「ほら、危ねえから手、かせ」
ぶっきらぼうな声と共に、右手を包まれる感触。
日が落ちて街灯の少ない道を歩く時や、人混みではぐれてしまいそうなると景吾さんはそう言って私の手を掴んで引っ張ってくれる。
そのタイミングは何時も私が周りが暗すぎて不安になってきた時だったり、人が多すぎて景吾さんの背中を追い掛けるのが大変になってきた時だ。彼はまるで私の考えている事を見透かしているように、心細くなった時には決まって手を差し伸べてくれる。大きな手は私の手を包むのと同じように、そうやって不安だった私の心までを安心感で満たしてくれるのだ。
頭を撫でられる時にかかる重さとか、優しく撫でてくれる手つきも、全部私の心から不安を除いてくれる。
だから、私は景吾さんの手がとても好き。
けれど、最近ふと気付いた事があった。景吾さんが差し出してくれる手は、必ず左手だという事に。今日も学校が終わり、たまたま部活が早く終わったという景吾さんと待ち合わせをし、何気ない会話をしていたらあっという間に夜になってしまった。今日は朝から曇っていたせいか、月も星も出ていない。何処までも深い黒に覆われた空は、何故か分からないけれど少しだけ怖くなってしまう。
「悪い、遅くなっちまったな。送ってく」
「あ…すみません、ありがとうございます」
そんな不安を隣りを歩く景吾さんに気づかれたくなくて、軽く笑って頷いた。どちらが足を踏み出すかでタイミングを伺うような微妙な間に、お互いに目配せして笑いを零してしまう。
「名前」
景吾さんが何の前触れもなくスッと出した手。どうしたのかと小首を傾げれば、彼は一つ息を吐くと私の右手を掴んで歩き出した。…まただ。その自然過ぎる動作のせいで私も最近まで気づかなかったけど、きっと景吾さんは私が何を考えてるか気づいてる。
だけど、それに対して特に何かを聞いてくるでもなく、何時もこうやって手を握ってくれるから、手から伝わる景吾さんの体温が言葉なんかよりもずっと安心感を与えてくれるんだと思う。
嬉しくて握られている自分の右手を見て頬が緩むと同時に、またあの疑問がふと頭に浮かんだ。今繋いでいる手も、左手。
景吾さんは右利きだから、右手が自由な方がいいのかな…。いや、でも手を繋ぐのにわざわざ利き腕の事なんて考えないよね。何でなんだろう。別に気にするような事でもないのに、一度疑問に思ってしまうと益々気になってきてしまう。よし、思い切って本人に聞いてみよう。
「…景吾さん」
「アーン?何だ」
「どうして、何時も左手なんですか?」
「あ?何がだ」
「繋いでくれる手、どうして何時も左手なのかなって」
初めは私の質問の意味を理解していなかったらしく眉を顰めていた景吾さんは、もう一度言い直した私の言葉を聞くと合わせていた目を一度驚いたように見開いて、すぐに逸らして前を向いてしまった。
「……別に、特に意味はねえよ。こっちの方が繋ぎやすいだけだ」
何だか、怪しい。いや、別に景吾さんが言いたくないなら無理に聞くつもりはないんだけれど、景吾さんが私から直ぐに視線を逸らしてしまう時は、何か理由があるという可能性が高い。これは今まで彼と過ごしてきた中で何となくそう思っただけだから、確実ではないんだけれど。だからなのか、何時も以上に気になってしまう自分がいた。
それでも、彼に言うつもりがないのなら、無理に探る事はしないでおこうと思った。
名前に、何故何時も左手で手を繋ぐのかと聞かれた時、意味もなく心臓が跳ねた気がした。
自分では違和感のないよう自然にしていたつもりだった。名前はそういった事に対して疎いと思っていたし、一々気にする事でもないと流すだろうと思っていたからだ。
だから、突然の質問に驚いたんだ。
曖昧な俺の返答に頷いてはいたが、あれは絶対納得していなかった筈だ。アイツは顔に出やすいからな。
それなのに、それ以上何も聞いてこないのは…恐らく、俺の事を考えてだろう。
そういったアイツの俺を想っての気遣いに胸がくすぐったくなるのは確かだが、本音を言えば…もっと踏み込んで来て欲しくもあった。
名前に自らの全てをさらけ出すのが恐くもありながら踏み込んで来て欲しいなんて、矛盾してるにも程がある。今回の事だって、はぐらかしてはしまったが実際は大した事じゃねえ。
俺が右手で手を繋がないのは、くだらないプライドのせいなのだ。
次の日の部活中、照りつける日差しに目を細めながら、昨日の名前との会話を思い出した俺はラケットを持ち替え、何気なく右手を見た。
視線を落とした先には……マメが潰れ皮膚が再生を繰り返したせいで、固くざらついた掌。
どんなに練習している姿を人前に晒さなくとも、こうして練習を積み重ねた時間、そしてその練習量は、俺の右手にしっかりと刻まれていた。
他人に努力している事は悟られたくねえ。何かを得るための過程なんざ、評価するに値しない。
…結果が全てなんだ。生まれてからこれまで、ずっとそうだった。周りの奴等は皆、何か結果を得た後の俺しか見ようとしなかったし、俺自身も、それが当然の考えだと思っていた。
だから、『努力してきた自分』を目を背ける事も出来ず見せつけられている気がしてしまうこの右手が、俺は嫌いだった。
そんな部分を名前には知られたくなかった為、無意識に左手を出していたのだと思う。
自然と眉間には皺が寄っていた。睨み付けるようにして見ていた視線の先の右手を一度きつく握り締めると、瞼を閉じ小さく息を吐く。そして再び右手の掌を隠すようにしてラケットを握った。努力している所なんざ格好悪い。何でもソツなくこなす『跡部景吾』を周りは望んでいるんだ。
…名前だって、そんな俺の方が良いに決まっている。
当たり前じゃねえかと思いながらも、胸の何処かが痛んだ気がしたが、俺は気付かないフリをしてコートへ向かった。
それから数日が経ち、再び会う約束をした俺達は、小高い丘の上へ来ている。夕陽が完全に沈んでから、曖昧な明るさの空が完全に夜に飲み込まれるまでの、この昼と夜が溶けて交わったような色が好きなのだと名前は言った。
「青と橙色なのに、どうしてあんなにも綺麗なグラデーションになるんだろう…不思議です」
「…ああ」
「青から橙色になって、それからあっという間に真っ黒になって、また真っ青な空が広がりますよね…起きて、寝て、泣いたり、怒ったり表情を変えるのを見てると、空も人間と同じように生活してるんじゃないかなって思ったりするんです」
「…そうか」
「可笑しいですよね、そんな訳ないのに」
名前の、こうやって些細な事に感動したり疑問を持ったりするところを、何時も眩しいと思う。俺では考えすらしないような事を、楽しげに瞳を細めながら口にするんだ。
コイツの瞳に映る世界は、俺が見ている世界よりも沢山の色で溢れているのだろう。
今感じている空気の感覚や、この空を見て想う事。きっとコイツの中では俺の想像出来ないものとなって様々な感情へと変化していくんだ。
その度に俺は………解りたい、共感したいと胸が酷く痛み…ちゃんとした返事を返す事が出来ないでいた。
辺りがすっかり闇に溶け込み、丘から見下ろす街に灯りが点りだした為、そろそろ帰るかと声を掛ける。丘の下を眺めていた名前が頷いたのを確認し、左手を差し出した。しかし、何時もなら直ぐに掌にくる筈の温もりがなかなか来ない。おかしく思い眉を寄せ、首を傾げつつ問い掛ける。
「おい、どうした」
名前へと向けて出した左手が妙に虚しく感じ、それを下げるとそのまま制服のポケットへと迎え入れた。
「…右手が、いいです」
「っ!?」
「…駄目ですか?」
「……………」
まさか、そんな事を言うなんて思いもしなかった。
複雑な表情で、でもどこか強い意志の宿った瞳で見つめてくる名前。しかし、俺の反応を待っている間が辛いのか、段々と瞳に不安が滲んできているのが分かった。コイツがこんな我が侭を言うのが珍しく、また、いきなりの事に頭が上手く回らない。
「………」
「………」
「……あの……」
「……いいぜ」
沈黙の続く空気に耐えられなくなったのか、名前が結んでいた唇を解いたタイミングで俺も答えた。
「え…でも……」
「お前が右手がいいっつったんだろ。ほら、手、出せよ」
そう言って勢いに任せて握った名前の左手。きつく握った事で、強く脈を打つ心臓と震えそうになる指先を誤魔化した。小さな左手を包む俺の手は、いつも握ってやる左手とは全く違うはずだ。
「良かった!」
「あ?」
「だって、景吾さん全然右手出してくれないから…」
心臓の音が耳の奥で響いているような感覚がして、煩い。名前がこの先何を言うのかと、俺は踏み出そうとした足を止めた。
「…もしかしたら、『実は俺の右手は鬼の手なんだ』とか言われるんじゃないかって、ドキドキしましたよ」
「………は?」
鬼の手…だと…?
またコイツは…俺の予想を軽く飛び越える突拍子のない事を考えてやがる。だが、その返答で俺の強張っていた肩の力が抜け、不安に押し潰されそうだった胸が温かくなった気がした。
「クク……」
「どうしたんですか?」
「鬼の手って何だよ」
「鬼の手はですね、鬼が宿った手で、悪霊や妖怪を倒せるんですよ。凄い手なんです」
「ほぉ…なら、実は俺様の右手は鬼の手だと言ったらどうする?」
「ひぃいい!」
「おい、馬鹿!冗談に決まってんだろうが」
自ら言い出したくせに、冗談に乗ってやれば顔を青くして繋いでいる手を振り解こうとぶんぶんと振り回しだした。全く、意味が分からねえ。しかし、俺の頬は弛む一方だった。やっとで歩き出した俺達は、街灯の灯りを頼りにアスファルトの上を進んで行く。月明かりも手伝ってそこまで暗さは感じないが、それでも闇へと溶けそうな影を眺めていると、俺の名前を握る右手には自然と力が入っていた。
「……景吾さんの右手、左手と全然違いますね」
不意に沈黙を破った声に、俺の心臓は大きく脈を打った。右手で握る事を了承した時点である程度心構えはしていたのだが、やはり、知られたくない部分を晒すのには抵抗があった。…マイナスのイメージを与えるなら尚更だ。コイツの前では素直でありたいと思いながらも……何処かで殻を破れない自身がいた。
そんな思考が脳を埋め尽くす中、名前の声は辺りに静かに響いた。
「……嬉しいです」
「!……」
「景吾さんの右手、温かい」
少しだけ、俺の右手を握る名前の手に力が込められた気がした。
「……嬉しいって、何だよ……」
それは、一体、どうゆう意味だ…?戸惑いを隠せない俺は、名前の方へ視線を向ける事が出来ないでいた。
「だって、この右手、景吾さんが沢山テニスの練習をしてきたからですよね?」
「…………」
「私は景吾さんのテニスを何時も見られる訳じゃないから。だから…この右手を握れば、頑張ってる景吾さんが知れますよね。それが凄く嬉しいです」
頑張ってる俺が知れて、嬉しい…?
何でだよ。こんな右手、格好悪いじゃねえか。
「あんな綺麗なテニスが出来るのは、この右手がそれだけ沢山ラケットを握ってきたからですよね。こうやって繋いでいると、とてもよく分かります」
ゆるゆると視線を向けた先には、柔らかく微笑む名前がいた。
胸の奥が、どうしようもなく熱い。
今まで誰もが、俺自身さえも避けてきたのに、何で、お前は、そうやって…。
名前の左手を握る右手も、胸の奥と同じように熱い気がした。
「……ハ、格好悪いだろうが、こんなマメだらけの手…」
自分の高すぎるプライドを、今日程呪った事はなかった。
名前が、本来ならば誰も知ろうとしない、いや、知りたくもない部分を知れて嬉しいと言ってくれたにもかかわらず、俺の口から出たのは、それを素直に受け止められない言葉。
そうじゃねえ。
俺が本当にお前に言いたいのは、こんな卑屈な言葉じゃねえんだ。
「…それが、景吾さんが思ってる事ですか?」
急に腕を引っ張られる感覚に隣りへ視線を移せば、名前が立ち止まっていた。心なしか声のトーンが下がっている気がする。一体どうしたと言うのか。先程俺が言った事が気に障ったのかと自然と俺の眉間に皺が寄っていく。
「…おい、どうした…?」
俯きがちな名前の表情を窺おうと上半身を傾けたタイミングで、顔を上げられる。向き合った表情は、どこかふてくされたように歪められていた。からかった訳でもないのにこんな顔をされたのは初めての事で、一瞬思考が停止する。拗ねたような表情のままの名前が唇を動かすのを、俺は石のように固まったままただ見ているだけだった。
「私は………」
「そうやって頑張ってきた自分を格好悪いと思っている景吾さんが、格好悪いと思います」
――――そんな事を、言われるとは思いもしなかった。
本当に、考えすらしていなくて、ただ、何か脳を衝撃で揺さぶられたような感覚がした。相変わらず右手は繋がったままだが、握られている力が緩まった気がして俺は無意識に強く握り締める。
名前は、努力した俺を格好悪いと思っている俺自身が格好悪い、と…そう言った。
ああ…コイツがこんな拗ねた表情をするのは、俺自身を認めてやれない俺に対してだったのか。
理解した瞬間、どうしてか泣きたくなるような衝動に駆られた。
今まで誰にも評価されず、ひたすらに隠してきた何かが、認めてもらえたような気がしたんだ。
この右手が嫌いだった。
努力なんてそんなものは、結果が伴っていなければ認める必要のないものだと、割り切らねばならないものだと思っていた。
「私は、頑張ってきた景吾さんの右手、好きですよ」
勿論左手も!と慌てて付け足すように言った名前。
それを聞いて、本当に、コイツを好きになって良かったと…心の底から思った。
名前の言葉に、考え方に、存在に………一体俺はどれだけ救われているんだろうか。
力を込めた右手から伝わる名前の体温が、愛しい。
俺は何時も与えられてばかりで、コイツには何一つ返せていない。いつか…コイツが悩み苦しんだ時、この身一つでも名前を救ってやれる日が来ればいいなんて、そんな事を思った。コイツの涙を拭う役目が俺であればいい。
コイツを笑顔にしてやれるのが俺であればいい。
名前が感じる沢山の溢れる感情を、移ろう表情を、一番近くで見ていられるのが…俺であればいい。
「そうか……悪い。いや、違うな」
そうだ。
今、俺が言わなければいけないのは、謝罪の言葉ではない。
本当に伝えたいのは………
「ありがとう」
この日から俺が出す手が右手ばかりになったのは、言うまでもない。