朝、この太陽すら俺様の為に輝いているのかと思う程に清々しい天気の下、朝練を終え爽やかな気分で下駄箱を開けると、目の前の光景に俺様は固まった。
「うわぁ!なぁジロー見ろよ!跡部の下駄箱。今日はナマコだぜ!」
「んー…ってスッゲー!!下駄箱も上履きもベトベトだC〜!」
すぐ横ではしゃぐジロー達。俺は上履きを覆い尽くす山のように積み重なったナマコの一つを掴み、未だはしゃぐジローの顔目掛けて放り投げた。
「ぶへっ」
「良かったなジロー。朝練中寝てやがった制裁が今くだされたようだぜ」
「ぷはっ!ひでーよあとべ!」
ヌルヌルと光るナマコを顔面でキャッチしたジローは、完全に目を覚ましたらしい。うるせえ。キャンキャンと吠えてくる右耳を押さえつつ、ナマコだらけの中から上履きを取り出した。それと同時に、引っ張られるようにして何故かビニール袋も下に落ちて来た。
開いてみると、中にはご丁寧にも元々俺宛に来ていたらしい名前も知らない女共からの手紙が入っていた。ピンクややたら派手な柄物の封筒の中で、差出人も書いていない真っ白な封筒を見つける。それを取り出し中身を見て、俺は再度硬直した。
「『滅びろ、あほべ』か。あの嬢ちゃん、ほんま凄いな」
「フン、面白いじゃねーか」
「何だよ、跡部まだやってんのか」
「そうらしいで。でも、手紙が濡れんように袋に入れとる辺り、優しい子なんやろな」
「てか、もう跡部もナマコ素手で掴めるようになったあたり馴れてきてるな。前は顔真っ青にして樺地にしがみついてたのによ」
「うるせぇよ宍戸、おい樺地」
「…ウス」
からかうような視線の宍戸を睨みつけ、俺様の後ろに立っていた樺地を呼べば、樺地は肩に掛けていたテニスバッグから新品の上履きを差し出して来た。
「うっわ!跡部お前上履き樺地に持たせてるのかよ!樺地はお前のパシリじゃねぇんだぞ!」
「ほんまや。なぁ樺地、嫌やったらちゃんと言うた方がええで?」
「ハ、何馬鹿な事ぬかしてやがる。嫌だったら元からコイツはこんな事しねーよ。なぁ、樺地?」
「ウス」
やはり樺地は優秀で忠実だ。向日と忍足は樺地が返答してからもなんやかんやと喚き立てていたが、俺様にとって必要のない事だと左耳から右耳へと全て受け流してやった。一度耳に入れてやっただけありがたいと思え。それにしても、昨日は大量の椎茸、一昨日は新鮮なタコと、よくも飽きずに準備してくるもんだ。白い封筒をポケットへ入れると、鼻で笑って歩き出した。この俺様にこんな馬鹿げた事を仕掛けてくる奴なんざ、この学園に一人しかいない。
名字名前。数週間前、この女と出逢ってから俺様の学園生活は今まで経験した事のないものへと変化していた。
俺様に靡かない女が、この世に存在するだなんて考えもしなかった。どんな女でも、俺が少し甘い声で囁けばまるで蕩けるような瞳で微笑み返して来る。余りにも同じ反応ばかりするから、今まではただの量産型雌猫としか思わなかった。
しかし今、俺様の目の前にいるこの女は、怒りの感情を露にした表情で俺を、この俺様を睨みつけている。
「ちょっと!ぶつかったなら謝んなさいよ」
「アーン?誰に向かって口聞いてやがる。んなとこでボーッと突っ立てる奴が悪いんだろうが」
掴みかかりそうな勢いで声を荒げる目の前の女。大体の女はまず俺様の容姿を見たこの瞬間に態度が一変し、甘えたような声になる筈なんだがな。この女は俺様と向き合い俺様を視界に入れている筈なのに、先程と全く変わる様子もなく酷く憤慨しているようだ。予想外の反応に戸惑いつつも返事をすれば、俺の言った言葉に対して更に怒りが増したようだった。
「なっ!!最低!アンタがぶつかったせいでせっかく貰ったの落としちゃったんだから謝るのが当たり前でしょ!?」
顔を真っ赤にして地面を指す女の先へと視線を移すと、地面に転がる缶と、不揃いな形のクッキー。買ったばかりで殆ど口も付けられていなかったのか、転がった缶からは溢れ出る様にして色の付いた液体がアスファルトへ広がっていくところだった。
「ジュースや菓子くらい安いもんだろ。そんな事で一々目くじら立ててんじゃねぇよ」
「はぁ!?」
たかがジュースくらいすぐに買ってやるのに。菓子にしてもどこでも買えるじゃねえか。こいつ、庶民か。貧乏人は心が狭いから些細な事でも怒り出すからな。そんな事を思いながらこの女が先程買ったであろう自販機へ向かい、同じものを買ってやった。誰が見ても見惚れるであろう優雅な仕草で自販機から缶を取り出した俺様は、それを未だ顔を赤くしている女へと差し出してやる。普段なら滅多にしてやらない笑顔までサービスして、だ。
「ほらよ、これで満足だろ」
俺様の容姿を見ても態度が変わらなかった少数の女共は、大体この笑顔を向ければ落とせる。俺の前に立つこの女も、どうせ他の奴らと同じ筈だ。愚かな奴、と蔑みながら右手に持った缶がゆっくりと受け取られるのを眺めていた。
「………………」
「フ…、本来なら俺様の前に突っ立っていたお前が謝るべきなんだがな。今回は特別に許してやる。これからは、たかが缶ジュースや菓子くらいでカッカすんじゃねえぞ」
女が俯きがちに缶を受け取る。やはりコイツも俺様の魅力に魅了されたか。なかなか勝ち気で面白そうな女だと思っていたんだがな。ほんの少しだけ抱いていた期待を削がれた為、溜め息を吐きつつもう用もない為背を向け歩き出した。
それは、俺が丁度一歩目の足を踏み出した瞬間だった。…後頭部に、違和感。訝しげに頭部へと手を伸ばす。髪へと触れた瞬間、指先に感じたベタつく湿っぽさと同時に、再び何か液体のようなものがかかるのが分かった。
「アンタ、ちょっと容姿や環境に恵まれてるからって調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!大体このクッキーは友達が一生懸命私のために作ってくれたもんなのよ!?替えなんかきかないんだから!!」
勢い良く振り返れば、今さっき俺様が買ってやった缶ジュースの蓋を開け、振りかざしている女の姿。
「それに、この道はアンタの道じゃないし!ぶつかったなら【ごめんなさい】は当たり前でしょうが!!!」
今、コイツは何をした…?今まで経験した事のない自体を脳が必死に処理していた時だった。
「何とか言ったらどうなんだよ!このすっとこどっこい!!!」
ドンっと背中に鈍い衝撃が走り、俺はバランスを崩し片膝を付いた。じわりと背中に広がる痛みに表情を歪めるが、今、何をされたのか、未だ脳が処理中である。
……すっとこどっこいって何だ。日本語か。背中の衝撃と理解出来ない言語をぶつけられた俺は不覚にも一瞬怯んでしまった。
やっとの思いで立ち上がり振り返った俺の視界には、腕を組み、仁王立ちでふんぞり返った女の姿。
「ふん!あんな偉そうな態度とっておきながら、女に蹴られて振らついてるなんて、ダッサ!そんなんで自分の事カッコいいとか思っちゃってるなんて、恥ずかしいにも程があるわ!!!」
コイツ…。俺様がわざわざジュースを買ってやったってのに、この態度は何様だ?
髪から垂れてくる色の付いた液体が、シャツに染み込んでいくのが分かる。
肩の部分がやたら冷てえ。
何故こいつはこんなにも怒っている。ぶつかったのは俺様の歩く道の前を塞いでいたこの女に非があるのであって、俺様は悪くねえ。
それに、零したジュースも買ってやった。クッキーなんざまた作らせればいいだろうが。
怒る必要がどこにある?
俺様に向かって理不尽な罵詈雑言を並べ立てている目の前の女に、広大な大地のように広い心を持ち合わせた流石の俺様でも、堪忍袋の緒が切れた。
「テメェ…黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって。調子に乗ってんのはどっちだ!」
今まで黙っていた俺が急に声を荒げた事に驚いたのか、一瞬目を丸くした女にチャンスだと言わんばかりに左足で地面を蹴り、一瞬で間合いを詰めた。
胸倉を掴んでやろうと右手を伸ばしたが、瞬時に反応した女は一歩下がりそれを軽く交わすと、不味いとでも思ったのだろう。俺が次の行動に移す前に、此方に背を向け走り出した。
この俺様から逃げようだなんて、上等じゃねえか。
氷帝テニス部部長を舐めんじゃねえぞ。
少しだけ余裕を持って走り去る背中を見送っていたが、自然と上がる口角。制服は走り難いが仕方がねえな。
軽く笑いを零した俺は、再び地面を蹴り去って行く背中を追い掛けた。
それからあの女を追い掛けた俺様は、廊下を全力疾走している所を数人の教師に注意されたが全て無視し、見事捕らえる事に成功した。
「クク…観念するんだな」
「やめてよ!離して!気持ち悪い!!」
……気持ち悪いだぁ…!?
他の女共は俺様と手が触れただけでも頬を染め叫ぶんだぞ!こいつ…頭沸いてんのか?捕らえた女の襟首をひっつかんでいる際にも反省する所か怒り心頭と言った様子で暴言を吐いてくる女を、俺は初めて脅威に感じた。
………全く、此処までのじゃじゃ馬女に出会ったのも初めてだぜ。
…とまぁ回想が長くなっちまったが、その日から俺様はアイツに興味を引かれ何かと構うようになった。しかし名字は何が気に入らないのか何故かこうして俺様に嫌がらせをしてくるのだ。
出逢い方が出逢い方だっただけに、名字の中で俺様の印象が決して良いものではないというのは理解していたが、こうした嫌がらせをしてくる理由までは分からなかった。
「それは、単にお前の事がマジで嫌いだからだろ」
本日のランチのメインである仔羊のショートロインにナイフを入れながら宍戸が言った。こいつのテーブルマナーは何時見ても酷いが、最近はもう慣れちまった。
「アーン?」
聞き捨てならねえな。
「この俺様に興味を持たれて、嫌がる女がこの世にいるのかよ?」
「「「ハァ!?!?」」」
率直な疑問を口にすれば、目の前の宍戸だけでなく、一緒にカフェテラスへ来ていた忍足、向日が目を丸くし、ガタガタと椅子を鳴らした。宍戸の横に座るジローはうつらうつらと夢現の為俺様達の会話には参加していない。俺様の右隣りに座る樺地は黙々と食事を続けている。
「跡部、お前って奴は…」
「いや…寧ろ跡部らしいっちゅーか…」
「流石跡部、やるねー」
何故か呆れたように溜め息混じりに話し出す向日達の中、滝だけは楽しげにクスリと笑っていた。
何だ此奴等。
俺様は当たり前の事を言ったまでだってのに。周りの反応に自然と眉間に皺が寄っていく。
フン、と鼻を鳴らし食べかけのままだったオマール海老へと視線を移した。
「……せやけど…」
それぞれが手を動かし始めた時、何か物思いに耽るように俺様を見た忍足が、何の前触れもなく口を開いた。
「俺は名前ちゃんの事聞いとっても普段は明るくておもろい子やって話しか聞かんから、そんな子が此処までするって事は、よっぽどお前が嫌いって事くらいしか説明がつかんと思うわ」
「おい…侑士…んなはっきり言う事ねえだろ…!」
「…いや、此処ははっきり言ってコイツにもう少し世の中を分からせた方が良いと思うぜ」
「せやろ?こればっかりはハッキリ言ったらな、名前ちゃんも迷惑や思うねん」
嫌い…?
この、俺様を、アイツが…?
これまでの嫌がらせは単に照れ隠しから来ているものだとばかり思っていたが、違うというのか?
「だが、なら何故俺様に構う?嫌いなら無視すればいいだろうが」
もし此奴等の言う通り、名字が俺様を嫌いだとするなら、矛盾が多すぎる。
「いや、だからそれは、跡部がしつこくつきまとって嫌がらせしてるからだろ?」
………は?
「……嫌がらせって何だよ。俺様がいつアイツにしたってんだ」
「……自覚無しかよ………」
まるで別次元の人間でも見るような呆けた表情でポツリと呟くように言った宍戸に続いて、忍足と向日が大袈裟な溜め息を吐いた。
何なんだコイツら…うぜえ…。
大体俺様は名字に嫌がらせをした記憶が一切ない。
名字の為にアイツの机回りを1000本の薔薇で彩ってやったり、姿を見つけると追い掛けて捕まえ、暴れるのを無理矢理抑えつけて俺様の隣りを連れて歩いてやったり。
他の女にしたら泣いて喜ばれるような事をしているまでだが?
「それは、今まで跡部が出会って来た女子がやろ?名前ちゃんも同じとは限らんで」
「そうだぜ跡部!今みたいに女子がみんながみんな同じなんだと思ってたら何時か刺されるぜ」
何時になく真剣な表情で話す忍足達に、どうやら本気だというのが伝わって来る。
じゃあ、なんだ。
コイツ等が言いたいのは…
「つまり、名字は他の女とは違うという事か」
「せや」
「そうだ」
「そして、俺様はアイツに嫌われているというんだな」
「せや」
「おう!やっとで理解したかよ」
「随分時間かかっちゃったねえ」
「チッ………」
漸く自らの立ち位置を理解した俺様に対し、満足そうに満面の笑みを浮かべる向かいの奴らの顔を全員このナイフとフォークでぶっ刺してやろうかと思った。
しかし、それを行動に移せない程にコイツ等に言われた言葉は俺様にとって衝撃的だったのだ。
名字は、俺様が嫌いなのか…。
俺様は、名字を気に入っているのに。
本当に名字と出会ってからは経験した事のない事ばかりで困惑させられる。
やはり一からアイツの中の俺様のイメージを変えるしかないのか…?
しかし、今更アイツの気を引こうとしても、俺様が近づくだけで警戒心丸出しで威嚇し、叫び、全力で拒絶されてしまうのがオチだ。
どうすれば良い…?
昼食を食べ終えた俺様は、一人悶々と考え込みながら生徒会室へと向かっていた。
「アンタさぁ…生意気なのよ!」
「あの跡部様に対して酷い態度とってるらしいじゃない。一体何様のつもりなの?」
またかよ…。
こうした場面を耳にしたり目にする機会は珍しくない。これも俺様の人気故に仕方のない事なのだろうが、もう少し人気のない場所を選べねえのか。
声のする方へ視線を移すと、校舎を背にして立つ一人の女に対し、三人程の女子生徒が囲むように立っていた。
こうゆう奴等は、呼び出された奴を俺様が庇う為に出て行くと、余計に怒り状況が悪化するのは目に見えている。見なかった事にして通り過ぎるのが一番だろうと、歩き出した時だった。
「…別に、あの人が私に嫌がらせをしてくるから対抗してるだけなんですが」
聞き覚えのある声に、踏み出した足を止める。暫く息を殺して会話を聞いていると、どうやら呼び出されたのは名字らしかった。
「自惚れてんじゃないわよ!アンタが跡部様の気を引く為に嫌がらせ紛いの事してるの知ってんだからね!」
「嫌がらせ紛いじゃないです。嫌がらせなんです」
「なっ!!」
「気を引くつもりはありません。あの人が憎くて仕方ないだけです」
おい…どんだけ嫌いなんだよ。胸が痛くなったような気がしたが、気のせいだと思う事にする。
名字も俺様に対抗するだけの力があるのでそれ程深刻だとは考えてはいなかったのだが、事態は思っていたよりも穏やかじゃねえ方向へと向かっていた。
パシンッと乾いた衝撃音に意識を戻されると、俺様の目に移ったのは、叩かれたらしい頬をおさえる名字の姿。
「ならもう一生跡部様の顔を見なくて済むようにしてやるよ」
女だけかと思っていたら、突然響いた男の声。
おい、一人の女相手に複数人で呼び出した上に男使って暴力かよ。
流石に不味いと思い出ていこうとして、ふと先程カフェテラスでしていた会話を思い出した。
そうだ…俺様、嫌われてるんだった。
今俺様が出て行った所で、名字の助けになるのか?
余計にこじれた挙げ句、アイツの事だ。この俺様に助けられた事に自己嫌悪し暴れ回るのではないか。
…しかし、このままでは名字が危ない。そうこう考えている内に、男が名字の腕を掴んでいるのが視界に入ってきた。
「離してよっ!!!」
「威勢がいいのも今だけだぜ?直ぐに口も聞けねえくらいボコボコにしてやるよ」
「嫌だ!離して!」
ヤバいと思った時には、身体が勝手に動いていた。
「おい!そいつを貸せ!」
「えっ、ちょ、うわぁ!」
丁度俺様の後ろを通り過ぎようとしていた男の手に持たれていた紙袋を奪う。中にはカフェテラスの横にある購買で買ってきたらしい菓子やらパンやらが入っていたが、逆さにして全て落とすとひとまとめに引っ付かんで呆然としている男の手に戻してやった。
「何突っ立ってやがる、さっさと行け!」
「え、あ、は、はい!」
立ち尽くす男に睨みをきかせ追い払うと、紙袋に細工を施しそれを被る。
……流石俺様、よく見えるじゃねーの!!
「ちょっと、あんまり騒がれると人が来ちゃうから早くやっちゃって!」
「分かってる…!おい、大人しくしろよ、このアマ…!」
「やめてよ変態!」
「変態だと!?てめ……っ!!」
名字の腕を引き今にも殴ろうとしている男の腕を寸前で掴み抑える。登場シーンにしてはまずまずだ。
男と周りにいた女共は、突然現れた俺様に驚いているようで、口を開き固まっている。
「え……誰だよ…」
「え…紙袋…とか………何?」
「やだ…え…誰……?」
「何…人………?」
どうやら突然の第三者の介入に怯んでいるらしい。声を出せば俺様だとバレてしまう為、男が固まっている隙に無言で俺は掴んだ片腕を捻り上げた。
「痛って………!」
捻り上げた腕に力を込めれば、ミシリと骨が軋む嫌な音がした。
あと少しの加減で簡単に折れるだろう。
それをこの男も本能的に悟ったのか、焦ったように名字を掴んでいた腕を離した。
「やべえ…何かコイツやべえ…!!」
「紙袋とかおかしいって…行こっ……!」
「う、うん!」
どうやらこの腰抜け共は颯爽と現れた正義の味方(俺様)にビビったらしい。
男は名字を掴んでいた手を離し力任せに突き飛ばすと、女とともに校舎の方へ駆けていった。
……アイツ等後で殺す。
「………」
「………」
大丈夫か、と声をかけそうになり、喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。男に突き飛ばされ、地面に伏していた名字の前に屈み、手を出してやる。
普段の俺様に対しては、恐らく指先を掴んで反対へ曲げ、へし折るくらいの反応を返してきそうだが…今現在は紙袋を被っている為俺様の正体はバレていねえ。さあ、どうする。
出方を窺いながらもう一度手を握るよう促せば、名字はゆっくりと上体を起こし、俺様の出した手を怖ず怖ずと握った。
「…あの…ありがとう…」
……頬を紅く染めながら。
おい、ちょっと待て。
何だこの表情。
俺様は知らねえ。こんな、頬を染めながら微笑む名字なんか知らねえぞ。
「あ…手…ちょっと血が出てるね…ごめんね」
先程あの男の相手をした際に引っかかれたのか、俺様の左手には小さな切り傷が出来ていた。その傷を見て、切なげに眉を寄せて謝ってくる名字。俺様の左手を、労るように両手で包み込みながら。
俺様はというと、名字が何時もの態度と余りにも違う為に、頭が混乱し心臓が煩いほどに鳴り響いていた。
やべえ…何だよ…何なんだよ。
普段俺様相手にはとんだじゃじゃ馬女のくせに、何でこの紙袋野郎にはこんな優しいんだよ……!!!!
「はい、これで血が止まるといいな。さっきは本当に助かったよ。ありがとう」
「………」
フワリと笑って名字が手を離した先へ視線を落とす。…左手の傷口には、花柄の絆創膏が貼られていた。
「……で、今日も助けに行くのかよ」
「ああ、決まってんだろ」
「まぁ、名前ちゃんもこの変態紙袋人間を王子様みたいに思っとるでな」
「誰が変態だ殺すぞ忍足」
あの日から俺様は、紙袋を被っている間は名字のボディーガードをするようになった。
段々と俺様(in紙袋)に心を開いてきてくれているらしく、最近では名字の苦手な教科の宿題を手伝ったり、ゲームセンターに行ったりもしている。プリクラとか言う小せえ写真を撮る機械では、普段の俺様のこの麗しい容姿を存分に発揮出来なかったが、名字が非常に楽しそうだった為紙袋を被ったままでも楽しんでいる俺がいた。
話せない俺様の為に「お話したいから…」と名字が照れながらスケッチブックと油性マジックを手渡して来た時には、嬉しさに抱き締めそうになる自分を抑えるのに必死だったのは記憶に新しい。
相変わらず名字から俺様への嫌がらせは続いているし、紙袋無しで出会うと暴言を吐きながら逃げ回られる毎日だが、忍足に言ったら「ツンもデレも味わえるなんてめっちゃ美味しいやん」と真顔で言っていた為今現在の俺様は非常に美味しい状況にいるらしい。
俺様も、紙袋の正体は明かさずにデレデレの名字が見られるこの状況は大変好ましいのである。
その為、今しばらくは名字の身を守るために紙袋を被り、氷帝の学園内を駆け回ろうという結論に至ったのだった。