今日も今日とて風紀を乱す草食動物を咬み殺して回り、マンションへと帰宅する。
 時刻は夜九時を回っているが本来ならばまだ見回りを続けている予定だった。
 だが昨日の電話の件で色々と察したらしい草壁の「後は我々がやっておきますので委員長はどうぞお帰り下さい」の言葉で帰る事になったのだ。
 正直早く帰りたいという気持ちもあったので後は任せてさっさと帰路につく。
 やはり留守にしている自分の家に他人がいるというのは何とも落ち着かない。
 いつもより足早にマンションの自分の家へと向かい、合鍵を取り出し開ける。
 そうすれば開けた扉の向こうからは今日の昼までは確かにこの家には存在しなかった音が聞こえてきた。
 奏でるというよりも一つ一つ確認するかのようなピアノの音が。

「ピアノ、届いたんだね」
「お、お疲れ」

 リビングのテラス戸前で黒く輝くグランドピアノ。
 その前に立ち、指先で鍵盤に触れていた彼の視線がこちらに向けられた。
 家に連れてきた当初はピリピリとした警戒心や緊張感を纏っていた彼は今やすっかり凪いだ様子で部屋に馴染んでいて。
 だからなのか自分の家に彼がいるという違和感は既に無く、寧ろこうして帰ってきて彼を認識すると肩の力が抜けるような感覚までしてしまった。
 慣れとは恐ろしいものだ。

「弾いてたの?」
「いや、軽いメンテナンスとか、調律してただけ」
「調律」

 ピアノを弾く人間が周りにいないのでよくわからないが、そういうのは専門の人間がやるものだと思っていたので少し驚く。
 それが顔に出ていたのだろう、僅かに笑みを浮かべながら「っつっても簡単なもんだよ」と、ゆっくりと鍵盤の蓋を閉じた。

「さすがに本格的なもんはプロにやってもらうしかねえから、また家に戻った時にやってもらう。今回は湿気でやられちまってないかの確認を兼ねて、な」
「ピアノって湿気に弱いの」
「おー、天敵だ」

 湿気。
 獄寺は家の硝子戸を木の枝が突き破って、そこから雨風が入り込んだと言っていたからその事だろう。
 パッと見た感じ目立った傷や汚れが見当たらないので、直接雨風に晒されたわけではなさそうだが、家全体の湿度は確実に高くなったであろう事は簡単に想像できる。

「湿気だけじゃなくて気温も重要だったりするんだよ。置いている環境が良くないとすぐに部品は痛むし音も悪くなる」
「へえ、結構繊細なんだね」
「楽器はどれもそんなもんじゃね?」
「今まで興味を持った事が無いからわからないな」

 成程。それでここにピアノを運びたかったわけか。
 毎日ピアノに触れないと落ち着かないというのも本当の事だろうが、今も硝子が割れたままで外気が入り込む悪環境に少しでも置いておきたくなかったのだろう。
 彼がどれだけピアノという物を大切にしているかが窺い知れる。

「さーて家主様が帰って来られた事ですし、夕食にしますか」
「…君、先に食べてなかったの」
「調律に集中してたから腹空かなかったんだよ。それに一緒に食った方が準備も一度で済むから楽だろ」

 似たような台詞を昨日も聞いたな、と思わず溜息が漏れる。
 夕食をとるには世間一般的に遅い時間だ、自分の帰宅がもっと遅ければ彼は更に遅くに食事をとる事になったという事か。
 どうやら彼は何かに集中していると空腹という生命活動において重要なシグナルさえも気付かなくなってしまうらしい。
 集中力は無いよりもあった方が良いが、有りすぎるのも問題だな、と床にしゃがみ込み何やら道具を片付けている彼を見つめる。
 床には初日に彼が持っていたボストンバッグとは違う、レザー調の手提げバッグが口を広げられており、その中に次々と散らばっていた道具をしまっていく。
 昼にでも自宅に戻って取ってきたのだろう、どれも初めて見るそれらは恐らく調律に使った道具なのだろが、素早く、けれど丁寧にしまわれていく。
 そして全て片付け終わったところで立ち上がり、背を伸ばす。

「っし、じゃあ夕飯の準備すっからお前も着替えとかしてこいよ」
「わかった」

 キッチンへと向かった彼を見やり、そして主のいなくなったピアノへと再び視線を向けた。
 突如部屋に運び込まれた巨大な黒。
 それは確かな重厚感を持って目の前に鎮座している。
 彼を初めてこの家に連れてきた時、彼はこの部屋を見てグランドピアノも余裕で置けそうな広さだと言っていたが確かにこうして置かれると窮屈さは全く感じず、寧ろこの方が部屋として良く感じるくらいだ。
 まあその時は彼自身も本当にこの部屋にグランドピアノを置くつもりなど無かったんだろうが。

 只の黒だというのに、その黒によって部屋が色鮮やかに変化したように感じて不思議だ。
 今まで感じた事も無かったし、考えた事も無かったが今までこの部屋には『色』が無かったのかもしれない。
 殺風景で味気の無い、必要最低限の物しか置かれていない部屋。
 そこに『色』が付いた。モノクロの画面がフルカラーになったかのように。
 実際にはそんなことはないのはわかっている。殺風景だった部屋に黒い物が置かれただけだ。
 けれど僕の目には確かにそう映っている。彼の大切にしているこのピアノ一つで。
 …いや、本当は気付いていなかっただけで、もっと早く。
 そう、この部屋に銀色がやって来た、その時から、もしかして。

 そんな事を考えながらピアノに触れようとした指先を、すんでの所で止めた。
 触れてみたい。
 けれど彼が大切にしているこれに僕が勝手に触れていいものかと強く感じられて、伸ばした手を引っ込めた。

 引っ込めた手の平を軽く握り、埃や血の付いた手を洗うべく洗面所へと向かう。
 途中、キッチンから恐らくトマトソースだろう、空腹を刺激する匂いが鼻腔を擽った。
 昨夜の料理は確かじゃが芋のガレット、と彼は言っていただろうか、見るのも食べるのも初めての物だったが中々美味しかった。
 食材が殆ど無かったからこれくらいしか作れなかったと言っていたが、突然家にある食材で夕食を作るよう言われてあれだけの物を作ったのだから十分すぎる程だと思う。
 今日は昨日とは違い、彼から送られてきたメール通りの食材を買って昼に届けたのできっと昨日よりも手の込んだ料理なのだろう。
 人の作る料理を楽しみだと思うなんて何年ぶりだろうか。いや、もしかしたら初めてかもしれない。
 わかりやすく軽くなる足取りは何だか自分の事ながら面白かった。












「今日はスパゲッティ・ポモドーロな」
「ポモドーロ」

 手を洗い、部屋着に着替えてテーブル前に座ったところで訊き馴染みの無い名前と共に出された料理は赤いソースのかかったスパゲッティだった。
 スパゲッティの上に特に具も無いトマトソースがかかったそれは少々予想していたものと違っていて、渡されたフォークを受け取りつつ料理を見つめる。

「どうした?」
「…いや、てっきり鶏肉料理かと思っていたから」

 彼に頼まれ昼に届けた食材には鶏肉があったので勝手にだがそう思っていた。
 そう言えば彼は、ああ、と納得したような返事をし、僕の向かいに座る。

「あれは明日の夕飯用。ソース多めに作っといたからそれと合わせて何か作ろうと思って。リメイク料理ってやつ?」
「ふうん」

 行儀良く手を合わせて頂きますという彼を見て、自分も同じように手を合わせ、フォークを握る。
 そしてトマトソースを絡めながらフォークに巻き付け、口に運ぶ。
 そうすればトマトの酸味とにんにく、バジルの風味が口の中に広がった。

「…どうよ」

 自分の料理に手を付けず、フォークを握りしめたまま不安そうな目で目の前の男がこちらを見つめてくる。
 その姿は昨夜、初めて彼が料理を出してきた時と全く同じで、笑いそうになりつつももう一口巻き付けた麺を口に入れて咀嚼し、飲み込んだ。

「美味しいよ」
「そか」

 僕の一言に安心したのだろう、ほっと息を吐き、安堵した様子でようやく手にしていたフォークをスパゲッティに差し込んだ。
 昨日の料理も素朴な味で美味しかったが、今日は今日で手の込んだ深い味がして美味しい。
 彼の様子からして料理に自信が無いのがわかるが、これだけの料理が作れるならば十分どころか上手い方だろう。

「君、料理作れるじゃない」
「だからイタリアンだけだっつっただろ。他は無理だからな」

 そんなに頑なに言うのだからイタリアン以外の料理は余程酷いのだろう。
 それはそれで見てみたい気もする。
 いくら作れないとは言っても、まさか彼の姉のように作った物が毒物になるわけでもないだろうし、今度頼んでみようか。
 でも取り敢えず今はこの彼の故郷の味をじっくりと味わう事にしよう。
 止まる事の無い手によって気付けばあっという間に残り二口程の量になってしまい、育ちの良さを感じさせる所作で食事をしている獄寺にお替りは無いのと聞けば目を大きく瞬かせて「お前、意外と大食いだよな」と言われて。
 そして「明日ソース使うっつったろ。もう今日の分はねえよ」と返されたので僕は仕方なく残りのスパゲッティをフォークに巻き付けた。










「獄寺、何か弾いてよ」
「あ?」

 風呂上がりで濡れた髪をタオルで拭いながら出てきた獄寺に僕は読みかけの本から顔を上げて声を掛けた。
 この家に元々本なんて物は無い。
 読書は好きだが寝泊まりするだけの家に態々置いておく事は無いと思っていたから。
 なのでこの本は家から持ってきたのか、それとも昨日教えた古書店で手に入れてきたものかはわからないが彼の私物だ。
 やや頁が黄ばんだそれは決して有名とは言えない、あまり知られていない作者の作品だったが中々に面白くて。
 もしかしたら彼とは嗜好が似ているのかもしれないと思いながら読んでいた。
 テーブルの端に置かれていたそれを彼に断りを入れず勝手に読んでいたのだが本の持ち主である彼はその事には特に何も言わず、というか先程の僕の言葉に瞳をやや伏せ何やら考える素振りを見せている。

「何、弾けない理由でもあるの?」

 この家は防音がしっかりしているから時間を理由に断ろうと考えているのならば言ってやろうと思ったが、そういうわけではないようだ。
 入浴も済まし、本来ならばもう布団に入っている時間なのにこうして本を勝手に読んでまで起きて彼を待っていたのはピアノを弾いて欲しかったからなのだが、どうにも彼は乗り気じゃないように見える。
 ただ単に弾きたくない気分なだけなのか、それとも何か他に理由があるのか。
 完全に彼にピアノを弾いてもらう気でいた僕は寝る気分になんてなれず、持っていた本をテーブルの上に戻して彼の返事を待った。
 眉を僅かに寄せ、暫く思案する様子を見せる。
 暫くすると「あー、」と髪を掻き乱して湿ったタオルをソファーの上に放り投げた。

「まあ、お前には世話になりまくってるしな…」
「…そんなに弾くの嫌なの」

 そんな気持ちで弾いてなんて欲しくなくて、思わずむっとした声が出る。

「そういう訳じゃねえよ。ただ、その…あんまり見られたくねえっつーか…」
「…?」
「…こんな奴がピアノなんてって、弾いてると馬鹿にしてきたりする奴、いるだろ」
「よくわからないな。意外とは思うけど、馬鹿にする理由が無い」

 確かに獄寺がピアノを弾くと知った時は驚いたのは事実だ。
 普段の彼の姿とは全く結びつかなかったから。
 けれどだからといってそれで馬鹿にするというのは全く理解できなかった。

「僕はただピアノを弾く君が見たかっただけなんだけど」

 そう、それ以外に他意は無い。
 彼がどんな風にピアノに触れ、どんな風に音を奏でるのか。
 それが見たいだけだ。

「…そーかよ…」

 風呂上がりだからだろうか、顔をやや赤く染めながら先程よりも乱雑に頭を掻いたかと思えばピアノの椅子まで大股で向かい、どかりと座った。
 そしてゆっくりと鍵盤の蓋を開けたのを見て僕はソファーから立ち上がり、その傍らに立った。

「…何かリクエストあるか?」
「何も。何でも良いよ」
「何でもって…」
「さっき言ったでしょ。僕はピアノを弾く君が見たかっただけだから曲は何でも良い」

 そもそもそこまで音楽に詳しくないからよくわからないし、リクエストと言われても何も浮かばない。
 恐らく世間一般的に有名と言われる曲くらいしかわからないだろう。
 そう思い言った言葉に何故か彼は僕を見て顔を一層赤く染め、目を大きくさせた。

「…?何」
「いや、お前…あー、何でもねえ…」

 何でもないようには見えない顔だったがピアノに向き直った彼に声を掛けて弾くのを遮りたくなくて、口を閉ざし見つめる。
 弾く曲を考えているのか思案顔をしたが、すぐに目を閉じた。
 そして次に瞼が持ち上げられた時、そこから見えた碧眼は見た事の無い色を湛えて鍵盤を見つめていて。
 その澄んだ真剣な瞳に思わずぞくりとする。

 普段つけている指輪が全て外された白く細い指が鍵盤に添えられる。

 そして音が奏でられた。彼の音が。

「───、」

 少しの淀みも迷いも無く指が鍵盤の上を滑り、音色が紡がれる。

 彼の指はこんなに長く、綺麗だったのか。
 ピアノの音はこんなに綺麗で胸に響くものだったのか。

 彼はこんなに綺麗な男だったのか。



 次に彼の指が鍵盤から離れるまで時間にして十分も無かったと思う。
 けれどそれはあまりにも満ちた時間だった。

「…こんなんで良いかよ」
「…うん」

 この気持ちを表す言葉なんて何も思い浮かばない。持ち合わせていない。
 ただこの胸に満ちる多幸感の余韻に浸る事しか出来ない。
 ピアノから離された彼の視線が僕へ向けられて、その翡翠に何か言わなくてはと、今まで経験した事の無いこの感情を誤魔化すように僕は口を開いた。

「…今の、何て曲なの」
「ひばり」
「?」
「だから、ひばり。ひばりって曲」

 同じ名前なのに全然お前らしくないだろ、と無邪気に笑う彼に僕も笑った。
 確かにあまりに綺麗過ぎる曲だった。もっとも彼が弾いたからそう聴こえたのかもしれないが。

「…獄寺、これから毎日ピアノ弾いてよ」
「まあ、別に良いけど…」




 贅沢だな。

 そう思った。

 最初はどうなる事かと思った同居生活だったが、こうして美しいピアノが聴けて、美味しい料理が食べれて、穏やかな時間が流れて。
 これが贅沢でないと言うならば何だというのだろう。

 明日の夜を待ち遠しく思っている自分を確かに感じながら、穏やかな気持ちの中笑う。



 何だか今日は良い夢が見れそうだと、そう思った。





「ねえ、今度ハンバーグ作って」
「…ポルペットーネで良いか?」
「…何それ」

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