼や情報のやり取りで会う事はそれなりに有ったが、それでもそれはあくまで仕事上の話だ。
プライベートでは会った事は無く、仕事や匣関連以外の会話をした事など思い出せないぐらいの関係。
そもそも雲雀という我が道を行き、足を引っ張るような存在はすぐに切るであろう人間が人を庇うなんて誰も想像出来ないだろう。
だがその想像も出来ないような出来事が起きてしまった。最悪な事態となって。
獄寺は雲雀の傷を癒す為に炎を灯したまま、力の入らない体で瓦礫から抜け出ようと試みるがやはり無理だった。
そんな事はもう何度も試みていたが、このままでは、という焦りが無駄だとわかっていても体を動かそうとする。
獄寺と覆い被さる雲雀の足の上に乗る大きな瓦礫。それは到底一人や二人では動かせないだろう大きさだ。
足の感覚はとうに無い。どうにかして瓦礫をどかしたところでこの足では歩く事は不可能であろう事は明確で。
携帯は爆発で壊れた。助けを求める方法は無い。
雲雀の傷は深く、いくら活性の力を持つ晴の炎を使おうとも塞がる気配を見せない。
今出来る事は炎を灯し続け雲雀の治療を続けながらボンゴレか風紀財団がこの事態に気付き助けに来るのを待つ事のみ。
いつ来るかもわからない助けを待つその時間は永遠にも思える程長く感じられた。
まだか、まだなのか…!
ヒューヒューと雲雀の喉から聞こえる細く荒い呼吸が焦燥感を煽る。
俺にもっと晴の適性があれば…!
こんなにも、自分は無力だ。
雲雀が。あの最強の男が。誰にも捉われない孤高の浮雲が。
決して敵わないと、密かに憧憬とも似た思いを抱いていた男が。
目の奥が熱くなる感覚に軋む音が鳴るほど歯を食いしばる。
その想いに呼応するように勢いを増し揺れる炎に雲雀の体が僅かに動いた。
「雲雀っ」
雲雀が力無い手で傷口に当てる獄寺の手を柔く掴む。もうこれ以上やったところで無駄だと雲雀が声無く伝えてくる。
わかってはいたが理解したくなかったその現実に噛んだ唇から血が滲んだ。
「ごく、でら」
今まで一度だって聞いた事の無い、弱く掠れた音で雲雀が獄寺の名を呼ぶ。
薄く開いた瞼から覗いた黒い瞳が獄寺を見つめる。獄寺の灯す炎しか灯の無い闇の中でもわかるほどに白い顔で雲雀は確かに笑った。
「ひ、ばり?」
僅かな灯りで煌き揺れる翠が自分を見つめている。
たったそれだけで冷え始めている自分の体の奥深くが温かくなるのは何故だろうかと雲雀は今にも泣きそうな獄寺を見つめ続けた。
出会った頃から逸らす事を知らないかのように眩しいぐらいの強さを持って真っ直ぐと自分を見つめてきた翡翠が揺らいでいる。それが何だかおかしく感じてしまった。
もう、自分は助からない。
そんな事はもうとっくに気付いていた。きっとそれは獄寺も気付いていた筈だ。
それでも諦めずに止める事無く炎を灯し続けるのは諦める事を知らない彼らしいと思う。…いや、諦める事が怖いだけか。
獄寺の手を掴んでいる筈の己の手の感覚はもう既に無い。
死がもう目の前まで迫っているというのに、雲雀の中には不思議と恐怖は無かった。
それどころか酷く心は穏やかで、充足感さえ感じている。それは何故だろうかと霞がかり始めた頭で考える。
まだ幼い頃、目が合うたびに突っ掛かり、いくら注意しようとも違反を止めなかった問題児は大人になればその鳴りを潜め、大ボンゴレの頭脳と恐れられるまでになった。
冷静沈着で敵には冷酷無慈悲。そう噂される男はけれどその内側には嵐のような強さと荒々しさを持ったままだった。
私情を決して出す事無く仕事を熟すボンゴレの右腕は一度戦いとなれば苛烈極まる怒涛の攻撃で敵を潰し、けれど匣と指輪の研究として手合わせをする時には無邪気ささえ感じるぐらい楽しそうに目を輝かせまるで子供のようだと何度も思った。
いくつもの表情を持ちながらも決して輝きを失わず、その心と瞳は強く前を見据え続ける。
その強さはいつだって自分の瞳には鮮烈に映っていた。
自分に無い強さに、自分よりも強いその眩しさに思わず目を細めた事は数えきれない。戦闘としての強さは自分の方が上だろう。けれどそうではない。
獄寺は確かに僕よりも強かった。
敵を潰す強さしか知らなかった幼い頃の自分は気付かなったが、獄寺は昔から、ずっと。
出会った頃の姿が脳裏に浮かんだ。
制服を着崩し、決して趣味の良いとは言えないシルバーアクセサリーをじゃらじゃらと身につけながら煙草を吹かす彼の姿が。
傷だらけの体でダイナマイトを構え、向かってくる姿が。
決して屈しない、折れる事を知らない姿が。
僕はこんなにも長い事彼を見ていたのか。今でも鮮明に思い出せるくらい強く。
─そうか。
今になってわかった。
この充足感の理由が。
「…自分の望みがわかった」
不鮮明になっていく視界の中、獄寺を見つめる。
その姿はやっぱり焦がれる程に眩しかった。
「最期の時は、君といたかった」
こんな時になって気付いた望みはもう叶うようだ。
幕を下ろすように瞼が下りていく。
…ああ。最後に見る光景が君の姿だなんて、中々に良い最期だ───。
「…雲雀…?」
雲雀が眠るように目を閉じた。穏やかに、笑みを浮かべて。
ヒューヒューと聞こえていた呼吸音はもう聞こえない。無音だ。
覆い被さる体が先程よりも重たい。
触れる体は冷たくて、獄寺の手が小刻みに震えていく。
雲雀の体はこんなにも冷たかったか?こんな、雪のように。
「雲雀、おい…雲雀…」
名を呼ぶ。返事は無い。ただ獄寺の手を柔く掴んでいた雲雀の手が、ぱたりと瓦礫の上に落ちた。
「……────っ…!!」
闇夜に慟哭が響く。
冬のイタリア。
最強の守護者と言われた雲雀恭弥が嵐の守護者、獄寺隼人の腕の中で静かに息を引き取った。
それは雪が静かに舞い落ちる、クリスマスの出来事だった。
終わりから始まる物語
イタリアから届いたエアメールを読み終え、獄寺は軽い溜息と共にそれをテーブルの上に置いた。
「…もうそんな時季か」
ぽつりと呟いた声は一人きりの部屋に響く事無く落ちる。
見慣れた文字で書かれた手紙、そこには母の字で『愛する我が子、鴒人へ』と書かれていた。
この名で呼ばれ二十三年経つというのに未だに違和感を覚えてしまうのは前世の記憶があまりにも強烈で鮮明過ぎるからだろうか。
今の自分は獄寺隼人ではない。羽月鴒人(はづきれいと)という存在だ。
所謂、転生というやつらしい。ボンゴレというマフィアで嵐の守護者だった獄寺隼人は死に、この世界で羽月鴒人として転生した。前世の記憶を持って。
だが転生と言ってもあれから何十年後の世界とかいうものではない。
まるで違う世界に獄寺は転生した。元いた日本にそっくりな、けれど違う世界の日本に。
前世で何度となく聞いたパラレルワールドというものなんだろうと思う。
確かに日本もイタリアも存在するが、所々違う。この世界では匣や指輪といった物は全く存在せず、ボンゴレというマフィアも存在しない。そして並盛という地名も無かった。
似て異なる世界に転生したのだと気付いたのは前世の記憶が蘇った中学一年の時だった。
突然怒涛のように蘇った記憶に脳はキャパシティーをオーバーし、その日は一日涙が止まらなかった。
ありとあらゆる感情が記憶から押し寄せ心臓が激しく拍動し、頭が割れんばかりに痛み、それから三日間高熱に魘された事ははっきりと覚えている。
転生した新たな世界はとても平和だった。自分自身の人生も。
羽月鴒人としての自分はマフィアの家ではなく、少し裕福な家に生まれていた。
驚く事に父も母も、そして姉さえも前世と同じ姿だったが。
母はイタリアと日本のハーフという事もピアニストという点さえも全く同じだったが、愛人ではなくちゃんと父の妻という存在で病気に蝕まれていないという点が違った。
至って健康体で、仲睦まじく夫婦でイタリアで暮らしている。
母さんが誰に疎まれる事も無く、幸せに生きている。
それがどんなに嬉しかったか。
姉貴はやはり前世と同じく腹違いではあったが俺同様記憶を持っていて、俺の記憶が蘇ったのを知った時に何も言わず涙を流して抱き締めてくれた。
姉貴にも俺と同じく前世の記憶がある。
その時にこの記憶は俺だけが持つ夢や妄想などではなく、実際に確かにあった出来事なのだとわかった。
姉貴と俺は記憶があったが、母さんと父さんには無く。
それはいずれ自分のように突然蘇るものなのか、それとも俺や姉貴が特別なのか、それはわからないがただ新しい生を受けて、全く別の世界に生きる上で前世の記憶は必要無いと俺も姉貴も思い、両親に前世の事を言う事はしなかった。
…そう、前世の記憶を持つ事が良い事とは限らない。
テーブルの上の手紙には今年のクリスマスはこちらに帰って来ないのかという内容が綴られている。
毎年この時期になるとイタリアから届くこの内容の手紙に気持ちが塞いでいくのを止められない。
恋人と過ごす日という考えの日本と違い、イタリアではクリスマスは家族と過ごす日だ。
だからこそこうして一人日本で暮らす息子を呼び、一緒に過ごそうと毎年手紙を送ってきてくれてるのだろうが今までその言葉に従った事は無い。
クリスマスは苦手だ。
嫌でもあの冷たさを思い出すから。
途方も無い喪失感と絶望感に心が軋み、体が震えてしまうから。
あの光景を、悲しみなんていう言葉では表す事の出来ない程の痛みを、忘れた事など一瞬たりとも無い。
何十年経とうと、違う生を受けようと、少しも薄れる事無く覚えている。
「…っ…」
吐き出した吐息が震える。
今年も俺は今までと同じ内容の手紙を書いてイタリアへ送り、そして一人どこにも出る事無く家で過ごすのだろう。
そしてそれはこれから先も、ずっと。
「…そろそろ行かねえと」
頭を軽く振り、掛けてあったコートを手に取る。いつまでもこうしていられない。今日は大事な用事があるのだ。
手紙の返事は帰って来てから書くとしよう。偶には声を聞かせてほしいと書いてあったから電話でも良いかもしれない。
そんな事を考えながらコートを羽織り、家と車の鍵をポケットに入れる。
財布とスマホも持ち、用意しておいた紙袋に入っている品を持てば準備は万端だ。
磨かれた革靴を履き、家を出る。
もうあいつらは到着しているだろうかと、自分と同じく前世の記憶を持つかつての仲間達を思い浮かべながら獄寺は愛車のハンドルを握った。
…そこにあの黒色はいないけれど。