その日はとても穏やかに時間が過ぎていった。
カーテンの隙間から差し込む朝日で起きて、いつも通りに朝食を作り、獄寺を起こして一緒に食べる。
いつも通りの流れ、いつも通りの行動。
けれどそこに流れる空気は確かに今までとは違っていた。
いつもよりも二人の間に会話は無く、けれども居心地の悪さはそこには無い。
ただ穏やかにお互いの纏う空気が混ざり、溶け合っていくそんな感覚。
言葉は無くとも相手の考えている事が何と無しにわかり、離れていても温もりを感じ、見ていなくても向けられる視線の熱さに思わず吐息が漏れる。
それは獄寺も同じらしく、無表情の中に確かに体の奥が疼くような色が見て取れた。
いつもと違うのはお互いの空気だけではない。
いつもならば朝食を食べ終えれば僕はすぐに見回りに出ていた。
それを起きてすぐに草壁に連絡をし、彼に全て任せて休みにした。
獄寺がこの家に来て七日目、初めて彼と二人きりで過ごす一日だ。
テレビも点けず、只お互いの動く音が、衣擦れの音が、吐息の音が落ちるだけの静かな部屋。
それがこんなにも心地良いものだとは知らなかった。
この二人きりの静寂を破られたくない。
外ではきっと夏休み最後の日を楽しもうと草食動物が騒がしくしているのだろう。
そんな外とは対極的にこの部屋ではゆっくりと静かに時間が過ぎていく。
陽の当たるリビングのソファー。
そこに獄寺が座り、日焼けして変色している本の頁をぺらり、ぺらりと捲る。
そのすぐ隣に僕も座り、同じように古ぼけた本を捲る。
そんな僕達の距離は昨日までとは違い、明らかに近い。
密着しているわけではないが確かに相手の温度を感じるような距離。
二人の頁を捲る音が酷く心地良くて胸に充足感が満ちていく。
携帯の電源さえも落とされた、外とは隔絶された二人きりの世界がこんなにも満ち足りたものだったなんて、僕は初めて知った。
陽が高くなると朝はお前が作ったから昼は俺が作ると言い、獄寺がキッチンへと向かう。
隣に感じていた温度が離れていく。
けれどキッチンから聞こえる音と次第に漂ってくる匂いにまた幸福感を感じて。
出されたカルボナーラは今まで食べてきたカルボナーラとは全く違っていて。
驚いたらこれが本場のカルボナーラだと彼が笑うから僕もそうなんだ、と笑って。
夕食は自然と二人で作る流れになって、僕が肉じゃが、獄寺がミネストローネスープを作って。
和食とイタリアンの組み合わせにどうなんだろうと思ったけれど食べてみたら案外合っていて。
また二人笑った。
またお互いの空気が溶け合った。
入浴を終えた後は部屋の明かりさえこの空間に邪魔に感じられて消した。
カーテンを開けたテラス戸から差し込む月の光だけで充分だった。
テラス戸の前に置かれた黒いピアノは月の光を受けて白く浮かび上がる。
そこに獄寺は何も言わず近付き、椅子に座った。
それを見て僕は獄寺の隣に立ち、見つめる。
昼よりも遥かに静寂が包むその空間で僕は彼の音を待つ。
その白い指が奏でる、世界で唯一つの何よりも綺麗な音を。
彼の指が滑るように鍵盤を叩く。
緩やかに始まり、徐々に激しさを増すその曲はクラシックに然程詳しくない僕も知っている。
ベートーベンの『月光』だ。
月の光を浴びながら『月光』を奏でるその銀色の姿はあまりに美しかった。同じ人間なのかと疑ってしまうくらいに。
時に優しく、時に激しく音を奏でる指を、動く度に煌く銀糸を、綺麗すぎる横顔を目に焼き付けて、胸の奥まで響き震わす音を刻み付ける。
この姿と旋律を聴いて心震えない人間はいないだろう。
けれどそれを目にする事が出来るのも、聴く事が出来るのも僕一人だけだ。
僕の為だけに奏でるその姿は胸を焦がす愛おしさを助長させる。
音色が止み、ゆっくりと下された指が鍵盤の蓋を閉めるのを見届けるなり、僕はその手首を掴んだ。
そこに抵抗は無い。
ただ絡み合った視線が熱を帯びる。
僕が彼を求めているように、彼も僕を求めている。
そんな事はもうわかっていた。
言葉はそこに無い。いらなかった。
柔く掴んだ腕を引き、隣の寝室へと向かう。
寝室はリビング同様、窓から射し込む月明りで白く照らされている。
狭い寝室で唯一存在感を示すベッド。
その傍に立ち、僕と獄寺は自然と唇を合わせた。
少しの躊躇も無かった。
こうする事が当たり前だったように、ごく自然な流れでお互いの顔が近付き、口付ける。
軟らかく温かなそれを確かめるように唇で触れて、離れて、角度を変えてまた触れて。
それを何度も繰り返しながらゆっくりとベッドへと倒れこんだ。
口付けながら獄寺に覆い被さるように倒れ、顔の両脇についた手で彼を囲う。
そのまま掻き抱くように銀糸の中に手を差し込み、触れているだけだった唇を食めば獄寺は鼻から息を漏らして僕の肩を掴んだ。
初めて人の唇はこんなにも軟らかいものなのかと知る。
少しでも力を入れてしまえば傷つけてしまいそうなそれを何度も柔く食み、舌でぺろりと舐め上げれば彼の体が震え、口から小さな吐息が漏れた。
甘い甘い吐息。
その吐息を全て食べてしまいたくて今度は薄く開いた彼の口を口で覆って舌を挿し込んだ。
そうすれば一層甘くなった吐息が僕の口の中へと零れ、舌が触れ合う。
甘い。
彼は吐息も、唾液すらも甘いのか。てっきり煙草を吸っているから苦いものだと思っていたのに。
そういえば思い返すとこの家に来てから彼が煙草を吸っているのを見た記憶が無い。
もしかしたら彼が煙草を吸っているのはニコチンを摂取する為とかでは無く、別の理由があるのかもしれない。
そんな事を考えながら甘い咥内を味わう。
舌で歯列をなぞり上顎の裏を舐め上げ、舌で舌を絡めながら吸えば甘い声を漏らして肩を掴む手に力がこもった。
舌を絡めれば絡める程、水音が部屋に響いて鼓膜を震わす。
薄っすらと瞳を開けて見れば目の前には銀色の睫毛で縁取られた白い瞼が震えていて、泣いてしまうのではないかと唇から離れて震える瞼を舐めた。
ゆっくりと下から上へと舐め上げた瞼。
その瞼はふるりと持ち上げられ、薄っすらと潤んだ翡翠を覗かせた。
月明りに照らされた翡翠が僕を見つめ、揺れる。
「きれい」
彼の瞳は何故こんなにも綺麗なのだろうか。
瞳も声も手も肌も、決して折れない心も、僕を貫く視線すらも全て綺麗で。
無意識に口から滑り出た言葉に獄寺はまたゆらりと瞳を揺らし、僕の頬に手を添えた。
そして頭を引き寄せて、さっきの僕と同じようにぺろりと瞼を舐め上げて微笑む。
「おまえも、きれい」
彼の色付いた唇から転がり落ちた言葉に僅かに目を見開く。
この黒い瞳を君は綺麗だと言うのか。
君の色鮮やかな翠と違う、只の黒い瞳を。
けれどそこまで思って気付く。
彼は僕と同じだと。
僕が彼の瞳を綺麗だと思ったのは只鮮やかだったからではない。
彼の瞳だから、綺麗だと思ったのだ。
他ならぬ彼の真っすぐで穢れの無い瞳を。
きっと彼はそれと同じように僕の瞳を綺麗だと言っている。
彼と僕は誰よりも相容れぬものだとずっと思っていた。
対照的で、交わるもののない存在だと。
けれど違った。
僕達は誰よりも近い存在だった。
こんなにも求めてやまない程に。
胸から全身へと広がり暴れ狂う、彼が欲しくて堪らないという思いのまま僕は噛みつくように再び彼の唇に口付けた。
唇が腫れてしまうのではないかと思う程口付け合いながらお互いを求めて。
間を隔てるものが邪魔で服は早々に脱ぎ捨てた。
窓から差し込む月の光が白く浮かび上がらせた彼の体は自分と同じ男の体だというのに息を呑む程白く、綺麗だった。
その体に求めるがまま唇を落としていく。
唇を一つ、二つと落とせば獄寺の鼓動は速くなり、口から微かな声と共に熱い吐息が漏れる。
僕が触れれば触れる程白い肌はしっとりと汗ばんでいき、匂い立つ獄寺の甘い香りが体の奥を熱くさせた。
彼は匂いまでも甘かった。
この家に来てから同じ物を食べて、同じシャンプー、ボディソープを使っているというのに香るその甘い匂いは彼自身の香りなのだろう。
その匂いに、まるで花の匂いに誘われる蝶のように僕は彼の体に口付けていく。
甘い匂いをさせる彼は体も甘いんじゃないかと首に、胸に、腕に、指先に、腹に、太腿に、足の甲にまで口付けて舌で触れる。
そうすればやっぱり甘くて、もっと味わいたくて汗ばむ彼の体に舌を這わせた。
実際に彼の体が甘いわけではない事はわかっている。寧ろ汗で塩辛い筈だ。
けれど僕には彼の体はどこもかしこも甘く感じられた。
昔、中国にいたと云われる桃娘は赤ん坊の頃から桃だけを与え育て、その体臭、体液全てが甘かったと言われている。
それはこんな感じだったのだろうかと彼の細い脚を持ち上げ、内腿に舌を這わせながら思う。
「っふ、ひばり、もっ…!」
切羽詰まった甘い声が僕の名を呼ぶ。
顔を上げれば眉をハの字にさせてさっきよりも一層水分の膜を厚くさせた碧眼と眼が合った。
「まだ」
彼が何を求めているかなんてわかっている。僕だって求めているのだから。
けれどまだ彼を味わい尽くしていない、もう少し待ってほしい。
ぬらりと光る唾液の跡の上、内股をきつく吸い上げ赤い痕を残す。
そして視線を下した先、ふるりと震えている獄寺の熱に僕は躊躇なく触れた。
「あっ!」
男という性別上、急所となるそこに突然触れられた事による生理的反応だろう、体が跳ねて強張る。
それを宥めるように脚を撫で、今度こそ彼を味わい尽くすべく立ち上がるそこに唇を付けた。
「ひばりっ…!」
羞恥からか、僕を引き剥がそうと彼の指が僕の髪に絡むがそんな事は気にせず舌を這わし咥える。
咥内で舌を絡めると途端広がる苦みはそれでもやっぱり甘かった。
男のモノを咥えるなど想像すらしたくないくらい気持ち悪い行為だ。今でもそう思う。彼以外は。
彼のモノだというだけで気持ち悪さなんて欠片程も無く、それどころが自ら触れたい、舐めたいと思える。
これが心の底から求めるという事なのかと自分の事ながら初めての感覚に驚きつつも咥内の熱を吸い上げた。
途端獄寺の体がびくびくと震え始め、両脇にある太腿が僕の頭を挟み込む。
断続的に聞こえていた鼻にかかったような彼の甘い声も涙混じりのようなものに変わっていた。
「やっ、ひばり、ほんとだめだから、ぁ…!」
「…泣かせたいわけじゃないんだけど」
どうにも僕の口に吐き出すというのは彼にとって耐えられない事らしい。
本当に泣き出してしまいそうな様子に渋々と顔を上げ、彼の顔を覗き込む。
そして予想通り泣き出す寸前だった翠の瞳に口付けた。
「ただ、欲しいだけだ」
君の全てが。頭がおかしくなりそうな程。
「わか、てる、けど…っ」
「うん」
欲しいけれど無理矢理手に入れたいわけではない。
泣かないようにと瞼に、目尻にいくつも口付けを落とし、最後に唇を覆う。
そうすればおずおずと舌が差し出され、お互いに絡め合う。
徐々に獄寺の力が抜けていき、鼻から甘い声が漏れるのを聞いてもしかしたら獄寺はキスが好きなのかもしれないと角度を変えて更に深く口付ける。
その間に僕は右腕をするりと下へと持っていった。
さっきまで咥えていた熱から唾液が垂れ、伝い、濡れそぼっている後ろの穴へと。
「んんっ!!」
僕の指が触れた途端、目を見開きくぐもった声が咥内に響く。
彼に経験があるかどうかはわからないが、男同士の行為がどうするかぐらいは知っているだろう。
この後の事を想像し体を強張らせて僕の二の腕に指を食い込ませる。
けれどこればかりは止めるわけにはいかない。獄寺もそれを望んでいない筈だ。
その証拠に腕を強く掴んではいるが抵抗や拒絶している素振りは無い。
この先の恐怖と緊張で身を固くしつつもじっと耐えようとしているのだろう。
この状況が長く続けば続く程、精神的にも肉体的にも彼の負担になる事は明白だ。出来るだけ早く、けれど傷付けないように進めなくては。
そう思い穴に触れる指に力を込めるが強張るそこは固く閉ざされ指先すらも入りそうにない。
ここで力を抜けと言ったところで恐らく無理だろう。
男同士の性行為について少しは調べれば良かったと後悔するがもう後の祭りだ。
今更行為を中断して調べるなんて出来るわけがない。
せめてゴムかローションくらいは用意しとくべきだったと思ったところでふとあれの存在を思い出した。
昨日の夜、この場所で嗅いだ金木犀の香りの存在を。
「…少し待ってて」
絡め合っていた唇を離し、枕元を探る。
獄寺が寝る前に必ず使うあの金木犀の香り。
確か枕元に置きっぱなしにしていた筈だと手の感覚だけで探ればそれはすぐに見つかった。
本来はこんな事に使う物では勿論ないがそんな事は言ってられない。
獄寺もそう思ったのだろう、僕の手の中にあるそれを見ても何も言う事無く只熱い吐息を繰り返す。
「借りるよ」
一応断りを入れ、キャップを外し白いクリームを指先に絞り出す。
昨日も全く同じ場所で嗅いだ甘い香り。それが全く違う状況で香る。
多めに出したそれを侵入を拒む箇所にそっと塗れば獄寺の体は大きく震えた。
「んっ…!」
本来受け入れる場所ではない器官にクリームの力を借りて指をゆっくりと入れていく。
自分の指が、彼の体内に入っていく。
その光景は只でさえ熱くなっていた下腹部を更に熱くさせる程凄まじいものだった。
思わずごくりと喉が鳴るが、目の前の彼はそんな自分に反して苦痛に顔を歪ませていた。
当たり前だ、異物を体内に、しかも排泄器官に入れられて気持ちの良いわけがない。
目をきつく瞑り、歯を食いしばって耐える。
汗ばんでいた肌からは更に汗が噴き出し、第一関節まで入れた指はこれ以上の侵入は許さないとばかりに締め付けられた。
それでも止めるわけにはいかない。
抜けるぎりぎりの所まで引き、さっきよりも奥まで指をゆっくりと進め、中を広げるように動かしてまたぎりぎりまで引く。
それを何度も何度も繰り返せば獄寺の声に再び甘さが混じり始め内部も綻び始めた。
そのタイミングを見計らい指を増やして同じ事を繰り返して。
気付けばそこは熱で融けたハンドクリームでぐちゃぐちゃになりながら僕の指を三本根元まで咥えこんでいた。
広がった縁がひくひくと収縮し、卑猥さを纏った金木犀の香りが鼻を擽る。
月光に照らされあんなにも綺麗だった彼がこんなにも淫靡な姿を僕に晒している事が酷く僕を興奮させた。
下腹部が痛みを感じる程重く、熱い。
「獄寺」
「ひぁっ…!」
白く小さな耳殻に唇を付けて名前を囁きながら入れてる指を動かす。
体を更に熱く煽る声と共におよそ排泄器官からしたとは思えない、ぐちゅりという粘着質な音が下から聞こえた。
「…もう入れるよ」
もう限界なのか小さく何度も獄寺が頷く。
こっちももう限界だ。
性行為なんて経験無い。それどころか人を欲した事も、欲情で体が熱くなった事だって無い。
だから吐き出したい、突き入れたいと昂る熱を抑え込む事がこんなにもきつい事だというのも初めて知った。
ぐぷん、と音を立てて指を引き抜けば獄寺の腰が大きく跳ねた。
汗で滑る脚を腕にかけ、腰を掴む。そして右手で自分の熱を支えながらぐちょぐちょに溶けた穴に宛がえば獄寺の濡れた唇から熱い吐息が漏れた。
「ひばり…」
熱と期待で揺れながらも不安な色を灯す瞳に体を伸ばし一つ口付けて。
そして宛がった自身を強く押し入れた。
「っく…!」
「あぐ…っ!!」
きつい。
入った瞬間、あれ程蕩けていたのが嘘かのように内部が締め付けてくる。
当然と言えば当然だ。指三本入れていたとはいえ、太さが全く違うし本来その為の器官ではない。
まだほんの少ししか入っていないというのに侵入を拒むかのように閉ざす其処に息が詰まる。
入れる側でこれだけ辛いのだ、受け入れる側は比じゃない程の苦痛だろう。
目を固く瞑り、音がするんじゃないかという位歯を食いしばる獄寺の呼吸は止まっているように見える。
さっきまでの快楽から出たものとは違う、苦痛による汗が噴き出る。
「獄寺、息吐いて…」
息を詰めれば体は強張る。そうすれば必然的に中も硬く、狭くなって入れるのが難しくなる。それはお互い辛い筈だ。
僕の言葉に獄寺がゆっくりと細く震える息を吐き出す。
すると本当に僅かだが締め付けが緩んだ。そのタイミングを逃さず腰を押し付ける。
「ん…っ…!」
「っ、息止めないで…、吸って、吐いて…」
感覚としては進んだのはほんの数ミリだ。けれどこれを繰り返すしか方法は無い。
せめて一番太い部分が入るまでは。
宥めるように、少しでも辛さが紛れるように、額や米神に口付ける。
獄寺の震える吐息が胸を締め付けた。
「…っ…!」
焦っては駄目だ。
少しずつ、少しずつ。
銀糸に指を絡めながら汗ばむ頭を撫で、獄寺の呼吸に合わせて進めて。
どれだけの時間がかかったかはわからないが太い箇所が中に入った瞬間、ようやく息をつけた。
流れる額の汗を拭い、名を呼んで目を合わせる。
きつく閉じられていた瞼の奥から覗いた瞳は痛みからかいつもの力強さは無いが、それでも僕を見つめ、捕らえる。
「ひ、ばり」
僕の二の腕に食い込ませていた指を外し、震える手で頬に触れてくる。
たったそれだけで彼が何を望んでいるのかわかってしまった。
「…大丈夫なの」
獄寺は求めている。僕を。もっと深くにと。
それは僕も同じだ。奥まで入れて獄寺を感じたいし、全てが欲しい。
けれどそれはもっと彼が落ち着いてからだと思っていた。
体の強張りが無くなって呼吸が落ち着いて、体をこじ開けられる痛みが引いてから奥まで貰おうと。
ただ欲を吐き出す為ならば一気に奥まで貫いてしまえばいい。でもそんな事はしたくなかった。
そんなものの為に今僕達は体を繋いでいるわけじゃない。
この生活が終わる前に彼が欲しいと。今だけは全てが欲しいと、その思いだけで抱いている。それは彼も同じはずだ。
傍目には只の性行為だろうが、僕にとってこの行為は神聖なものにさえ感じていた。
そこに過剰な痛みは無くて良い。
獄寺の中にこの行為の記憶が痛みとして残ってほしくなかった。傷として残ってほしくなかった。
だからこそ欲を吐き出したいと震え張り詰める自身を抑えつけ必死に耐えてきたというのに、彼はそれを早く寄越せと言う。
「ひばり」
見つめる翠の瞳。その奥にはっきりと見える想いの強さに拒否なんて出来るはずが無かった。
頬に触れる彼の手を柔く掴む。そして指を絡めシーツに縫い付けた。
「全て貰うから」
彼が一つ瞬く。
それを待って僕は一気に腰を叩きつけた。
「───っっ!!!」
「く…っ!」
激しい締め付け。
酷く熱い内壁が先端から根元まで全て締め上げ、圧迫する。
一気に噴き出た汗が音の無い悲鳴を上げる獄寺の顔に落ちた。
「ごく、でら…!」
「っ、はぁ…はっ、ぁ…!」
無理矢理整えようと繰り返す荒い呼吸、指が食い込む繋いだ手、衝撃で零れ落ちた涙。
それでも逸らす事無く僕を映す瞳に、僕は胸の奥から込み上げる想いのまま深く口付けた。
「んっ、んん、んぁっ!」
舌を絡めて悲鳴とも嬌声ともつかない声ごと貪って、体を穿つ。
締め付ける熱い内壁を掻き分け擦って奥を突いて。
次第に甘くなっていく声と柔らかくうねるような動きに変わる内部に簡単に煽られ動きは速くなる。
部屋に満ちるベッドの軋む音と粘着質な水音、肌のぶつかる音、そしてお互いの吐息と声。
その中、体全部で熱を感じて、自分を映す瞳を見つめて。
月明りの中、熱が吐き出されるまで僕達はただひたすらに口付け合い、お互いを求めあった。
夜が明け、夏休みが終わった。
寝ている彼を置いて家を出て、朝早くに学校へ向かい、応接室で日が暮れるまで仕事を熟す。
暴風雨の過ぎ去った夜から始まった非日常はいともあっさりと終わり、日常が戻ったのだ。
まるで彼を拾ったあの夜が訪れていない、夏休み前に戻ったかのように。
もうあの甘い匂いはする事はないし、体の何処にも熱の余韻も無い。
あれ程求めて欲して、確かに昨夜まで腕の中にあったというのに。
日常とはこんなにも味気ないものだっただろうか。
こんなにも虚しさを感じるものだっただろうか。
彼がいないだけで、こんなにも。
学校では彼に会う事は無かった。
僕は応接室から出なかったし、彼は応接室に来る事は無かった。
昨日までの事が無かったかのように。
感情も無く仕事を終わらせ、帰路につく。
本来ならば向かう先は実家だ。夏休みが終わった今、もうあのマンションは役割を終えている。
けれども僕はあのマンションに向かっていた。
彼と七日間過ごしたあのマンションに。
辿り着いた部屋のドアを鍵を使って開ける。
開かれた先。広がるその光景に僕は何の感情も無かった。
靴の無い玄関。明かりの無い部屋。何の匂いもしない空間。
ピアノの無い、殺風景な部屋。
当然だ。彼の部屋は昨日の時点で直っていた。
彼が大切なピアノと共に元の家に戻るであろう事はわかりきっていた。
もうこの部屋にはピアノの黒も、鮮やか過ぎる銀色も無い。戻ってくる事もない。
郵便受けにはきっと彼に渡した鍵が入れられている事だろう。
けれどそんな事はもうどうでもいい。
色を失ったモノクロの部屋に上がる事無く、僕は背を向ける。
そして一度も振り返らず扉を閉めた。
もう、この部屋に戻る事は無い。