空になったグラスにはいつの間にか新しいワインが注がれていた。
成人してから付き合い程度にお酒は飲んで来たけれど、こんな如何にも高そうなワインは今まで手を出した事なんて勿論無くて。
ほんのりとアルコールが回り始めたのかフワフワと漂う思考の中で見上げた天井には、豪勢な装飾が施されたシャンデリアが輝いていた。
卒業して程々の企業に就職し、程々の給料の中でやりくりしていたせいか、自分がこの金持ち学校の卒業生である事をたまに夢だったのではと思う時がある。もう最近では馴れてしまったけれど、社会人になってからは経歴を聞かれるとまず驚かれ、あの名門校の出に相応しいかどうかの品定めをされてきたりもした。
けれど、氷帝の学生だったと言っても実際は本当に名門家系のお嬢様もいれば、普通の一般家庭からの編入生だっていたわけで、ピンキリだ。私は編入生ではなかったけれど、それこそお金持ちとはほど遠い一般家庭で育っていたからか、結局卒業まであの学校の校風に馴れる事はなかった。今でさえもこんな豪勢な同窓会なんかがあるのかと信じられないでいる。
高級ホテルの大ホールを貸し切って開かれた同窓会。こんな大規模な同窓会は卒業以来初めてで、卒業してから一度も見ていなかった顔もチラホラと確認が出来た。
氷帝はあんな非常識な校風でも名門校だ。
それに、馬鹿高い授業料をポンと払える程のお金を持っている親の子も多い。
有名企業に入るそれなりの「コネ」もあったのだろう。学生時代は余り目立たなかった子が、何時の間にかエリートサラリーマンだなんて、鼻高々に名刺を配ったりしている。
「何やせっかく参加しとるってのに、つまらんそうやな」
「……忍足」
「久しぶりに会った子と話さんでええ?」
「…ん、いい」
「そうか」
「うん、ありがとね」
忍足は、全てを知っている。
知っていて、敢えて変に気づかったりしない会話に私は救われていた。
広い広いホールには、中央に沢山の食べ物やお酒が並んだテーブルがあり、立食形式で皆好きなように食事を楽しんでいる。壁際にはソファや椅子が置かれてあり、自由に座る事も出来る為、最初に少しサラダを摘んだ私は先程からずっとこの角の椅子に腰掛け移動していない。完全に孤立している私を見かねた忍足が話しかけてくれたのかもしれないけれど、そんな同情でさえも、この憂鬱な気分が紛れるなら有り難いものだった。
忍足の表情は見ずに自分なりに精一杯の笑顔で応え、誰が注いでくれたのかも分からないワインの入ったグラスへと口をつけた。
「俺でよければ、今此処でぶん殴ってきたるけどな」
「ブッ!!ちょ、馬鹿!せっかくの高級ワイン吹き出しちゃったじゃん!」
「はは、思ったより元気そうやな」
忍足らしからぬ物騒な発言に、せっかく口をつけたワインを吹き出してしまった。
黒い服を着てきて良かった。隣りでカラカラと笑う忍足を睨みつけていると、揺れる金髪が視界の端に入ってきた。
「名前と忍足みーっけ!!」
「あ!ジロー!今日は来れないんじゃなかったの?」
「んー俺もそう思ってたんだけどね。仕事が思ってたより早く片付いたんだCー」
「お前仕事中寝たりしとらんやろな」
「うっわひでー!仕事中は寝たりしてねーよ!多分」
「多分かい」
「あっはっは!」
お互いに久しぶりに会った筈なのに、口を開けば学生の頃にもどったようなくだらない会話。
外見は間違いなく成長し大人になって来てるけれど、今でも変わらない性格や口癖を聞くとなんだか安心してしまう。
…自分が変わってしまった分尚更。
「名前、」
ジローの声に顔を上げれば、明るい声とは正反対の表情をしていて驚いた。
「なに、どうしたの?そんな酷い顔して」
「大丈夫だよ」
「…え?」
「…あんな奴より、ずっとずっと名前の事を大切にしてくれる人が絶対にいるから」
昔から、こうゆうところは変わっていないなぁ。
「ふふ、急に優しい言葉なんかかけてくれちゃってさ。変なものでも食べたんじゃない?」
「あ、俺には分かったで。ジローは寝不足や」
「ちょっと!お前ら人の気も知らねーで言いたい放題言ってくれちゃってさ!!」
両手を上げて大袈裟に怒りのポーズをするジローに笑いが込み上げてきてしまう。
ジローと忍足の会話に声を上げて笑ってしまえば、やはり二人は元氷帝のアイドルだった事もあり自然と人目を集めてしまっていた。
「ねぇ、あれって名字さんじゃない?」
「本当だ。何?フリーになったからって、もう忍足君達に取り入ろうとしてるワケ?」
「本当、凄いわね」
不意に耳に入ってきた会話に、ジロー達のお陰で弾んでいた心が急激に冷めていくのが分かった。忍足とジローも聞いてしまったようで、表情が険しい。
別に取り入ろうとなんてしていないし、昔からこうやって話してたのに…。
きっと、私が思っている以上にあの事はみんなに知られているんだろうな、と悟った。
ワイングラスを傾けた私が送った視線の先、私の座る位置から斜め前の壁際にもたれ、仲良さげに話す男女。
…それは、数ヶ月前までは"親友"と"彼氏"だった二人だ。
最初は、信じられなかった。
だって、彼氏とは高校から付き合っていて、勿論親友も応援してくれていた。告白したのは私からだけど、ずっと順調だと思っていたから。
テニス部とも友人としてその頃から仲は良かった為、彼と付き合ったと報告をしたら、みんな祝福してくれた事はもう何年も前の話なのに、今でも鮮明に覚えている。
こうなってしまったのは、偶然だったのか、必然だったのか。元々親友は彼が好きだったようで、たまたま彼と街で会って話したらお互いに惹かれたらしい。
その頃も私と彼は続いていたし、連絡も普通に取り合っていた。
けれど、なかなか時間が合わない中で彼とデートをする為に必死で作った時間も、前日になってキャンセルされる事が度々あった。…思えば、この時から既に二人はできていたんだ。
今時、安っぽいドラマでも使わなさそうなベタな展開に笑ってしまう。
私と別れて直ぐに彼女と付き合いだした彼。
数ヶ月経って、あの二人が付き合いだした事は広まっているらしく、気づいた時には容姿も性格も良く、人望もあった私の親友が悲劇のヒロインと言う脚本に仕上がっていたのだ。私のポジションは、親友の好きな人を知っていながら何も知らないふりをしてその仲を引き裂いた女。
呆れて怒りすら沸いてこない。
別れ際、驚きに言葉が何も浮かんで来ない私に、彼は私と親友の二股をかけていた事に対して悪びれる様子もなく言い放ったのだ。
「お前の事嫌いじゃねえけど、それだけだし。それに、ちょっと重いわ。男なんてヤりたい盛りなんだから、うだうだ言ってねえでもう少し楽に考えたら?正直疲れる」
何だそれ。
大切な人だからこそ、そうゆう行為は簡単にどこでもホイホイしたくないと言った私に、彼は溜め息を吐いて頭を掻いた。
「だから、そうゆう考え方が重いっつってんの。大体俺達付き合って何年経つんだよ。それで数回とか、お高くとまりすぎだろ。お前にそれだけの価値があんのかっての」
「アイツは良い女だよ。少なくともお前よりは、な」
殴ってやろうかと思った。
でも、手を出す前に実際に私には彼に反論出来る程の価値があるのかと考えたら、虚しくなって何も出来なくなってしまったのだ。
…大好きだったのに。
…大切だったのに。
彼にとっての私は、私が思っている程の存在じゃなかったという事だ。
不思議と悲しいとか悔しいとか、そういった感情は浮かんでこなかった。
…あの日から、私の感情はまるで欠如してしまったかのように涙すらも出てこないのだ。
そんな数ヶ月前の出来事をぼんやりと思い出していた時だった。
会場の空気が明らかに変わったのが分かった。
「あ、跡部だ!今日来れたんだね!」
ジローの声に扉へ目を向けると、似合い過ぎる程にスーツを着こなした跡部が、ホールへ入ってくる所だった。
流石に成人してまで学生の頃のように悲鳴を上げる子はいないものの、跡部が来た瞬間一瞬静かになり、直ぐにざわつきだしたホール内を見れば、彼が昔と変わらない注目度とカリスマ性を持続しているのが分かる。
昔と変わった所は、跡部の取り巻きが女の子だけじゃなくなった事だと思う。
高校卒業後にイギリスへ留学し、日本へ帰ってきて数年。
今ではその才能と実力を遺憾なく発揮し、若くして大企業の取締役に就いているらしい跡部の周りには、彼の関連会社に就職している者がご機嫌取りをするかのように囲んでいた。
「おい、此処では俺とお前等はただの同級生だ。オンとオフの使い分けも出来ねえようじゃ、この先も自分を苦しめるだけだぜ?」
呆れた表情で言った跡部の台詞に、周りのざわつきが更に大きくなる。取り囲んでいた同級生達は、何とも言えない微妙な表情をして離れて行った。
「流石跡部やわ…余裕あるな」
「本当、久しぶりに会ったけどなんかまたオーラ増してるC〜」
「何か、凄いね」
彼と別れてからすっかり腑抜けてしまっている私とは大違いだ……って、私と比べる事自体が可笑しな話なんだけど。
跡部が来た事で一段と騒がしくなったホールを眺めていると、人集りの中心だった跡部と目が合った気がした。
小さく手をふれば、やがて眉間に皺を寄せた跡部がワイングラス片手に此方へ歩いて来るのが分かった。
「相変わらずモテモテだねえ」
「ご苦労さん」
「チッ……ろくに酒も飲めやしねえ」
「仕方ないよ。伝説の跡部様がまた目の前にいるんだもん」
「せや。今ここで見たり触ったりしとかな、もう会えんかもしれんからな」
「テメェら…人を天然記念物みてえに言いやがって」
前髪を掻き上げる仕草は昔からしていた筈なのに、年を重ね更に磨きのかかった容姿でされたら、たまったものではない。
友人だからこうして普通に話せているけれど、もし初対面なら赤面卒倒ものだと思う。
元レギュラー二人に跡部も加わった事により、先程より強く感じるようになった視線は、刺さるように私に向けられていた。
「何あれ。親友から男奪っておいて飽きたからって今度は跡部様達狙い?」
「モテる女アピールが痛々しいわね」
聞こえない聞こえない。こんな僻みや妬みから来る言葉は昔から何度も言われていたから慣れている。一緒にいて楽しい友達といて何が悪い、と何時ものように聞き流し、再びワインを飲もうとグラスを口元へ持っていった時だった。
「ハハ、そんな大した女でもないのによ」
周りは十分騒がしくて、普通なら聞き逃してしまいそうな大きさの声。
けれど、私にはまるでその声しか聞こえないかのように、周りの雑音が一切遮断されていた。
彼の声は真っ直ぐに私の耳に入り、喉を通って心臓を抉って行く。緊張をしているわけでもないのに、嫌な汗が出て煩い程にバクバクと鳴っている胸を押さえつけた。
「アイツ……許せねえ…」
「……ほんまにそろそろシバいたらなあかんのちゃうか?」
「ちょっと!私なら大丈夫だって。勝手に言わせておけばいいよ」
「っでも!!」
忍足もジローも優しいなあ。
自分達に関係のない事なのにこんなにも怒ってくれてさ。
「本当平気だから。でも、何かちょっと酔い回ったみたいだし…そろそろ帰ろうかな」
「…名前……」
ジローが私の名前を呼んだけれど、顔は上げられそうになかった。多分今の私はさっきのジローよりも酷い顔をしてると思うから。
…もう、数ヶ月も前の事なのに。
振られてから今日まで、もしかしたら…なんて少しの期待とか、楽しかった記憶とか思い出してたなんて、本当に私って馬鹿だよなぁと思った。
あんな最低な奴でも、私にとっては初めて好きになった、かけがえのない大切な人だったのに。
鞄を持ち立ち上がった瞬間聞こえた悲鳴に、先程から床ばかりを映していた目線を上げた。
「っおい!いきなり何するんだよっ!!」
視界に入って来たのは、頭からワインを滴らせる元彼と、その頭上でワイングラスを傾けている跡部だった。
「テメェの言う大した女ってのは、その隣りの尻軽女の事か。アーン?」
「なっ……!」
「お前等が付き合い出した事は聞いている。だが、知ってるか?其処の女、お前と付き合う数週間前に俺様に告白してきたんだぜ」
「は……?」
「ちょ、跡部くんやめて…!!」
「フン…その顔は知らなかったようだな。コイツが俺様に何て言ったか教えてやろうか?」
一切表情を変えずに話し出した跡部に、焦ったように遮ろうとする彼女。
え……?
「…跡部に告白ってどうゆう事……?」
気付いたら疑問は勝手に口から零れ落ちていた。
だって、彼女は前からずっと彼の事が好きって…。
「『付き合えないならせめて身体だけでも』…どうせ相手してくれる男なら誰でも良かったんだろうが」
嘘…?なに、それ。
混乱する中、ギリッと歯軋りする音が跡部から聞こえた。
「…名字は、本当にお前の事が好きだったんだ……」
絞り出すような声は跡部が発したものだった。普段から冷静な跡部がこんなにも怒りを露わにしているのが、信じられない。
「目先の自分の欲求ばかり優先して本当に大切な女一人幸せに出来ねえくせに、偉そうにほざいてんじゃねえよ!!」
グラスの割れる音だけが、この広いホールに響き渡った。
その音に弾かれるようにして、私の足は自然と動いていた。
「名前っ!!」
ジローや忍足の呼び止める声も、聞こえなかったふりをしてホールを飛び出す。
頭が混乱して追い付かない。一体どうゆう事なの?何で跡部に告白?
彼女は彼がずっと好きだったから、仕方ないって思ってた。
それで彼も好きなら、仕方ないって。もし跡部の話が本当なら辻褄が合わなさ過ぎる。
意味が分からない。
「名前っ!」
腕を引かれて転びそうになったところを支えられる。振り返ると、少しだけスーツの乱れた険しい表情の跡部。
「はは…何か、頭ごちゃごちゃで…わかんないや」
「…悪い」
「何で跡部が謝るのさ」
「アイツ等の事を、きちんとお前に話していなかった」
「それは……」
言い終わる前に、強く腕を引かれる。抱き締められてると気付いたのは、跡部の肩ごしに小さくなったホールの扉が見えたからだ。
「…いい加減、泣けよ」
耳元で呟かれた声は、私に向かって言っているはずなのに…何故か跡部が今にも泣いてしまいそうに、聞こえた。
「跡部?」
「こんな事になるくらいなら、抑える必要なんかなかった…」
「え……?」
ゆっくりと私から体を離し向き合った跡部は、伏せていた瞼を持ち上げた。中学、高校からずっと綺麗な顔だけど、何と言うかあの頃には僅かに残っていた幼さが完全に抜け、今見るとより精悍な顔付きをしている。
ただ、その表情が酷く歪んでしまっているのが残念だ。
「俺はお前が幸せなら、その役目が俺でなくても良かった……お前が幸せなら、俺はそれで良かったんだっ!!」
この人は、何を言っているんだろう。
「なのに、なんでアイツは……糞がっ、こんな、こんなはずじゃなかった……!」
どうして、跡部が私の事でこんなにも取り乱して、怒りを露わにし、泣きそうな表情をしているのか。
…わかってしまった。
「…うん、ごめんなさい」
冷たい何かが、頬から首筋を伝い流れていくのを感じる。
「…何でお前が謝るんだよ」
だって、分かってしまったんだ。
どうして今まで気付かなかったのだろう。この人は…跡部は、今まで誰よりも私の事を考えてくれていたというのに。
そこまで考えて、ふとこの跡部景吾と言う人物をどこまでも甘く見ている自分に気付く。
違う。私が気付かなかったんじゃない。
跡部が、悟らせないようにしていたのだ。
ずっと、ずっと、今日まで隠していたんだ。
…私の幸せを考えて。
「やっと泣いたな」
「……」
「好きだ」
「…うん」
「ずっと好きだった」
「…っ、」
合わせた碧い瞳が不安定に揺れている。さっきからボロボロと目から溢れてくる液体と同時に出てきた、しゃっくりのような嗚咽が止まらない。跡部の瞳が潤んで見えたのは、きっと私の視界がぼやけているからだろうな、と思った。
「…俺の手で、お前を幸せにしても…いいか?」
答えなんて一つしかないよ。
「…はい、お願いします」
この時やっとで私は、ジローの言っていた言葉が、寝不足からくる冗談なんかじゃなかったという事に気づいた。