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彼方の旅人の童話
砂塵舞う荒野に咲いている、幻の花を見つける旅人の物語が好きだと、彼女は言った。
俺がその物語を知らないと言うと、彼女はたいそう驚いた。更には、この話を知らない人がいるなんて、とまで付け加え、小馬鹿にした態度を取られた。
「小さい頃、わたしを寝かしつける為におばあちゃんが読んでくれたの。結構ポピュラーな話だと思ってたのに」
イリアはそう言って、昔を懐かしむように微笑んだ。
だが俺には、そんな経験がない。
そして気づいた。俺は父親からも母親からも、昼間でも寝る前でも、本を読んでもらったことなんてなかったことに。
小さい頃の俺に読み聞かせをしてくれたのは、兄のシリウスとクリーチャーだ。
吟遊詩人ビードルの物語も、あの二人から教えてもらった。
「…へぇ。そうなんだ」
親はそう呟いて、曖昧に微笑んだ。
あれ、そういえば。父と母と遊んだ記憶がない。
いつもシリウスとクリーチャーと遊んでいた。かくれんぼしたり、鬼ごっこしたり、箒で空を飛んだり。
ああ、そうだ、かくれんぼ。
嫌な思い出だ。
両親の書斎。本棚の隠し扉に隠れた俺を、シリウスが見つけにきた。
俺は隙間から、わくわくしながら彼が見つけるのを見ていた。絶対にわからない。そんな自信が何処かにあった。
レギュラス、と俺の名前を彼が呼ぶ。くすくす笑ってそれを見ていると、どたどたと足音が聞こえてきた。
シリウス! と、あの人を怒鳴る母親の声。
隙間から見えた、母親の服と、怯えた目で母親を見上げるあの人。
ーーここには入るなと言ったでしょう! なんで言うことを聞けないの!
ーーレギュラスとクリーチャーとかくれんぼしてるんだ
ーー言い訳はおよし! お父様の大事なものを盗みに来たんだろう!
ーー違うよ! レギュラスを探しに来たんだよ!
ーー嘘をつかないで!
ばちん、と母はあの人の頬を叩いた。俺は目を覆う。自分のことではないのに痛くて悲しくなった。
そこに優しい母はいなかった。いたのは、ただただ怖い母。
そのあと、すすり泣く声が聞こえた。あのシリウスが泣いていたのだ。
母は文句を言ってから、部屋を出て行った。
シリウスは大声で泣いていた。
俺はそれを、隠れて見ていた。
そして、この部屋に入ってはいけないと、その時初めて知ったのだ。
そういえばあの時から、兄弟仲が悪くなったんだっけ。
あの時俺が飛び出して、一緒に怒られればよかったのかもしれない。俺は怖くてそこから出られなかった。一番怖かったのは、あの人のはずなのに。
思い出した昔のこと。あの人が家族を嫌う理由が再確認できた気がする。
そうか、そういうことか。結局俺が、一番悪いのか。
「レギュラスー!」
感傷に浸る俺の耳に、背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。
本を抱えたイリアが、再度俺の名前を呼んでこっちにやって来ていた。
俺は立ち止まり、どうしたんだ、と彼女に聞こえるように声を出した。
目の前にやってきたイリアは、息を整えながら笑った。
「旅人が幻の花を探す話! 教えてあげようと図書室行って探したのに、どの本にも載ってなかったの!」
「わざわざそんな…。話の内容知ってるんだから、口頭で教えてくれればいいのに」
「正規の話のほうがいいかなって。物語って、人によって違うもの。ある人の話では朝だったのに、ある人の話では夕暮れだったりするのよ」
イリアは得意げに語る。なるほど、物語とはそういうものなのか。
「…それで、その本は?」
「あ、これ? 見つけたの。世界の童話集。この中になら、レギュラスが知ってる話があるかなって。一緒に読まない?」
にこり、と微笑むイリア。
心の中にもやもやは残るものの、その顔に根負けして、俺は了承の意味も踏まえてイリアの前髪にキスをした。
くすぐったいのか、恥ずかしいのか、イリアは頬を赤くして笑った。
「やだ、どうしたのレギュラス」
「別に。なんとなく。したかったからしただけ。もちろん読んでくれるんでしょ?」
「駄目よ、交代ごうたいで読むの」
「俺、読むの下手だから嫌だよ」
「でもわたしは、レギュラスの声が好きなの」
背の低いイリアはそう言うと、背伸びをして俺の頬にキスをした。
それからいつものようにはにかみながら、わかった? と俺に問いかけた。
俺の答えは聞かずに、イリアは俺の手を取り、歩く。
絵本を読む前は、こうやってお互いの愛を確かめるものなのかな、と、昔を思い出そうとしながら、イリアの手を握り返した。
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