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なによりも尊いカラメル


魔が差した、としか喩えようもない一夜を過ごした。

瞼が3回ほど上下し、視界が開けていくのを確認すると同時に、砂糖の焼ける匂いがした。
体を起き上げる前に、まず自分が服を一切着ていないことに焦り、次に隣で寝ていたはずのイリアがいないことに驚き、砂糖の焼ける匂いがずっと続いており身の危険を感じたところでようやく目が覚めた。

毛布で体を隠し素足のままキッチンへ向かうと、昨日と同じ格好のイリアの後ろ姿が見えた。
俺には気づいていないらしい。腕が一定のリズムで動いている。昨日と同じように。

彼女が何をしているか分かり、ぺたぺたと足音を鳴らしながら背後に忍び寄った。
振り向く前に腕を伸ばし、イリアの腰に手をまわした。

「おはよう。なにしてんの」
「! おはよう…。リンゴ、煮詰めてるの」

イリアの右肩に顎を置き、鍋の中を覗き込むと、彼女の言葉通りカラメル色に染まったリンゴがあった。
香りの発生源と探していた人物が見つかり、俺はまた少し彼女に体重を預けた。

「魔法でやったほうが早いんじゃない?」
「それじゃつまらないでしょ。楽をするより、過程を楽しみたいの」
「俺と一緒に起きることより重要? 帰ったかと思ったし、火事かと思った」

あはは、とイリアは笑ったが、手は忙しなく動いている。リンゴの焼ける匂いと音が心地よい。抱きしめている肌から伝わる温かさと柔らかさの相乗効果で、五感が一斉に活動を再開したのが分かる。

昨夜の情景を思い返しながら、イリアの手に自分の手を重ねた。

「体調、大丈夫?」
「…うん。レギュラスは?」
「俺は全然…平気」
「……」

謝るなら今しかないと思ったが、謝ったら全部終わる気がしてとてもじゃないけど言えなかった。
合意の上での行為であり、お互い気持ちも通じ合っているように感じたが、いかんせんはっきりと口に出していない為、居心地の悪さが付きまとっている。
段階を踏みたかったが踏み外した。そう思うが故の「魔が差した」である。
先に体で関係を持ったらその後も体だけの関係になる、とあれだけ肝に銘じておいてのこの有様。笑うに笑えない。

「あのっ、わたしは本当に、大丈夫だから」

鬱屈する俺を気遣ったのか、重苦しい空気を無くしたかったのか、イリアはにこりと微笑んだ。
今の俺はその言葉を真に受けて良いのかすら分からない。
苦し紛れのその笑顔に追い打ちをかけることを知りつつも、俺は「本当に?」と彼女に問いかけた。
イリアの表情が一瞬強張った、ように見えた。
目が合ったが、すぐに彼女の視線は手元の鍋へと移った。

「ちょっと、はしゃいじゃったね」
「…はしゃぐの限度を超えてたと思うけど」

まるで稚拙な行為だったと回想したげな物言いに、思わず言い返してしまった。

「…今更だけど、本当は嫌だった?」
「嫌…とかじゃない、嫌とかじゃなかったよ。……ただ…」
「ただ?」
「もっとちゃんとした形で結ばれたかったなって」
「……ごもっとも」

弁明の余地もない。反論の根拠もない。
頭の中で言葉を探しながら、腕に少し力を入れ、抱き締めた。

「…な、なにか言ってよ」
「……いま一生懸命考えてる、言葉を」
「っていうかレギュラス、服着てる?」
「毛布被ってる」
「着替えてきなよ」
「着替えてる間に、イリアが帰っちゃうかもしれないだろ」
「帰らないよ。タルトタタン、まだ完成してないもの」

そうだけど、そうじゃなくてさ。
言葉にするのも野暮ったくて、俺はまた腕に力を込めた。
イリアはわざとらしく苦しげな声を出し、離れようとしない俺を見て、あははと笑った。俺は黙って、彼女の耳のあたりにおでこを擦り付けた。
昨日の出来事が嘘じゃない証拠に、彼女から俺がいつも使っている石鹸の香りがする。一緒にシャワーを浴びて、洗いあって、触った時の。

美味しいリンゴも珍しい茶葉も、買ったばかりのティーポッドも、全部後でいいから、今は昨日の余韻に浸ろうよ。

口には出さず頭で念じた。
しかしテレパシーの甲斐はなく、イリアは手を止めない。
振りほどこうと思えば振りほどけるだろうに、それをしないってことは良いように解釈して良いのだろうか。

「…あとどれくらいかかる?」
「1時間半くらい」
「やっぱり魔法使いませんか、魔女さん」
「つかいませーん。お腹すいたの?」
「お腹すいたっていうか…お腹もすいてるけど…貴女を取られているようで嫌だ」
「じゃあレギュラス、ホイップクリームとアイス作って。人力で」
「ええ…。アイスって作れるの?」

困惑する俺に背中を預けながら、イリアは簡単だよ、と笑った。
初夜もさることながら、昨日の今日でタルトタタン作るってどうなんだろう。

恐らく俺は、今後、一生、この砂糖とリンゴの焦げた匂いを覚えていて、その都度、イリアとのセックスを思い出すんだろうなと思った。

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