釘付けの心 | ナノ

こんなに心を揺さぶられたのはきっと、あの時以来。

電気のような刺激に、瞬きをするのも忘れた。





他校には大した興味もなかったが、部長である橘が見ると言ったら無視するわけにはいかない。

氷帝と聖ルドルフの試合。

自分だったらどう対応するか、などのイメージトレーニングをしながら、一応は真剣に見ているフリをする。

隣にいる神尾などはもうフェンスを鷲掴んで熱中していて、恐らくはライバルと勝手に決め込んでいる跡部の試合を前に、興奮気味なのだと思う。

一段落着いたら、喉が乾いたとか何とか言い訳をして、その場を立ち去ればと思っていた。



しかしそれは、一瞬の出来事に掻き消された。

一人のプレイヤーから、途端に目が離せなくなる。ぐるりと囲むフェンスがじれったいほどに。

スマッシュを決める体勢からの反転。フライングの後のドロップボレー。繊細なその動きに、ただ、見とれた。



結局その試合は氷帝が勝利を収めたが、それは伊武にとってはどうでもいい事だった。

終了の挨拶を見る前に、背を向け、足を進める。



あの人と個人的に向き合ってみたいと思ったのは、たった一度見た、あの光景がきっかけ・・・。





それから数日、練習に励む事が出来ず、何度か途中で早退させられた。

橘は勿論、一人でも欠けたら次へのステップを踏めないことをよく理解する仲間達も、心配した目で見ていた。

不動峰においてナンバー2の実力である伊武が今抜けては、何もかもが終わりだった。

平静を装っていても、その不調さは、すぐに分かってしまう。

今日もまた橘は、帰って休め、と、背中を軽く叩いた。汗すらかいていない皮膚が、周囲の視線からか、一層冷たく感じる。

性格上、まともに謝ることも出来ないまま、伊武は頭を下げてコートから去っていった。

悩みがあるなら言ってくれ、と皆が言ったが、誰にも言うことが出来なかった。

何が胸に引っ掛かっているのか、自分でもよく分からず、ただ思うことはあの時の試合。

やはり一度だけでも会ってみたいと思い、普段はあてにしない教師などに聞き回った。そして目的の場所へ行く道を辿る。時間はさほど掛かっていないはずなのに、やけに長く感じた。バスに乗っている間も、気が気じゃなかった。

荘厳なまでに立派な校門の前に立ち、心なしか震える手を握る。

自分の通う学校とは比べられないほど、上品で気品のある雰囲気の校舎だった。見上げて、ぼんやりと、どう探したらいいかを考える。

すると、突然、何かがぶつかってきた。

「あ!!・・・すんません!」

少しよろめいただけだったが、その人物は丁寧に頭を下げてきた。

「いえ・・・別に・・・」

気が弱っている伊武には、いつものようなボヤきすら言えない。目を伏せて、か細い声を発した。

ふと、視線を上げてみると、その者の着ているユニフォームがテニス部のものであることが分かった。
見覚えのある顔。確か同じ学年で、不二という名前だったはずだ。聞けば分かるかもしれない、と、行ってしまいそうになるその腕を掴んだ。

「・・・何か?」

「君、テニス部なんでしょ?・・・あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・」

「なんですか?話せることなら、なんでも言いますけど」

訝しげに、眉間にシワが寄る。他校の制服の人物が部のことを聞きたいというのだから、それはきっと偵察行為であると感じたからだった。

伊武は、名前も知らない人物を知りたいと思う自分が、とても愚かで惨めだと思った。けれど簡単に引き下がれない。

「テニス部の・・・人で、会わせて欲しい人が居るんだ・・・どこに居るのか、知りたい」

「名前は?」

「・・・分からない。でもこの間のコンソレーションで見た。ダブルスで・・・髪が短くて・・・」

「それじゃあ、ちょっと分かんないなぁ・・・もっと特徴的なトコ、ないですか?」

ハッキリと頭に浮かぶその姿の中で、特徴的なところというと・・・

「ハチマキ、とかしてた気が・・・」

不二は途端に、ああ、と声を上げて、意外そうに伊武をマジマジと見る。

「木更津先輩ですね。今コートにいますよ。週に一度は来てくれるんです。今日は調度、その日なんで。・・・運が良かったですね」

探るような瞳が閉じられ、人の良さそうな笑みに変わった。胸を撫で下ろし、ゆっくり後を追う。次第に球を打つ音が大きくなってきて、しばらく真面目に参加していない部活のことを思い出した。

「あのー!木更津せんぱーい!お客さんです!」

ベンチに座っている一人の生徒が、不二の方を振り返った。制服姿で、勿論ハチマキだってしていない。

立ち上がりこちらに向かってくると、伊武は妙な緊張感に包まれて、思わず俯いた。

不二の隣辺りに立ち、真っ直ぐ視線を向ける。小柄だということは見ていて分かったが、身長も僅かに自分より高いほどだった。不二は気を使ってか、その場をすぐに立ち去って行った。

「俺にお客なんて珍しいなぁ」

台詞の割には全く意外そうに聞こえない。声に抑揚があまり見られないからだろうか。

「はじめ、まして・・・」

「初めまして」

「・・・この前の、試合で・・・」

「コンソレーション?」

「はい」

「うん・・・それで?」

「きさらづ、さん?の、プレイをずっと見てました」

「はぁ。それはどうも」

「ドロップボレー、凄くて・・・見とれました・・・・」

俯いたままだから、気付かれてはいないだろうが、なぜか自分でも理解できないほど火照って、頭もパニック寸前だった。

こんな事、わざわざ来て言うんじゃなかった、と、後悔までしている。おまけに木更津は黙ったままで何も言わない。

少しの間沈黙が流れた後、くすくす、と笑われた。

「ありがとう。君、不動峰でしょ」

「え・・・!?」

「知ってるよ。うちのマネージャーが、写真とか見せてくれたから」

おいで、と言われて、騒がしいコートから離れていく。着いていきながら、知ってくれていたという事実に、不思議な嬉しさを感じていた。

華が多く咲いている花壇の近くに木製のベンチがあった。促され、座る。いくつか並んだ自動販売機を指さし、どれがいい?と木更津は無表情で聞いてくる。適当に選んで伝えると、それはすぐに、手に乗せられた。

ひんやりと冷たい感触。

「ありがとう・・・ございます」

「ううん。いいよ」

レモンの味が口に広がった。緊張で渇いていた喉が、少しだけ潤う。

「でも、用ってそれだけなの?」

自らもプルタブを起こしながら、木更津は言う。

ふわ、と、オレンジの香りがした。

「はい。・・・どうしても、どんな人なのか気になって。あとは・・・感動したこと、伝えたかっただけです。だからもう、帰ります」

もう一度缶に口付けて、伊武は小さく言った。

「帰る前にさぁ、打ってかない?俺と」

俯く顔を上げて隣を見ると、木更津は相変わらず無表情だった。真意が読めず、伊武は戸惑った。

「俺も君のキックサーブ、生で見たいから」

にっこりと、無表情な彼からは想像も着かないような微笑みを返され、息が詰まる。

考える間もなく、頷いていた。





不二に頼んで一面を貸してもらった。お互いに制服なので、そのままコートに居るのがおかしな感じだ。周りの聖ルドルフの部員は野次馬のように、練習するフリをして二人を見ている。

未だ緊張したような伊武を見て、木更津は苦笑いを漏らす。

そして何とかそれを解きほぐそうと、自らのネクタイを外した。

「何してるんですか?」

「これしないと調子でないかなって」

あくまで真剣にネクタイを額に当て、後ろで結ぶ様は伊武だけでなく、他の部員の笑いも誘った。



キックサーブを返すのは難しいが、それと同様にスマッシュとドロップショットをする時の判別も難しい。慣れないタイプを相手にして、お互いに苦戦した。一歩も引かずにラリーが続き、試合は大半の予想を裏切って長引いていた。

しかし最後の決着までいく事はなく、途中、大きな声に阻止されて試合は終わった。



「何をしてるんですか!!君達は!」

「あ、観月・・・。今、不動峰の子と打ち合いしてたんだよ」

「はぁ・・・一、二年の貴重な練習時間じゃないですか・・・そもそも淳、そのネクタイはなんです?」

「ハチマキ代わり」

「馬鹿ですか!・・・まったく。もう、いいでしょう?早く退けなさい」

「はいはい」

溜息を着いて肩を竦め、伊武に小さく謝る。声を出す代わりに、伊武は首を横に振った。

観月は軽く挨拶をすると、すぐに手を鳴らして部員達に練習の再開を促す。野次馬達は散っていった。

「シャワーと服貸してあげるよ。部屋行こう」

話しをするのは初めてなのに、木更津は優しい。突然押し掛けた自分を追い返す素振りすら見せず寮に連れていってくれた。

服は、腕が少し長いくらいで、調度良い。身長も体格もさほど変わらない所為か。

シャンプーやボディーソープもいつもと違う香りで、なんだか落ち着かない。

不意に、送っていこうかと言われて、伊武はまた首を横に振った。

「そこまでしてもらう訳にはいかないです・・・」

「そう?今日は、楽しかったよ。また来てね」

「・・・いいんですか?」

「うん。伊武くんさえ良ければ」

名字を口にされただけで、まるでそれが他人の名のように思えた。コクリ、と、喉が鳴る。

目の前に立つ木更津をじっと見て、伊武は言葉を探していた。

乾かす間もなく寮の玄関まで来たおかげで、その黒髪は濡れている。長い前髪から、切れ長だけれど攻撃的ではない美しい瞳が覗いていた。

見とれていたのは、技だけではなかった事に、ようやく気付く。

考えるより先に覚えたばかりの名を呼んでいた。

「木更津さん・・・」

熱に浮かされたように、頭がぼうっとしてしまう。本当に、自分が自分でないような気さえしてきた。分かってしまうと、溢れるように思いが込み上げてくる。

「なに?」

「また、来ます・・・。あの・・・」

「ん?」

「一目惚れしてたんです・・・・・きっと、本当は」

視線を上げて、見つめる。木更津は僅かだが驚いているように見えた。

「今日は、ありがとうございました」

また来る、なんて言ったものの、思わず口にした言葉のせいで、もう顔は合わせられなくなってしまった。

後悔はしていないが、思い出にするには惜しいような気がする。

背を向けて、立ち去ろうとした。

「待って待って」

焦ったように声を掛けられた。何を言われるのか怖くて、伊武は振り向けない。

「それは俺のことが好きって事なの?」

あまりに頭が痛くなる言葉。直球過ぎて、何も言えなかった。

「伊武くんが好きになってくれるなら、俺もなるよ」

軽く、後ろから抱きしめられる。思わず体が強ばった。

嘘としか思えないような言葉に、声が震えてしまう。

「ほんとうに・・・?」

「うん。伊武くん、美人だし」

からかうように言われて、赤い顔に、思わず笑みが浮かんだ。

「木更津さんの方がずっと美人だよ・・・」

手で頬を擦ったが、どんどん熱くなるばかり。

抱きしめられた状態で伝わってくる鼓動は自分に比べて落ち着き払っているのが、なんだか解せなかった。

腕から抜けて向き合い、改めて抱きついてみる。その腰は、やっぱり細めだった。

「あーっ木更津のラブシーン!!」

「なっどこだーね!」

折角のいい雰囲気は、二人の大声にぶち壊された。

驚いて振り返ってみると、私服の、生徒らしき人が立っている。

「どこって柳沢、目の前!」

「ほ、ホントだーね!しかも見覚えないヤツだーね!」

からかうように面白がって笑う二人を無視して、木更津は物静かに歩いていき、事務室のサインペンを借りて戻ってきた。

そして何やら、伊武の白い手に、赤い文字が書かれていく。

「はい、これは俺の携帯番号ね。こっちはメルアド。連絡頂戴」

伊武は頷いて、まだ笑っている二人の横をすり抜け、寮を後にした。

すぐ後に悲鳴のようなものが聞こえたが、聞こえないフリをして、足は止めずに歩き続けた。



「よぅ深司!調子良くなったじゃん!」

威力を増したキックサーブが決まり、神尾は笑顔で走り寄ってきた。いつも通りの表情の無い顔で伊武は、まあねとだけ返す。

何もかもが元に戻ったようで、橘も一安心していたが・・・

試合後、練習後、はたまた酷いときには部活中まで携帯を見ている伊武に、この間までとは違う一抹の不安を抱えるのだった。



END.