「今日、神奈川の立海大附属の仁王という男が此処を訪ねてくるが、気にしないでくれ」

 青学の生徒の尊敬を一身に集める生徒会長、手塚に突然そう話を切り出され、同じく生徒会に属する名前はきょとんと首をかしげた。
 一年生の頃からの付き合いのお陰か、名前は変化に乏しい手塚の表情から、彼の機嫌を読み取れるというスキルを持っている。
 眉間の皺が三割増であまり機嫌はよろしくないな、なんて考えながら、会長席で腕を組んでいる手塚を見つめ、名前は尋ねた。

「手塚君の友達とか?」
「友達…というのには語弊があるな。部活関連で顔を知っている男だ。進路の件で此処の高等部を見学したいらしく、案内を頼まれた」
「ああ、それで」

 ため息がひとつ。どうやら、その相手の事をあまり好ましくは思っていないらしい。
 生徒会長という役職柄、また青学男子テニス部元部長という役職柄、断る事ができなかったのだろう。
 今日手塚は委員長会にも出席しなければならないし、部活を引退してからも彼はなかなか多忙な人だ。加えてあまり好ましくない相手に付き合わなければならない、となると、それはもうご愁傷様としかいいようがない。
 お疲れさま、と、ねぎらいの言葉をかければ、手塚はああ、とだけ答え、ついさっき名前が淹れた紅茶に口をつけ、飲み切ると椅子から立ち上がった。

「…少し変わった男だ。ちょっかいを出される事があるかもしれない。気をつけてくれ」
「え?」
「じゃあ俺は委員長会に出てくる。仁王が来る五時半頃には戻るから、後を頼んだ」

 一方的にそういい残すと、手塚はファイルと筆箱を片手に生徒会室を出て行ってしまった。
 生徒会室には、ぽつんとひとり、名前が取り残される。
 静まり返った部屋の中、すぐに手塚の言葉を理解する事ができなかった名前は、ひとつずつ引っ掛かった単語を口にしてみた。

「………変わった、男…?ちょ…ちょっかい…?」

 指先や顔からみるみる血の気が引いていくのが、自分でもすぐにわかった。
 変わった男、だって?
 色物揃いのあの我が校の男子テニス部のメンバーの事すら、個性的のひと言で片付けてしまう手塚の口から、変わった男、だって?

「……どんな変人が来るっていうんだろう…」

 しかも、ちょっかいを出してくるおそれがあるような変人だと?いや、想像するだけでもう気分が悪くなってきた。

「そ…そうだ…!」

 とにかく、どんな人物なのか手塚が残していった以上の情報を、と、思い、ブレザー残し内ポケットに入れていた携帯に手を伸ばし、メール画面を開いた。
 そこからアドレス帳に飛び、クラスで仲の良い女テニの友人を選びだし、本文には何も書かず題名に『立海の仁王って人、知ってる?』と、だけ書き、即座に送信する。今日は女テニの活動日ではないから、運がよければ数分以内に返信がくるだろう。
 もし手塚がこの場にいればいい顔をしないだろうが、そのまま携帯を机の上に置き、ひとまず落ち着いて、返信がくるまで再び来月の生徒会だよりを作成に専念する事にした。
 そして、パソコンに向き直って数分。
 サイレントモードにしている携帯のランプが、ちかちかとメール着信を知らせてきた。
 きた、と、携帯を手に取りメールを開くと、友人からの返信画面にはこう記されていた。

『奇抜な髪の色で、綺麗な顔してるよ。でもコート上の詐欺師って異名がついてて、立海の子いわくミステリアスでかなり喰えない性格してるって。え、手塚君のお客さんなのに、名前しかいない生徒会室にその人来ちゃうんだって?うわあ、本当にご愁傷様〜(笑)』

 逆の手に持っていた書類が、全て床に落ちた。

「ペ、詐欺師って…それって本当に中学生…?」

 去り際に手塚が残した言葉がリフレインする。
 少し変わった男だ。ちょっかいを出される事があるかもしれない。気をつけてくれ。
 いや、困る。全力で困る。
 そもそも、それは本当に中学生なのか。奇抜な髪の色って何だ。詐欺師って何だ。ミステリアスで食えない性格をした中学生なんて、正直自分のクラスの不二だけで十分だ。最も、名前自体は手塚から時々話を聞く程度であり、不二とそう絡んだことはないのだが。
 自ら床にぶちまけてしまった書類を拾い集めながら、そんなことを思っていた、その時、

「入るぞ手塚」

 え、と、思った次の瞬間には、もうスライド式の扉は開ききっていた。
 扉が開いた先には、男が立っている。
 明らかに青学の学ランとは物の違うチェック柄のズボンに、外来客のスリッパを履いた、すらりと長い足。
 しっかりとした肩にかかっている黒いカーディガンはボタンがひとつとめられていて、合わせの間からは適度な具合に締められた真っ赤なネクタイが覗き見えている。
 が、名前が今その姿に目を奪われて、ぽかんと大口を開けて立ちつくしている理由の最たるは、それではない。
 体とバランスの取れた、小さな顔。染めているとは思えないほど根本から毛先まで綺麗な明るい茶色の髪。
 そして何より、絵画か彫刻のように整った顔に映える、空というよりも、海というよりも、氷という言葉が相応しい、アイスブルーの瞳。
 今目の前に立っている人物は、果たして本当に自分と同じ、人間なのだろうか。
 彼はただそこに立っているだけなのに、彼の放つ威圧感に、ぐらり、と、目眩さえ感じた。
 が、すぐに気を取り直し、名前は今自分がすべき言動を取るべく、床に散らばった書類を全速力で拾い集め、立ち上がり、こんにちは、と、頭を下げた。

「えっと…仁王さん、ですよね?手塚君のお客さんで、」

 詐欺師の、と、続けてしまいそうになり、思わず慌てて口を噤んだ。
 相手はそんな名前の様子を疑問に思ったのか、扉の前でぽかんと口を開け、大きく目を見開いてみせたが、すぐにそれはそれは綺麗な笑みをたたえ、肯定の言葉を返してきた。

「そうだ。お前は?」
「青学生徒会会計係の名字です。今日手塚君は委員長会に出席しているので、留守を預かってます」
「なるほど」

 軽く頷き、いねぇのか、と、ため息をつく姿も様になる。
 そんな姿を見ながら、手塚君といい不二君といい、テニスをやる人には外見がいい人が多いのだろうか、なんて名前はぼんやりと考えた。例え性格に難ありだとしても。
 が、そこまで考え、はっとした。
 そうだ。この人も、友人がわざわざご愁傷様と書いてきて、手塚でさえもが気をつけろと声をかけた人物なのだ。
 気を抜いちゃ駄目だ、この人のふたつ名は詐欺師なんだ、と、自分にいい聞かせていると、

「口調、楽にしていいぜ。同学年だろ?」

 彼はそう笑って、フランクに声をかけてきた。
 そんなたったひとつの笑顔、優しい言葉に、また、ぐらり、と、心が揺れ動く。
 いや、でも、目の前のこの人は、油断ならない人物のはずなのだ。詐欺師なのだ。気を緩めるな、そうだ、こんな時こそあれだ、油断せずにいこう。
 油断すると、どもりそうになる。顔が赤く染まりそうになる。ぐらんぐらんと揺れる心情をひた隠して、名前は、今手塚の部下として為すべき言動を取るよう必死に努めた。

「仁王君が五時半ぐらいに来るって事で、手塚君もその頃になったら戻って来ると思うんだけど…ご、ごめんね。待っててくれる?」
「いや、早く来ちまった俺の方の責任だ。お前が気にする事じゃねぇ」

 片手をカーディガンのポケットに入れ、そういって笑う仁王の姿は、本当に様になっている。
 友人の友人は、仁王の事を『綺麗な顔』と形容していたが、そんなひと言じゃ済ませられない。下手なモデルより、いや、今話題のモデルにだって遅れを取らないほど、今目の前に立っている男は美しかった。
 が、手塚とはだいぶタイプが違うように見えたので、手塚が仁王がやってくるという話を名前に切り出してきた時の様子にもどこか納得がいった、ような気がする。どこがどう詐欺師なのかは、今のところ名前には見抜くことができないが。
 ひとまず仁王に椅子を勧め、棚に入れていた来客用のクッキー缶からそれを取り出し、皿に並べる。
 すぐに紅茶も淹れるから、と、ひと言添えてそのクッキーを差し出せば、素直に感謝の言葉が返ってきた。やはり、どうしても性格に多大な難ありには思いがたい。
 そんなことを思いながら紅茶を淹れていたら、ソファに腰かけている仁王が、首をこちらに向け声をかけてきた。

「ダブルポットで淹れてんのか、紅茶」
「あ、ダブルポットって知ってるんだ」
「当然だ。俺も日常的に自分で紅茶を淹れる」
「私はこの前手塚君に教えてもらったばっかりなんだけどね」
「ほお、あいつにもそんな知識があったのか」
「確かに、手塚君は和のイメージあるもんねー」

 確かにな、と、ソファに背を預けたまま大笑いするところを見ると、大人びて見えた仁王も、あ、本当に同級生なんだ、と、思えてきた。
 そして仁王はひとしきり笑うと、首をこちらに向けたまま、楽しげな様子でさらにこう尋ねてきた。

「じゃあ、紅茶を淹れる時のゴールデンルールは知ってるか?」
「ゴールデンルール?」
「紅茶を美味しく淹れる五つのルールだ。良質の茶葉を使うこと。ティーポットを温めること。これは十分出来てるな」

 そういうと、仁王は立ち上がり、名前の横からひょいと身を屈め、首のすぐ横から名前の手元のポットを覗き込んできた。
 さらり、と、名前の首筋を仁王の髪がくすぐり、途端に緊張が全身を駆け巡る。
 いや、近い、ちょっと、近い。
 が、跡部は名前が硬直しているのにも気づかず、コンロ周りの紅茶用品を片っ端から目でチェックしながら喋り続ける。

「それに、茶葉の分量を測って、ポットの為のもう一杯をいれること。新鮮な沸騰しているお湯を使うこと。茶葉を蒸らす時間を待つこと。これが五つのゴールデンルールだ」
「へ、へぇ…って、あ!」
「ティーコゼーとティーマット、あるなら頼む」

 緊張しながらも感嘆の声を漏らしている内に、ひょいと、仁王に手の中のポットを取り上げられてしまった。
 お客様なのに、と、名前が困惑しているのもすぐに察したのか、急げよ、と、机へと向かい背中を向け歩く仁王にいわれ、慌てて棚から取り出し持って行った。
 ソファに座り直した仁王に、お前も座れ、と、いわれ、お言葉に甘え、ローテーブルを挟んだ正面に座らせてもらう。
 自分と仁王の前では、いれたての紅茶がカップの中から好ましい香りと湯気をあげ、ガラス製のポットの中では赤々と紅茶が輝いている。

「とりあえず、必要なのは計量スプーンだな。それに、用意できるなら砂時計もだ。ティーストレーナーも少し劣化が見られる」
「仁王君、詳しいんだね」
「まあな」
「ならもっといい葉っぱとお茶菓子用意しておけばよかったなぁ、失敗だなー…」

 今年度の生徒会の人間がみな比較的紅茶がすきだったことが幸いし、ここにはティーパックではなく茶葉が置かれている。
 が、その大半が貰い物か、売り場で最も安値のものだ。
 今仁王にと選んだ茶葉は、経費等関係なく自費で、名前の個人的趣味でここに持ち込んだものだが、それであっても、こんなに紅茶に詳しい人間をもてなせるようなものではない。茶菓子もまたしかり。

「(いいものも、ひとつくらい置いておけばよかった…)」

 しょぼん、と、自然とカップの中の紅茶へと視線が落ちる。
 が、

「一私立中学校の生徒会室に置かれている茶葉としては十分だ。それに、菓子の質もうまい具合に茶葉につり合ってる。俺は十二分に好ましいぜ、お前の淹れたこの紅茶」

 紅茶に口をつけながら笑って仁王がそう笑ってくれたから。
 ぽかん、と、名前が呆けるのを見て、仁王が何だといわんばかりに首を傾げる。
 この人は、
 まだ出会ったばかりだけれど、

「ありがとう、仁王君」

 敵わないなぁ、と、名前が笑い返せば、そうだろう、と、仁王が顎を上げ笑って見せる。
 そこからお互いの学校の話や家族の話、部活の話で盛り上がっている内に、気がつけば紅茶も菓子もなくなっていた。
 そして、仁王が一旦男子テニス部の様子を覗きに行くと生徒会室を出ていき、それからすぐに手塚が戻ってきたので、名前も自分の部活に顔を出しに行くことにした。
 生徒会室を手塚に任せ出る時、手塚が心底申し訳なさそうにお疲れ、と、声をかけてきたのだが、彼や友人が心配していたほど仁王は変人ではなかったし、迷惑なんてかけられなかった。
 例え詐欺だったとしても、素敵な人だったと思う。
 むしろ、何で手塚や友人はあんなに注意してきたのか疑問を抱かずにはいられないほど、名前の仁王に対する印象はすこぶる良い。
 次にあの友人に会ったら、そのイメージを払拭しないとなぁ、と、思いながら名前はその場を後にしたのだ。


□□□□


「(仁王君、もうさすがにいないだろうなぁ)」

 短針は六の字を少し回り、陽も傾いてきた。
 今日の部活もとうに終わり、来週末に控えた引退のための引き継ぎ作業も進めてきた。十月末には生徒会も引退することになる。それはやはり、どこか寂しいものを感じずにはいられない。
 でも、それはさておき、もしまだ仁王がいたら、と、若干の期待を胸に、昇降口に行くのならわざわざ通らずとも済むこの廊下を通ってる自分はミーハーなのだろうか、と、内心苦笑いしていたら、

「(…………あれ、)」

 ふと、自分の足が止まった。
 理由はただひとつ。自分が進んでいる少し先に、青学の学ラン姿ではない男子生徒がひとり、ちょうど生徒会室から出てきたのだ。
 またお客さんかぁ、と、視線をやって、その風貌にまた目を見張った。
 え、銀髪。
 すると、

「「……………」」

 ばちん、と、目が合ってしまい、妙な雰囲気が広がる。
 お互い動けず、今さら無言で視線を外すのもなんだかおかしな感じで、堪えきれず、名前から口を開いた。

「えっと…生徒会へのお客さんですか?」
「いや、此処の生徒会長にちょっと用事でな。用も終わったから、今帰るとこじゃ」
「手塚君のお客さん?」

 そ、と、切れ長の目を細めてフッと笑う銀髪の彼の肩には、手塚で見慣れたテニスバッグがかかっている。それも、相当使い込まれたもののように見える。
 またテニス部関係の知り合いなんだな、と、改めて全国区の実力を持ち顔の広い自分のボスである手塚を、なんだか勝手に誇らしく思ってしまった。

「手塚君、今日は千客万来だったんだなぁ」
「俺の他にも客がおったん?」

 きょとんと目を丸め、こてんと首をかしげ、銀髪の男子が尋ねてきた。
 最初ひと目みた時には、その銀色の髪と鋭い目に勝手に怖い人なイメージを持ってしまったが、どうやら案外接しやすそうだ。

「うん。手塚君の知り合いで、他校の仁王君って人が」
「は?」
「私生徒会の人間だからお茶出したんだけど、紅茶にも詳しくて話題豊富で、面白い人だったよ。確か高等部の見学に来たって」
「……その、仁王クンが?」
「うん」

 何故かぽかんと口を開けて逐一聞き返してきた銀髪の男子に少し疑問を覚えたが、とりあえず聞かれた事には肯定しておいた。
 すると、彼は少しうつむいて考え込むような素振りを見せたが、すぐに顔をあげ、その色素の薄い瞳を細め、満面の笑顔で再びこう尋ねてきた。

「その仁王クンっちゅー奴、どんな奴じゃったか聞いてもええ?」
「?えっと…茶髪で、すごく綺麗な顔してて、紅茶に詳しくて、話が面白くて…ああ、あと確か泣きボクロがあったよ」
「…ほう、なるほどな」

 何がなるほどなのか名前にはさっぱりわからなかったが、今目の前に立つ銀髪の彼の中では、何か思い当たることがあったらしい。
 結局この彼は、手塚、それに仁王と一体どんな関係なのだろうか。
 そんな名前の訝しげな視線に気がついたのか、そうではないのか、銀髪の彼は、くしゃりと笑い、顔を上げ、名前にこういったのだ。

「仁王先輩も来てたんじゃなあ」
「え?」
「挨拶が遅れてすまんナリ。俺は、同じく立海テニス部の切原赤也っちゅーもんじゃ。センパイ」

 手塚さんか仁王先輩も、立海の生徒っていってたんじゃなか?と、笑う仁王の言葉に、確かに、とは、思った。
 が、それより聞き捨てならない言葉があった。

「え……と、年下?」
「立海の二年生エースナリ」

 ばっちん、と、効果音がつきそうなほど完璧なウインクをしてみせた赤也に、開いた口が塞がらない。

「え、ええええ…っ!!」
「手塚さんも老け顔じゃろ?」
「う…っ」
「今日先輩が見た『仁王先輩』だって、中学生離れしてたはずじゃけど」

 名前が完全に言葉に詰まってしまったのを見ると、赤也はからからと笑った。

「な、なんだか、ごめんね…暗に老け顔といっちゃったのと同じような…でも、その、老けてるというより大人っぽい、だよ、切原君は!」
「そんな必死に弁解せんでよかよ、慣れちょるし」
「そんな…」
「それより、俺は名乗ったぜよ。んで、センパイは何者じゃ?」

 くつくつ笑う赤也に、名前も慌てて自分の名前と、生徒会役員であることを告げた。
 そして、その頃。

「…………一体、どういう話に拗れているんだ?」

 帰宅しようと扉の前で鞄を担いで立っていた手塚が、仁王が名乗ったあたりから偶然話を聞いてしまい部屋から出るに出れず、生徒会室の中で頭を抱えていたのは、いうまでもない。


□□□□


「名字」

 仁王と赤也に出会った翌日の放課後。
 生徒会室の入口に立つ来客の姿に、絶賛パソコンと睨めっこ中だった名前は心底驚いた。

「仁王君?」
「よお」

 昨日見たままの制服姿で、来客プレートをカーディガンのポケット部分にピンでとめ、同じように来客用のくたびれた青いスリッパ。相変わらず彼の肩には本来学生ならあるはずの鞄はない。
 そして、生徒会室には、今日も名前以外の役員の姿はない。
 名前が昨日仁王と出会った時と、そっくりそのまま同じシチュエーションだ。

「手塚君に用事?今日は生徒会もなければ部活に顔を出す日でもないから、もう帰っちゃってるかもしれないよ?」
「いや、今日は、」
「今日は?」

 昨日忘れ物でもしたのかな、と、思い返すも、それらしき遺失物があった記憶はない。
 そんな名前の様子から考えていたことが伝わってしまったのか、仁王はくつくつと喉を鳴らして笑いながら、つかつかと室内へと入ってきた。

「今日はお前に用事があるんだよ」
「へ?って、あ!」

 あっという間にすぐ隣までやってきた仁王が、さりげなく名前の手からマウスを奪ってしまった。
 そこから素早い手つきで名前が作成していた文章を上書き保存すると、コネクトに差し込んでいたUSBを抜き取り、あっという間に電源を落としてしまった。
 そして、動揺している名前を横目で見て再び笑うと、しまいにはUSBと共に名前の鞄を肩にかけ、仁王は名前の目の前で回れ右をしてみせたじゃないか。
 え、いや、な、なんだ、この事態。
 そのまますたすたと出口に向かい歩いていく仁王を止めないわけにもいかず、慌ててがたり、と、椅子を後ろへ引き、仁王を呼び止めた。
「に、仁王君…!?」
「ここの鍵は持ってんだろ?それに、今日はお前以外の役員は此処には来ないはずだ。戸締まりはしっかりしろよ」
「え、いや、というか、何でそんなことまで知ってるの仁王君…!?」
「昨日そこのホワイトボードは見たし、手塚に確認も取った」
「な、な、何で…」

 ぽかんと呆ける自分は、さぞや間抜けた表情を晒しているのだろう。でも、されるがままの今の自分にはどうすることもできない。
 そして、そんな自分に対し反比例するがごとく余裕たっぷりの様子の仁王は、再び足先をくるりとこちらに向けて、未だ机の前に所在無く立つ自分の前に立つと、こういったのだ。

「計量スプーンと茶葉を買いに行く、という名目で、今からふたりで出かけるぞ」

 昨日のあんな短い時間だけじゃ、お前と話したりねぇんだよ、と、付け加えられた言葉には、まさしく爆弾が投下されたという言葉がふさわしいほど、面食らった。
 ぐわんぐわん揺さぶられる脳内から必死に返すべき言葉を探すも、そもそも脳がまともに機能している自信がない。
 なんとか出てきた言葉は、それは情けないものでしかなかった。

「…これって詐欺?」
「かもな」

 軽く吹き出すように笑って、仁王が手を差し出す。
 その笑顔と、差し出された手を見て、観念した。

「(完全に、負けた)」

 そして、落ちてしまった。
 ああ、単純すぎるよ自分、と、嘆く心の中の冷静な自分に別の前向きな自分が、これこそが青春の醍醐味でしょう、と、それを笑い飛ばす。
 差し出された手を取って、でも、負けたと思いながらも微塵も悔しいと思う自分がいないことが、清々しく感じられた。

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