暴風雨が去った後の夜。じっとりとした空気の中公園で偶然会った彼との奇妙な同居生活が始まってから今日で六日目。
 明後日には学校が始まり、そして同居人は元の家へと戻るだろう。
 僕はマンションでの生活から元の家へと戻る。
 非日常から日常へと戻るのだ。それを待ち望みこそすれ、こんな鬱々とした気分になるなんて誰が想像できただろうか。
 この胸に立ち込める靄のような感情は何なのか。
 苛立ちとも怒りとも悲しみとも違う、もやもやとした巣くうものを何と言うのかわからず鬱々とした、としか言いようがない。
 ともかく良い気分とは言い難い中一日煩い草食動物を咬み殺して回った。
 けれどいくら咬み殺そうが気分は晴れる事無く、気付けばすっかり夜は更けていた。
 この感情は何なのかと考え、どうにか晴らそうと悩んでいる間に時間はあっという間に過ぎていたらしい。
 この僕が訳の分からない感情に振り回され時間の感覚さえ無くしてしまうなんて、全くらしくない。
 もしかしたら気付かぬ内に疲れが溜まっていて、それが精神にも影響を及ぼしているのかもしれない。
 だとするならば今日はもう見回りを終了させて帰った方が良いだろう。
 少し早いが帰って獄寺の作った夕食を食べて、彼のピアノを聴いて眠ろう。
 そうすればきっとこの鬱々とした気持ちも消え去ってくれる筈だとマンションへと脚を向けるが、あの穏やかな時間を思い浮かべても気分は晴れるどころか何故か苦しくなっていく一方だった。











 合鍵を使って家に入る。自分を迎える部屋が暗闇ではなく明かりの灯ったものである事に慣れたのはいつからだっただろうか。
 それにどこかほっとする自分がいる事も。
 三和土に並べられた今ではすっかり見慣れてしまった自分の物ではないスニーカー。
 その横に靴を脱ぎ並べる。
 フローリングの短い廊下を歩いて彼がいるであろうリビングの扉を開ければこれもすっかりお馴染みとなった空腹を促す匂いが鼻腔を擽った。

「えっ、ヒバリ!?帰ってくんの早くね!?」

 いつもなら玄関のドアを開けた時点で帰宅に気付くのに何かに気を取られていたのか僕がリビングにやってきて初めて気づいたらしい。
 キッチンからひょっこりと覗かせた顔は驚きと共に焦りの色が見えた。

「何か僕が早く帰ってくるといけない事があった?」
「いや、無い、無いんだけども有るっつーか…ともかく夕飯はもうちょっと待ってくれ!」
「別に構わないよ」

 僕がそう言うなり獄寺はすぐさまキッチンに引っ込んでいった。
 いつもはもう少し遅い時間に食べているのだからそんな帰ってきた時点で夕食が出来ていない事に対して不満など一切無い。
 だから予想よりも僕が早く帰ってきたからといってそんな焦らずいつも通り作れば良いのに、と不思議に思ったが漂う匂いにすぐ理由がわかり笑う。
 何を作っているかまではわからないが肉の焼ける匂いに微かに混ざる焦げ臭さ。
 簡単な家庭料理だと言っていたがいつも見事なまでのイタリアンを出してくる彼にしては珍しいと何だか面白さと共に微笑ましさを感じる。
 後どれくらいかかるかは知らないが急ぐものでもない。
 それに一体彼がどんな料理を出してくるのか楽しみに待つのも面白そうだ。
 それまでまた彼の私物である本でも読んで待っていようかと考えていると再び彼がキッチンから顔を覗かせてきた。

「ヒバリ!」

 さっきとは違う、眩しいぐらいの笑顔。
 その笑顔に見惚れるなという方が無理だ。

「おかえり!」

「…ただい、ま」

 言えた事に満足したのか、それとも僕が返したことに満足したのか。よしっ、と言い彼はまたキッチンへと戻る。
 それに対して僕はその場から動けなかった。
 ただ笑顔を向けられただけだ。
 ただおかえりと言われただけだ。
 それなのに何かが一気に胸の中から溢れ出して体中を駆け巡り、体を静止させる。
 指先までびりびりと痺れるような感覚。
 呼吸さえも止め、思考を鈍らせるそれが何なのか、僕にはわからない。
 掴めそうで掴めないそれは只々苦しくて、けれど不快ではないのが不思議だった。











「…今日は何も言わず食え」

 もっと時間がかかると思っていた料理は予想よりも早くローテーブルに並べられた。
 ベビーリーフにトマトがのせられたサラダに、溶き玉子的な物が浮かんでいるスープ。
 そして茶碗に盛られたご飯の隣には赤いソースのかけられた小判型の肉の塊。これは誰が見てもわかる、先日僕がリクエストした料理だ。

「…ハンバーグ、作ってくれたんだ」
「…お前には世話になったからさ、借りは返さねえと…でも味は期待はすんなよ…」

 今の生活が終わるという事に何か思いを巡らせていたのは自分だけではなかったらしい。
 彼はこう言っているが借りを返すというよりもお礼のつもりなのだろう。この数日間で彼が素直でない性格なのはわかっている。
 そして期待すんなと言った意味も。
 あの数刻前の彼の慌てようと漂っていた焦げ臭さを考えればすぐにわかる。
 テーブルに置かれた箸を手にハンバーグの上にかかっているトマトソースをそっと避ければ案の定下からはハンバーグにしては真っ黒な焼き色が顔を覗かせた。

「焦げてる」
「あっ、てめ!ソース避けんなよ!」

 なるほど、ハンバーグを覆い隠すようにたっぷりと上からソースがかけられているのは焦げを隠す為か。
 どうせ食べればバレる事なのに随分と子供っぽい事をすると面白く思いつつ、一口大にカットしたハンバーグを口に入れる。
 それは想像していた通りパサパサとしていて、トマトソースでは誤魔化し切れていない苦みが舌に残った。

「硬い」
「…何も言わず食えっつっただろ…初めて作ったんだから大目に見ろよ」

 イタリアにはハンバーグは無いのだろうか。
 あれだけ手の込んだイタリアンを作れるのだからハンバーグも作れそうなものの、彼にとってはそうではないらしい。
 ああ、だからソースがトマトソースなのか。
 せめてソースだけは自分の得意なものでやろうと考えたのだろう。
 どこかばつが悪そうに口元を尖らせてそっぽを向く獄寺の様子に思わず笑みがこぼれた。

「でも、悪くない」
「…え」
「焦げてるし硬いけど、悪くないよ」

 僕が一度だけ言った料理のリクエストを覚えてて、一度も作った事の無いものだったのにこうして作ってくれた。
 その事実の前に焦げているとかそんな事は本当に些細な事だ。

「昨日の君の気持ちがわかった」

 めちゃくちゃ嬉しいと、僕の作った料理を食べて照れ臭そうに笑った君の気持ちが。

「へ?」
「僕も初めてだ」

 笑顔でおかえりと迎えてくれて、僕の為に苦手なイタリアン以外の料理を作って。

 今、理解した。
 今日一日僕を悩ませていたあのもやもやとした掴みどころのない感情が何なのか。

 あれは寂寥感だ。

 この彼との生活が終わってしまう事への、この居心地の良い空間が無くなってしまう事への寂寥感だ。
 認めよう、孤独を愛してきたこの僕が。群れを嫌悪してきたこの僕が。
 以前の独りの生活よりも君と一緒にいるこの生活の方が心地良いと感じている事を。
 君との生活を失いたくないと考えてしまっている事を。
 そしてこの胸に今込み上げている感情を。

 よく考えればわかる事だった。

 何故、困っていたからと言って彼を自分の領域である家にあげたのか。
 何故、態々彼の為に手の込んだ料理を作ったりなんかしたのか。
 何故、特に仲良くもなかった彼の事をもっと知りたいと思ったのか。
 何故、彼の瞳が自分を映さない事に怒りを覚えたのか。
 何故、手を握って隣で寝ようと思ったのか。
 何故、彼のおかえりという言葉一つで動けなくなってしまったのか。

 それは全て同じ理由だ。

 この胸に込み上げる感情。
 それは。


「獄寺。ありがとう」



 君への愛しさだ。















 温かい静寂がベッドの上に落ちる。
 音に温度などあるわけがない。ましてやその音さえも無い空間に感じる温度なんて無い筈だ。
 けれど僕は確かにこの二人きりの静寂に温かさを感じていた。
 彼が二度目の悪夢を見てから共に入るようになった狭いベッドの上で彼は枕元に置いたハンドクリームを塗り始める。
 無類の読書好きな事。
 ピアノを美しく奏でる事。
 イタリア料理が上手い事。
 彼が家に来てから知った事は多いが、この寝る前にはハンドクリームを塗るという事を知ったのは昨夜からだ。
 今までハンドクリームという物を使った事の無い僕にはその光景さえも新鮮に映り、黙って見つめる。
 獄寺の手は綺麗だ。それはピアノを弾く彼を初めて見た時にそう思った。
 ダイナマイトという武器を使う扱う為、火傷の痕は所々に見えたがそれでも彼の手は綺麗だと思った。クリームなんて必要ないだろうと思えるくらいに。
 ハンドクリームという物は手が荒れている人間が使う物だと思っていた僕はそんな綺麗な手の持ち主である獄寺がクリームを塗る事がとても不思議に思えて、昨夜何故塗るのかと尋ねた。
 それに対して獄寺はピアノを弾くから、と言っていた。
 ピアノを弾くから手は綺麗にしていたい、と。
 それを聞いてやっぱり彼にとってピアノは大切なのだと、改めて思った。

「…それ、何の匂い?」

 昨日はハンドクリームを塗る行為自体が不思議で気付かなかったが、すぐ隣で見つめていればそのクリームから何か甘い香りがする事に気付く。
 甘いが、甘ったるいまではいかない匂い。どこかで嗅いだ事がある匂いのような気もするがわからない。

「これ?確か金木犀だったかな」

 ああ成程、道理で嗅いだ事がある筈だ。家の庭にも植えられていて秋になると香ってたな、と思い出す。
 オレンジの香りに少し似た、甘くてどこか優しい香り。
 それは穏やかな雰囲気の今の彼にはとても合ってるように思えた。

「何、気になる?」

 獄寺が首を傾げ、僕を見る。
 昨夜に続き今日もそのクリームについて尋ねたからか、僕が興味を持っていると思ったのだろう。
 確かに興味はあるのでその推察は間違ってはいないが、僕が興味を持っているのはクリームにではなくてクリームを塗るという行為をしている彼にだ。
 でもそれを言う必要も無いだろうと小さく頷いて見せる。

「そうだね」
「じゃあお前も塗るか?」

 そう言うや否や返事を待たずに僕の手にハンドクリームのチューブを絞った。
 手に載せられた白いクリーム。さっきも言ったがハンドクリーム自体に興味があるわけじゃないので勿論塗りたいわけじゃない。
 けれど彼が厚意から分けてくれた物だ、それにもう手に載せられてしまっている。
 彼と違いピアノを奏でるわけでも無い自分の手にハンドクリームの必要性を感じないが塗り広げるべく手を擦り合わせた。
 手の平で潰れ、広がるクリームの感触。それは何だか奇妙な感触だった。

「あー、お前それじゃ駄目だって。もっと丁寧に塗れよ」
「ただ手に塗れば良いんじゃないの」
「それだとしっかり保湿されねえんだよ」

 ちょっと貸せ、と右手を掴まれる。
 適当に塗り広げていたハンドクリームはまだ手の平の皺に白く残っていて、それを獄寺は温めるように手を重ねた。
 獄寺の白い手が僕の手を包み込む。

「こうやってクリームを温めて、それから塗るんだよ」

 重ねていた手を柔く解いてゆっくりと擦り込むように丁寧に塗っていく。
 それを僕は黙って見つめる。
 獄寺が、僕の手にクリームを塗りこんでいく。ただそれだけの行為が僕の心音を穏やかに高鳴らせていった。

「お前、結構手荒れてるんじゃねえか」
「…気にした事無いけど、トンファー使ってるからじゃない」
「ああ、金属だもんな」

 それなら冬はもっと荒れてただろ、と獄寺の親指が手の平の硬い皮膚の上を滑る。
 労わるように、まるで慈しむようにゆっくりと何回も。

 こうして直に触れていると彼と僕の手の違いがよくわかる。
 僕の手は長い事トンファーを使ってきた為、たこができ手の平の皮が厚い。
 彼と比べればかさかさとしていて全体的にごつごつしているように思う。
 それに対して彼の手はクォーターだからというのもあるだろうがともかく白くて。近接攻撃を主としない手らしく柔らかい。
 僕の手よりも一回り小さくて厚みも薄く感じる。指も細く長くて、ピアニストらしい手だ。
 こんなにも僕と彼は違う。手だけで、こんなにも。

 きっと普通の生活を送っていれば決して交わる事が無かっただろうと思える程に。

 けれど今、彼の手は僕に触れている。
 一つのベッドに座り、言葉を交わしている。
 この事実を認識してしまえば意識しないでいるなんて到底無理だ。
 いつもより速く鼓動を打つ心臓から流れる血液が巡って指先までも熱くさせる。
 その指先を獄寺が包み込みしっとりとした手で撫でていった。

「…よし、反対の手も貸せ」

 指先まで丁寧に塗られた熱い手が離され、代わりに左手を掴まれまた同じようにゆっくりと撫でられていく。
 そこからは先程感じたよりも濃く甘い香りがした。
 甘い、彼の匂いが。

「…明日、見回りを休む」

 脈絡も無く突然告げた僕の言葉に獄寺の手がぴくりと震え、止まる。
 けれど視線は触れ合う手に向けられたままで、僕からは俯く彼の頭しか見えない。
 なのでどんな表情を今しているかわからないが、彼が何かを感じ取っている事はその様子からわかった。

「…だから、獄寺も明日一日、家にいて」

 僕がどういうつもりでこの言葉を口にしたのか、僕が何を思っているのか、気付いてる筈だ。
 夏休み最後の日。彼がこの家にいる最後の日。
 その日をずっと一緒に過ごそうと言う、その意味を。

 彼が恐る恐る顔を上げる。
 いつもより眉尻の下がった、どこか泣きそうな表情で僕を見るその瞳は熱を帯びて揺らいでいるのが暗闇でもわかった。
 その表情だけで理解する。
 彼は同じだと。
 僕と同じ事を思っていると。

 見つめ合ったまま獄寺が小さく頷く。
 それを見て僕は彼の小さく白い手に指を絡めて握る。
 そうすれば彼もまた柔く僕の手を握り返した。

 いつから、とか、どうして、とか、そんな野暮なものはいらない。
 ただ君も同じように思い、同じように求めた。

 ただそれだけで。

 ああ、こんなにも心臓が焼けて無くなってしまうのではないかと思う程、愛おしく感じるなんて。

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