扉の向こう側から聞こえた僅かな声に意識が浮上する。
それと共に気配が動くのも感じられ、ベッドから体を起こした。
枕元に置かれた電源が入ったままの携帯を開けば目を突き刺すような明るい光と共に時刻を知らせる。
丑三つ時と言われるこの時間に聞こえた声や物音。
これは隣室のソファーで眠る彼が寝返りをうった等というような物ではない。
呻き声にも近い声、そして勢いよく起き上がる音に軋むソファーのスプリング音。
これだけの音が聞こえれば見なくても何が起きているのかわかる。
初日の夜ぶり、か。
そう、深夜の隣室の出来事はこれが初めてではない。
彼をこの家に連れてきた、その日の夜にも起きていた事を僕は知っている。
その時は彼の身に起こった災難としか言いようがない日中の出来事や、初めて訪れた他人の領域という空間、そして寝るには適しているとはとてもじゃないが言えないソファーでの就寝という条件によって伴われた疲労やストレスで起きたと思っていたがどうやらそうではないようだ。
今日寝る前、彼は確かにリラックスしていた。
見回りを終え帰ってきた僕に前日作ったポモドーロを再利用したという鶏肉の煮込み料理を出して、食後には「これならお前も知ってるだろ?」と有名なクラシック曲をピアノで奏でた。
就寝前にはお互い今まで読んだ文学作品の話をしたりして、それはとても穏やかな時間だった。
初日とは違い、悪夢を見るような状況下にはなかったように思える。僕的には、だが。
深夜の静寂。
そこに微かに聞こえる彼の足音。そして遠くの扉が開けられる音。
初日の夜と同じならば、この後は。
ザー、と聞こえる水音とバシャバシャと跳ねる音。
その聞こえてきた予想通りの音に僕はベッドから足を降ろし、部屋を隔てる扉へと向かった。
「ソファーでは眠れないかい?」
「ヒバリ…」
暗闇の中、洗面所から戻ってきた獄寺の瞳がソファーに座る僕の姿を捉えた途端大きく見開かれる。
顔を洗ってきたのだろう、銀色の前髪が所々濡れて束になっているのが見えた。
「ここに来た日の夜も起きてたね」
「っ、お前、気付いて…」
そこまで言って僕が気配や物音に敏い事を思い出したのだろう、「あー…わりぃ…」とすまなそうに顔を伏せながら首の後ろを摩りつつ僕の隣に座った。
彼が座ったことによってソファーが軋み、彼の方へと僅かに沈む。
二人掛け用の決して大きいとは言えないシンプルなソファー。
そのソファーにこんな狭いところで寝れるかと嫌がった彼を有無も言わさずトンファーで殴り、寝かせたのは僕だ。
「そうだお前の所為だ」と言えば良いのに、そんな突っ掛かってくる余裕も無いのか獄寺は俯き、背を丸くさせる。
その表情は明かりの無い深夜の部屋でもわかる程に沈み、翳っている。
…僕相手に虚勢を張る事もしない、か。
いつもの彼ならば。
弱味を見せる事を嫌い、どんなに自分が不利な状況だろうが、立てないくらいぼろぼろだろうが目だけは決して逸らすことなく睨み付けてくるというのに。
そんな彼が何か良くない夢を見て飛び起きて、そんな姿を敵対視しているであろう僕に知られて。
普段の彼ならば絶対に許容できるようなものではない筈だ。
けれど今の彼は目を合わせるどころか俯いたままで、その瞳に何を映しているのかさえわからない。
「…何か温かいものでも淹れてこよう」
生憎、自分は中々寝付けないという経験も悪夢を見て飛び起きるという経験も無いのでよくわからないが、何かで温かい物を飲めばよく眠れるようになると聞いた事があるような気がする。
それが只の精神的な効果によるものなのか、それとも医学的な根拠に基づくものなのかは知らないが無いよりはマシだろう。
お茶や珈琲の類はカフェインが入っているから牛乳が一番無難か、と腰を上げかけた瞬間、獄寺の手が僕の腕を掴んだ。
頼りない力で僕を引き留める。
「いい、いらねえ」
「…そう」
上げかけた体を再びソファーに下ろす。
そんな僕を獄寺はちらりと横目で見た後、すぐにまた視線を床へと戻した。
いつもうざったいくらいに真っ直ぐと貫いてくる瞳がこちらに向けられない事が酷く気に食わなかった。
「…ソファーのせい、とかじゃねえんだ…ただ、夢見が悪くて…」
「普段から頻繁に見るの?」
「………」
無言が肯定を示す。
そう言えば彼がよく屋上で昼寝をしていた姿を思い出す。
あれは寝不足からくるものだったのかと今知る。
落ちる沈黙に居た堪れなくなったのか、居心地が悪くなったのか、獄寺が自らの腕を摩る。
その僅かな衣擦れの音さえもこの空間では大きく聞こえた。
「…昔の、夢を見るんだ」
言葉を選ぶようにゆっくりと慎重に紡がれる声音が耳に届く。
恐らく彼は今、とても重要な事を話そうとしている。
彼の心の中にある重要な、そして人に話すことを自ら憚ってきたような事を。
果たしてそれを、自分は聞いて良いのだろうか。
彼が崇拝する沢田綱吉でもなく、共にいる事の多い山本武でもなく、顔を合わせばぶつかり合いしかしてないような友人とも言えないこの僕が。
彼はそれを後悔しないだろうかと一瞬躊躇する。
けれどすぐに思い直す。
人に弱味を見せる事を良しとしない彼が、人に晒そうとしてこなかった内側を今言葉にして僕に話そうとしているのならば。
そこに理由があろうと無かろうと、彼が僕に話したいとほんの欠片でも思ったのならば彼にとってきっとそこに意味がある。僕は聞かなくてはいけない。
「小さい頃の夢…母さんの…」
獄寺の口から紡がれる彼の痛みがぽつりぽつりと部屋に落ちる。
僕はそれに黙って吐息さえも拾おうと耳を傾け続けた。
複雑な家庭環境なのだろうとは思っていた。
憶測でしかなかったが、普通と言われるようなものとはかけ離れた生き方をしてきたんだろうと思っていた。
彼から語られたそれは僕が察していた範疇を軽々と超えるものだったが。
淡々と、客観的に語られる彼の過去は、けれど時折声が震えていて感情を極力排除しようとしているのがわかった。
大切な人を失い、信じていたものが全て崩れ去り。
八歳で家を飛び出し、日本とは違い決して治安が良いとは言い難いイタリアで一人生きるなど想像しようとしても出来るものではない。
その時幼い獄寺は何を考え、思い、どれだけ辛い思いをしたのか。
その心情を彼は語らない。ただあった事実だけを語り、眉根を寄せてぎこちなく笑った。
「まあ、母さんの件については誤解だったんだけどな」
その顔に苛立ちを覚える。
僕の前でそんな辛そうに笑うな。
僕の前でそんな作った笑顔なんてするな。
「…なんか、悪いな。こんなつまんねえ話しちまって…」
「つまらなくない」
「え…?」
苛立ち混じりに放った僕の言葉に獄寺がこちらを向く。
ようやく、彼の瞳が僕を映した。
「つまらなくなんかない」
君が声を震わせながら曝け出した内側を、つまらないなんて思う訳が無い。
衝動のまま獄寺の手を掴み、立ち上がる。
彼の手は酷く冷たくて、思わず強く握った。
その冷たさはきっと水に触れたからというだけではない。
「ちょ、ヒバリっ?」
突然の僕の行動に驚き戸惑う彼に何も言わないまま引っ張り、寝室まで連れていく。
さっきまで僕が寝ていた寝室。
リビングの広さに比べてかなり狭く感じられるそこにはシングルベッドが一つしか無い。
僕が起きた時の状況のまま布団の捲れたそのベッドに半ば強引に彼を転がす。
そしてその隣に僕も横になればいよいよ獄寺の瞳は驚愕に見開かれた。
「え、ヒバリ、なに、」
「一緒に寝ればいい」
ベッドに投げ飛ばした時に離した彼の手を再び握る。
「人肌は人を安心させるそうだよ」
これもどこで聞いた話だっただろうか。
手を握り寝れば悪夢を見ないと、どこで聞いたかもわからない信憑性も無い、記憶の片隅にあった話を思い出して獄寺をここまで連れてきた。
これこそまさに医学的根拠のない精神的なものだろう。
不確定で確証の無い本来ならば信じるに値しないもの。
そもそも人肌なんて僕にとって不快でしかない。
それで安心するなんて到底理解できない。
けれどこの体温一つで彼が安心して眠れるのであれば、僕を映すことなく暗闇ばかりを見つめる瞳がこちらに再び向けられるのならば、構わないと思ってしまったのだ。
あの碧眼が僕を見ないのは酷く腹立たしい。
そして認めるのも癪だが、彼の体温は僕にとって不思議と不快ではなかった。
「お前…大丈夫なのかよ…」
信じられない、と言った風に大きな目で僕を見つめる。
暗闇で鮮やかな翠が見えないのは残念だが、僕の姿を映しているという事に心が満ち足りていく。
「何が?」
「だって、俺と一緒なんて、お前、」
彼は知っている。
僕が人と群れるのを嫌っている事、気配や物音に人より遥かに敏感な事、人を気遣い、ましてや手を握るなんてするような人間でない事を。
「嫌ならそもそもしない。それに寝不足で倒れられたりなんかしたら迷惑だからね」
「そうかよ…」
「そうだよ」
だから早く寝な。
僕の事なんて気にせずに。
「…ヒバリ」
二人で寝るには狭いシングルベッドで吐息さえもかかりそうな距離で彼の声がぽつりと落ちる。
存外、彼の声は心地良いと知る。
鼓膜を震わすその声に彼を見つめれば、彼の瞳は真っ直ぐと逸らされる事無く僕を見つめていた。
そこに戸惑いの色はもう無く、穏やかさと、そして奥の更に奥に温かさを感じる色を湛えている。
その温かさが何なのか、知っているようで掴み切れない感覚に目を凝らすがそっと伏せられてしまった。
「…やっぱベッド良いな」
よく眠れそうだわ。
穏やかな表情でそう言い、手を握り返して素直でない子供は瞼を下す。
それを見て、僕も穏やかな気持ちで目を閉じた。
「それは良かった」
狭いベッドに寝息が落ちる。
その心地良さを知りながら僕は意識を沈めていった。