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お前のせいでアッサムが嫌い


別れが辛い、と言ったら嘘になる。
もとよりこうなることを承知の上だったので、心の準備が出来ていた。
ただ、心の準備を整えておかなければならないほど、一人の人間にのめり込んだのは、なんというか、俺の完全な失敗だった。

「せっかく7年間勉強したのに、向こうに戻るなんて正気じゃない」
「そうね。でもその言葉、そっくりそのまま返すよ」
「ぬかせ」

コーヒー、紅茶、ミルク、砂糖。見慣れたテーブル、ソファー、陶器。
これら全て、イリアはここに置いていくらしい。曰く、俺との思い出を向こうに持って帰りたくないとのことだった。しかしこれを手放すのも惜しい。ならばもういっそ、学校に、俺たちが必要としていたこの部屋に、残したままにしておきたいのだと。
俺の意見を聞いてこない当たり、恐らくイリアもこうなることを分かっていたのだと思う。

「苦労して魔女になった意味があるのか?」
「仕方ないわ。最初から、学生の内だけって話だったから」
「もっと早く言ってくれれば、豪華な飯でも用意したのに」
「ううん、いい。最後はここでこうして、紅茶とコーヒーを飲みたかったの」

イリアはそう言うと手際良く2人分のカップを用意して、それぞれに紅茶とコーヒーを注いだ。

文字通り最後の晩餐は、いつも通りのメニューだった。
見栄を張ってミルクだけを入れたコーヒーを飲むのも、今日で終わる。じゃれ合ったベッドシーツも直す必要はない。また今度なんて約束を交わすことも無くなる。

もう俺たちに「今度」なんてものはない。

俺は砂糖の入った瓶を目の前に引き寄せ、そのまま3杯くらい勢いよくコーヒーの中に投下した。
イリアはそれを見て控えめに笑った後、同じように自分の目の前のカップにミルクを入れた。

「ミルクくらい入れたらいいだろう」
「脂肪分が気になって、控えてたの。でももういいかなって。ねぇ、今まで我慢してコーヒー飲んでたの?」
「我慢じゃない。慣れようとしてたんだ」

イリアは余計面白そうに笑った。

始めて飲んだ砂糖入りのコーヒーは、ちょうど良い甘さだった。
初めからこうしておけばよかったと思っていたら、ミルク入りの紅茶を飲んだイリアが、初めからこれを飲んでおけばよかった、と呟いた。俺も思わず笑ってしまい、そうだな、と呟いた。

カチコチと秒針が音を立てる。
嫌でも時間が過ぎることを実感させられ、俺は窓の外を見た。透き通った藍色の空には、砂糖をまぶしたように星が広がっている。

手元のカップを見たが、そこにはいつも通りの茶色があった。砂糖が表面に散らばっていても気持ち悪いだけか、と、馬鹿みたいなことを考えていた。

見られていることに気が付いて前を向くと、イリアが手を差し出してきた。

「バーティ、ひと口ちょうだい」
「…その呼び方やめろって言っただろ」
「いいじゃない。最後なんだから」

イリアにカップを渡し、俺も飲んでやろうとイリアのカップを手に取った。
先にイリアが俺のコーヒーを飲んで、あっま、と言った。俺も黙って紅茶を飲んだ。
苦みと茶葉の香りが広がり、思わず顔をしかめた。ミルク入れてたよな、を中身を確認したところで口内に遅れて紅茶の味がやってきた。甘味が全くない。

一連の流れを見ていたイリアが、また、はははと笑った。

「美味しい?」
「苦い」
「砂糖入れてもいいよ」
「いい。お前が全部飲め」

イリアにカップを付き返したが、コーヒーの入ったカップを大事そうに両手で持っていた。そういう意味で言ったつもりじゃなかったんだがな。

全部飲むつもりか、とも、返せ、とも言えず、俺は黙ってイリアを見つめた。イリアも何も言わず、コーヒーを飲んでいた。口に合わなかったようで、飲み込む時、必ず肩をすくめていた。

「甘いか」
「とっても。こんなの飲んだら糖尿になるよ」
「甘いの苦手だったのか。初めて知った」
「苦手じゃないよ。紅茶とかコーヒーとかは、甘くない方が好きなだけ」
「なんで」
「なんでだろう。甘さって味の邪魔だからかな。苦い方が本来の味って感じがする」
「そうかい」
「バーティもわたしと同じだと思ってたけど、違ったね」

皮肉を言っているというよりは、自分自身に言い聞かせているような口調だった。俺もそれ以上何も言わず、黙ってイリアが淹れた紅茶を飲んだ。

「明日はどうする? ちょっと会う?」
「俺は良いけど、お前はやめておいた方がいいんじゃないのか」
「…そうだね」

気丈に振舞おうとしているのか、イリアは笑みを絶やさなかった。
それがどうにも痛々しくて、可哀そうで、見ていられない。でも心のどこかで、俺はイリアにそんな顔をさせられるくらいの男だと証明できたことが嬉しかった。
その顔を一目見れただけで、俺とお前の間にあったものに意味があったのだと、実感した。

きっと俺も今、見栄を張っていつも通りを装っている顔をしているんだろう。
あの言葉の真意と俺の表情を、イリアはどのように受け取っているのだろうか。

カップを持って椅子から立ち上がり、イリアの隣、ソファーに腰掛けた。そのまま一気に紅茶を飲み干し、カップを机の上に置いた。イリアの手からカップを奪い、乱暴にソーサーに置いて、ガチャンと音が鳴ったと同時に、唇を押し当てた。
いつもの感触と一緒に苦味が広がったが、すぐにいつもの味になった。

イリアの目から涙がこぼれている気がしたが、目を閉じて体ごと擦り付けるように、ひたすら舌を絡めた。




忌々しく生々しい愚かなあの夜の記憶を手放す決意ができぬまま、俺は大人になった。
あの御方への忠誠を誓い、此処に戻った今もなお。此処に潜んで、なおのこと。

歩きなれた廊下、見慣れた壁。気を抜くとふと、あの場所に立っている。
俺の意思に反して、入り口が現れることは無かった。
しかしどういうわけか、イリアが飲んでいた紅茶の香りがどこからともなく漂ってきて、そのたびに俺は壁に頭を預け、くそったれ、とイリアを思い出すのだ。

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