近くのスーパーの買い物袋を片手に帰宅する。
 夕日で紅く染まる部屋にはいつもならいる居候の姿は無い。
 それはわかっていた事だがあまりに静かな部屋に、誤魔化すようにわざと大きな音を立てて荷物をキッチンに置いた。

 今朝、手を繋いで寝た事が恥ずかしかったのか、起きるなり目を逸らして気恥ずかしそうな顔をした彼はいつも通り僕の作った朝食を食べた。
 その顔に隈が無い事に満足していた僕に今日はバイトで昼から出勤だと告げてきたのだ。
 彼のシフトが固定制なのか、その時によって曜日や時間が変動するのかは知らないがこの家に来てから彼が出勤するのは初めての事だった。
 お前よりは早く帰って来れると思うけどと言った彼の言葉に、ならば今日は自分が夕食を作ろうと勝手に決め見回りを早々に切り上げてスーパーで食材を購入し、こうして帰ってきた。
 こんな日が暮れる前に家に帰ってきたのは夏休みに入ってから初めてではないだろうか。
 こんな大量に食材を買った事も。

 一人で食べるなら絶対に買い込む事の無い食材の量と種類。
 それは全てあの男の為だ。煙草を吸い、食に気を使わない、正に不健康というものを体で表しているような男の。
 この僕が、あの獄寺の為にここまでするなんて数日前までは全く信じられない事だ。
 たった数日で随分絆されたものだと自分の事ながら不思議に思いながら買い物袋から食材を出していく。
 魚に肉に野菜。
 栄養バランスを考えて購入したそれらを見ながらこれから作ろうとしている料理の手順を思い浮かべつつ手を洗う。
 朝食や昼食は時間が無いのでいつも簡単な物しか作っていないが今回は時間がたっぷりとある。
 目指すは一汁三菜だ。
 まずはご飯の準備でもするかと、二分の一サイズで売られていた南瓜のラップを剥がし、まな板の上に置いて包丁を突き立てた。









 玄関の扉が開く音が聞こえてきたのは炊飯器が炊き上がりを知らせるアラームを響かせたのとほぼ同時だった。
 良いタイミングだ、と棚から皿を取り出し出来たばかりの煮魚を皿に盛り付ける。
 それを手にテーブルに運ぼうとキッチンから出ると食欲をそそる煮汁の香りを纏った湯気越しに随分と間抜けな顔をした獄寺の姿が見えた。

「え、なんで料理…」
「僕が作った」

 帰って来るなり言う言葉がそれかとも思ったが、彼としては僕がもっと遅い時間に帰ってきて夕食を作るのは自分だと思っていたのだろう。
 早く帰ろうと思った事も、今日の夕食は僕が作ろうと思った事も全部自分の中で思った事で彼には一言も告げてなかったので当然と言えば当然なのだが。

「もう出来てるから。早く手を洗っておいで」
「お、おう」

 料理は出来たてを食べるのが一番だ。どんなに美味しい料理も出来たてには敵わないし、それが素人が作った料理ならば尚更。
 冷めてしまう前に食べようと促せば獄寺は戸惑いがちながらも素直に洗面所へと向かおうとする。それをふと、何の気なしに僕は呼び止めた。

「獄寺」
「…?」
「おかえり」

 なんて事の無い、普通の言葉だ。
 けれど洗面所へと入りかけていた彼はその言葉に動きを止め、そして次の瞬間には目を見開き見事なまでに顔を真っ赤にさせた。
 室内灯を反射してきらきらと輝く見開かれた大きな碧眼はあまりに綺麗で目が捕らわれてしまう。

「っ、ただいまっ」

 赤い顔のまま勢いよくそう言うと逃げるように洗面所へと消える。
 何故あんなにも顔を赤くさせていたのかはわからないがあの色鮮やかな存在が見えなくなってしまった事を少し残念に思いつつ、リビングのテーブルへと料理を運ぶのを再開する。
 味気ない只の真っ白な器に盛られた料理を食事をする為に作られたわけではないローテーブルに並べていく。
 それがあまりに不釣り合いで違和感を感じてしまうがこれしか無いのだから仕方ない。
 この家を持った当初、自分一人しか使わない上に寝る用途以外に使うつもりはなかったのでこんなしっかりとした食事を摂る事を想定してなかったのだから。
 その時は用意された食器の数々を見てこんなにいらないだろうと思っていたがまさかこうして役に立つ日が来るとは。
 当時家財道具諸々を手配した人間を心の中で少しばかり認めつつ、最後に箸を二膳置いた。
 そこに手を洗い終えた獄寺がやってきたがテーブルの上に載せられた物を見るなりぴたりと止まる。

「…これ、全部お前が作ったのか…?」
「そうだけど」
「…お前、まじすげえな…」
「そんな手の込んだものは作っていないよ」

 テーブルに載せられた料理はスズキの煮付けに野菜多めの豚汁、ほうれん草のお浸しにひじきの煮物と南瓜ご飯。
 普段こんなに一気に何品も作る事は無いので時間はかかってしまったが一汁三菜を作る事は出来たのでひとまず目標は達成だ。
 未だ驚いた様子の彼に座るよう言い、箸を握らせる。
 そして僕につられるようにして手を合わせたが、いつもと違い品数が多いからなのか何から食べようかと思案しているように箸を彷徨わす。
 その姿は何だか幼く感じられて少し面白かった。

「何か食べれない物でも有ったかい?」
「いや、ねえけど…なんか凄過ぎて戸惑うっつーか…」
「一般的な家庭料理だと思うけど」

 別に高級な食材を使ったわけでも懐石料理のようなものを作ったわけでも無い。
 だから戸惑う理由がわからないと言えば「そうなんだけどよ」と言いつつ豚汁に手を付けた。
 湯気を散らすように数回息を吹きかけ、まだまだ熱い液体を警戒して恐る恐る口を付ける。
 ずず、と音を立てて飲み込めば、彼の目が見る見るうちに大きくなっていくのが見えた。

「うっま…」
「それは良かった」

 彼の為に作った料理だ。彼に栄養を摂らせるという目的の為作った物ではあるが不味いよりも美味いと言われる方が良いに決まっている。
 彼の反応に満足しつつ、自分も豚汁を啜った。
 うん、悪くない。

「無理はしなくて良いけど出来るだけ食べるようにね」

 この数日間で彼について色々な事を知ったけれどその中の一つに少食というのがある。
 元からそういう体質なのか、それとも普段からの不規則で不健康極まりない食生活のせいでそうなったのかはわからないが獄寺はかなりの少食だ。
 人より大食いらしい自分と比べるのもどうかとは思うが、自分の半分程しか食べない気がする。
 それを知っているから獄寺の前に置かれた料理は全て少なめに盛り付けてはいるが食べないよりは食べてもらった方が良い。
 いくら栄養を考えた料理を作っても食べなければ意味が無いのだから。
 そんな僕の真意を獄寺も理解していたようで、わかってると言いながら小鉢を片手にひじきの煮物を口へと運んでいく。
 その表情はとても柔らかく、口元も笑っているように見えた。

「…ヒバリー」
「何?」
「俺さ、こういうの初めてなの」

 何の事だと視線を向ける僕に獄寺は笑みを浮かべ、細めた目で見つめ返す。
 白に銀に翠。冷たい色しか持ち得ない彼はそれでもやはり僕の目には色鮮やかに映り、温かささえ感じられた。

「帰って来たら誰か人がいて、おかえりって言ってくれて、そんで俺の為に料理作ってくれてて。そういうの初めてなんだよ。だから、」

 くしゃりと、彼が照れ臭そうに笑う。
 屈託のない、少しの翳りも無い、僕が初めて見る笑顔を。

「だから、めちゃくちゃ嬉しい」

 その笑顔を見て、言葉を聞いて、今気付いた。理解した。
 何故彼に料理を作りたいと思ったのか。
 作らなければ、じゃない。作りたいと僕は思ったのだ。
 不健康体の彼にじゃなく、獄寺という人間に。

 そうか。僕は、この顔が見たかったのか。

 美味しいと喜ぶ顔が。
 嬉しいと笑う顔が。

「…また作ってあげるよ」

 君が今まで得られなかったものを僕が与える事が出来るというのならば。

 それも構わないと思えてしまったんだ。















 指輪が外された白く細い指が黒く光る鍵盤の蓋を持ち上げる。
 すっかり恒例となった就寝前の一時。観客一人のリサイタル。
 この時間を楽しみにしているのは僕だけでは無い筈だ。
 いつもと同じようにピアノ前に座る獄寺から数歩離れた横に立ち、音色を待つ。
 そうすれば暫く何を弾くかと思案していた獄寺が鍵盤に指を置く、というのがいつもの流れなのだが今日は違った。

「ヒバリ、こっち」

 鍵盤に手を置く事無く、椅子に座った獄寺が僕を呼ぶ。
 横長の椅子の片側に寄って僕を呼ぶ様子から、それは隣に座れという事なんだろう。
 一人で座る分には余裕のある椅子だが、二人で座るには狭いであろうそれは僕が座れば案の定彼の肩と腕に密着した。

「…何」

 一体何の為にここに座らせたのか。
 僕がここに座れば明らかにピアノは弾きづらくなるだろう。
 座って聴けというのならばソファーに座れば良いだけでここに座る意味は無い。
 そう思い問えば彼は僕を見て笑った。
 今日の彼はよく笑う。

「一緒に弾こうぜ」
「…は?」

 彼は僕がピアノを弾けない事を知らないのだろうか。
 いや、そんな事は無い筈だ。
 はっきりと弾けないと明言した記憶は無いが今までのやり取りで僕が弾けないという事はわかるはず。
 何を言っているんだと怪訝な表情を向ければ彼は気にした様子も無く、やっぱり笑った。

「お前は適当に弾いてくれればいいから。俺がそれに合わせて弾く」

 そんな事も出来るのかと驚くと同時に疑問が頭を過った。
 このピアノに僕が触れて良いのか、という不安にも似た疑問が。
 初めてこの部屋にピアノが運ばれてきた日にも思った事。
 彼が大切にしているピアノに触れてはいけないんじゃないかという感覚は今もずっと有り続けていて現に今まで一度も指先たりとも触れた事は無かった。
 何故触れてはいけないと思ったのか、あの時はわからなかったが今ならわかる。

 聖域のように思えたのだ。このピアノが、獄寺隼人の。

 その聖域に僕が触れる事は許されるのか、脚を踏み入れて良いのか、無意識に躊躇したのだ。そしてそれは今も。

「…触れて、良いの」

 あの時と違い、手は埃や血で汚れていない。
 それでも。

 そんな僕の心の内を知らない獄寺はきょとんと不思議そうな顔を見せ小首を傾げる。

「良いに決まってんだろ」

 お前と弾きたいから誘ったんだから。
 ほら、早く弾けよ。

 そう当然とばかりに言われ、そして子供のようにわくわくとした表情で促されてしまえば断る理由は無い。
 戸惑いはもう無かった。
 ピアノをまともに弾いた事なんて無い。最後にピアノに触れた記憶さえも無い程だ。
 けれど躊躇する事無く両手で鍵盤に触れ、音を出せばそれを見て獄寺が指を滑らせた。
 リズムもメロディもあった物じゃない僕の音に獄寺が旋律を乗せていく。
 そんなので曲になるわけがないと思っていたのに、二人の音は不思議と綺麗に合わさり徐々にテンポも上がっていく。
 手の大きさも指の長さも肌の色も、ピアノの経験も全く違う二人の手が一つの曲を創り出す。
 それがあまりに不思議で面白くて、楽しくて。
 高まる高揚感に気付けば僕たちは笑みを浮かべながらピアノを奏でていた。

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