終わりを告げたあの日から一週間。あの七日間は夢か幻だったのではないかと思う。
夏休みが終わり、家が治った翌日。
俺は始業式が終わってすぐに業者に電話をかけて七日間を過ごしたあいつの家からピアノを運び出した。
そして荷物を全て持って、あいつの家に鍵をかけて。郵便受けに鍵を落とした。
その硬質な金属音を聞いて「ああ、終わったんだな」とただ静かに思った。
俺が眠っている間にあいつが家を出ていったのと同じように、俺はあいつが学校にいる間に全てを持って家を出た。
あの生活が夢なのだとしたら、終わりを告げた時に全てを元に戻さなくてはいけないと思ったのだ。
部屋も、あいつとの距離も。
だから俺は応接室にはいかなかった。あいつに会おうと思わなかった。
最後の夜、あいつは俺が求めたものをくれた。それだけで充分だった。
嵐の後に突然始まった奇妙な生活は酷く不思議なものだった。
けれどそれは穏やかで温かく、今まで経験した事の無いものばかりで。
独りでは決して得られない、あいつ以外では得られる事は無いだろうそれは、間違いなく『幸せ』だった。
この時間が終わらなければ良いとらしくもなく願ってしまう程の充足感、幸福感。
あいつも同じように思ってくれていたなら良い、そう思う。
終わりを拒むように、惜しむように、求め求められたあの夜。
貪るように掻き抱いて熱も想いも全て吐き出し、受け取ったあの行為ははっきりと胸に刻まれている。
目を閉じれば鮮明に浮かび上がるあの光景。
白い月明りだけが照らすベッドの上で俺だけを見つめる黒い瞳も、いつも涼しい顔していたあいつの汗が流れる姿も。
俺を愛おしむように撫でる手の平も、数えきれないほど落とされた口付けも、至る所に這わされた舌の感覚も。
濃厚な金木犀の香りも、汗と混じって香る胸を熱くさせるあいつの匂いも。
舌を絡め合う水音も、優しく俺の名前を呼ぶ低い声も。
重ねた胸から伝わる激しい心音も。
全てはっきりと覚えているというのに、今この体にはそのどれも残ってはいない。
過去、これが夢であれば良いと思った辛い出来事は数えきれないほどある。
けれど、夢でなければ良いと、夢ならば覚めてほしくないと思ったのは初めてだった。
あいつは俺におかえりと言ってくれた。俺の為に料理を作ってくれた。手を握って眠ってくれた。
これがどれだけ俺に温かさを与えてくれたか、あいつはきっと知らない。
でも俺はその与えられた分、何かをあいつに返せていただろうか。
そう考えてしまえばこれ以上夢を続ける事は駄目だと思った。
一方的な甘えは何も生まない。
あいつがどういう風に思い、過ごしていたかは知らないが、やはり夢は夢で終わらせるのが一番だろう。
あれ以来何も感じる事のなくなってしまった胸に虚無感を抱え、家路につく。
最後の夜にあいつに全部あげてしまったからこの胸は空っぽになってしまったのかもしれない。
空っぽになった胸では痛みも感じないし、涙だって出やしない。
ただ少しだけ寂しいと、それだけ思う。
あの日置いていった鍵と似ているが全く違う銀色の鍵を自分の家のドアに差し込む。
そして捻ればがちゃりと解錠される音が聞こえてくる。その筈だった。
「…ん?」
いつも通り鍵を捻った。なのに解錠される重たい感覚も音も、何もしない。
もしかして鍵を締め忘れたか?
マフィアという職業柄、戸締りには気を使っているつもりだ。今朝もしっかりと戸締りをした筈。
そこまで考え、一気に警戒を強める。
鍵をかけた筈の扉の鍵が開いている。
それが何を示しているか。
部屋の中からは気配は感じられない。けれど気配を消して何者かが潜んでいる可能性もある。
誰かがいた場合どう動くか。頭の中でシミュレーションしながらドアノブに手をかける。
それから一気にドアを開けた。
「…は…?」
結論から言うと部屋の中には誰もいなかった。
というか、『何も』無かった。
「え…?なんで…?」
扉を開けた先、そこから見える部屋は確かに自分の部屋の筈なのに何も無かった。
ソファーもテレビもテーブルもカーテンも、ピアノさえも。
まるで引っ越してきたばかりの部屋にやってきたかのように。
朝、家を出た時とは全く違う光景に脳が一瞬思考を停止させる。
学校に行っている間に家財道具全てが無くなっていました、なんてそんな非現実的な出来事に瞬時に対応できるほど柔軟な脳ではないし、お目出度い性格でもない。
けれど何とか現実に戻り、頭を軽く振る。そしてゆっくりと活動を再開させた脳で現状の分析を始めた。
部屋は荒らされた形跡が無いので同業者による襲撃や物取りの犯行では無い事がわかる。
ならば知り合いの誰かか。
俺の家の住所を知っている人間なんてかなり限られている。
その僅か数人しかいない人物を順番に思い浮かべるまでも無く、頭の中にはたった一人の人間しか浮かばなかった。
根拠は無い。理由も無い。けれど何故かこいつだと思った。
七日間を共に過ごした、黒。
雲雀恭弥しかいないと。
そう思い至った瞬間、ポケットから携帯を取り出し通話ボタンを押していた。
画面に表示されている名前は勿論、『雲雀恭弥』だ。
『何』
「何じゃねえ!これお前の仕業だろ!家のもん、どこやった!」
数回コール音が鳴り、聞こえてきた低音にすぐさま噛みつく。
雲雀に対して声を荒げるのも久しぶりな気がする。
あの二人きりの空間はとても穏やかなものだったから。
『ああ、家に帰ってきたの。丁度良かった。じゃあ下降りてきて』
「は!?あっ、おい!!」
こっちの質問に答えず、言いたい事だけ言って一方的に通話は切られた。
あまりの雲雀らしさに怒りも湧かない。
あの七日間で雲雀がどういう人間なのか以前よりも理解しているせいなのか、怒りよりも諦めに近い感情と、あいつの事だから何か理由があるのだろうという気持ちで意外と心境は穏やかだ。
上ってきたばかりのマンションを下り、エントランスへと向かう。
そして外に出ればそこにはバイクに跨った雲雀がいた。
「後ろ乗って」
「…説明無しかよ」
「言葉で言うより連れて行った方が早い」
そもそも何処に連れて行く気だというのか。
こちらが知りたい事は何も言わず、ただ後ろに乗れという雲雀に溜息を吐き、後ろに回る。
きっとこちらが何を訊こうが雲雀は答えないだろう。ならば言うだけ労力と時間の無駄だ。
思えばあの日から一週間、ちらりと姿を見たりする事はあったがこうして話をするのも、目を合わせる事自体も久しぶりだ。
ましてや体に触れる事など。
バイクに跨り、雲雀の腰に手を回す。
一見細く見えるその体が実は結構がっしりしていて筋肉がついている事も触ると熱い事も知っている。
服越しに触れただけであの夜の熱さを思い出し、思わず腰に回した手が震えた。
バイクで連れて来られた先は然程離れていない場所にあるマンションだった。
商店街に近いが、普段歩かない道沿いにある為初めて認識したその建物に雲雀はさっさと入っていく。
まだ建てられてから然程日が経ってなさそうな新しめのこのマンションに一体何があるというのか。
というか俺の家財道具は一体どこへ行ってしまったのか。まさか捨てられたりとかしてねえよな?と不安になりつつ前方を歩く雲雀についていく。
エレベーターに乗り上へと運ばれて。降りたら静かな長い廊下を進み、一番奥の扉の前まで来てそこでようやく雲雀の脚は止まった。
キーケースから鍵を取り出し扉を開ける。
キーケースに鍵が入れられているという事はこいつの家なんだろう。
こいつは一体いくつ家を持っているんだ驚きつつも、まあ雲雀だしな、と妙な納得をして見ていると中に入るよう言われた。
ここで拒否する理由なんて無いから素直に部屋に入り、靴を脱ぐ。
新しく契約した部屋なのだろうか、三和土も壁もドアも全てが綺麗だ。
まだ入ったばかりで間取りはわからないが見える範囲にあるドアの数的にそこそこの広さはあるんじゃないだろうか。
前いた家でさえ一人暮らしには広すぎだろと思っていたのに、更に部屋数も広さもある家なんて持ってこいつは一体どういう生活をしたいんだ。
「獄寺、こっち」
靴を脱いで上がったは良いものの雲雀の意図も読めず、どうしたものかと立ち止まる俺を雲雀が呼ぶ。
廊下の突き当りにある扉。そこを開ける雲雀に近付く。
一般的な間取りで考えると恐らくそこがリビングだろう。
きっとまただだっ広かったりするんだろうな、と思いながら入ったリビングで俺は言葉を失った。
部屋の広さにとかそんな事ではなく、部屋に置いてある物を見て。
「これが理由」
雲雀と俺の視線の先。
そこには外から差し込む光で照らされる黒いグランドピアノがあった。
毎日雲雀に弾いて聴かせて、一緒にも弾いた、俺のピアノが。
「君の部屋、解約したから」
「は!?」
「今日からここが君の家」
「え、いや、ちょっと待て!?」
「君の荷物は全部隣の部屋に置いてる。まあ必要無い家具とかは捨てたけど」
「おい!?」
いや、本当にちょっと待ってほしい。この怒涛の展開に全く頭がついていかない。
要するにこいつの言っている事を纏めると雲雀が勝手に俺の部屋を解約してこの家を契約して、そんで俺の家の荷物をこっちに運んだと。
…いやいや!何でだよ!?
「どうしてそうなった!?」
「僕の家から持ってきた物もあるんだからどっちかは捨てるでしょ。テレビとか洗濯機とか一台で十分じゃない」
「いや、俺が言ってるのは家具の事じゃなくて!…って、え…?」
今こいつ、さらっととんでもない事言ってなかったか?
僕の家から持ってきた物もある、とかって。
確かに部屋を見渡せばこいつの家で見た記憶のある家具がいくつかある。
解約された俺の家、新しく契約されたらしいこの家、こいつの家具と俺のピアノが置かれた部屋。
これだけ示されればどういう事なのか混乱した俺の頭でもわかってしまう。
けれどそれを認めれなくて、俺は恐る恐る雲雀の顔を見れば雲雀は腕を組み、いつもの太々しい顔であっさりと言ってのけた。
「君は今日から僕と一緒に暮らすんだよ」
「な、んで…」
だって、夢はもう終わっただろ。
あの満ち足りた温かな夢は夏休みと共に終わりを告げて、俺達は日常に戻った筈だ。
そう思い呟いた掠れ声はしっかりと雲雀の耳に届いたらしく、雲雀は不愉快そうに片眉を跳ねさせ俺をまっすぐ見つめる。
「君はあれを夢にしたかったの?」
僕は嫌だね。
吐き捨てるように、突きつけるように、雲雀が言う。
「君のピアノを聴いたのも、一緒に食事をした事も、手を繋いで寝た事も、君を抱いた事も、全て夢になんかしたくない」
お前、今とんでもない事言ってるって気付いてるか?
そんな熱烈過ぎる愛の告白のような言葉を、そんな事も無さげに、当たり前かのような顔で。
「…おまえ、俺なんかと一緒に暮らしてどうすんだよ…」
甘やかされてばかりで、何も返せなくて、ハンバーグすらまともに作れない俺と一緒に暮らして、お前は何が得られるんだ。
そう俺が言えば、雲雀は鼻で笑ってみせた。何だ、そんな事と。
「僕は君さえいればいい」
君もそうでしょう?と当然のように言い、楽しそうに笑いながら腕を組んだまま右手の人差し指を曲げて口元に当てる。
「でも、そうだな。そんなに気にするならまた僕の為にピアノを弾いて、料理を作って、一緒に寝てよ。それで僕の幸せは完成する」
「…っ…」
そんな事を言われて拒否なんか出来るはずが無い。
俺が雲雀の幸せというものになれるというのなら、俺にとってもそれ以上の幸せは無い。
自分が欲し、求めた相手も同じように自分を欲して求めている。
あの夜確かに感じた、涙が出る程の終わったと思っていた幸せはまだ続いていた。
「…ヒバリも、」
「うん?」
「ヒバリも、俺に料理作って…んで、おかえりって言って、また手繋いで寝てくれよ…」
「お安い御用だよ」
そうあまりにも穏やかに、幸せそうに雲雀が笑うから。
俺も滲む視界で笑った。