「おお!いけ、跡部!頑張れ跡部!根性出せ!」
「もう少しやで優勝やで跡部!ほら、きりきり泳げや!」

 周囲の何ともいいがたい視線が、たたずむ自分に集中するのを、痛いほどひしひしと感じる。
 が、それでも跡部はその場から何のアクションも起こすことはできなかった。しかし、握りしめた拳は自然とぶるぶる震えが止まらない。
 そして、腹の底からふつふつと湧いてきた怒りを必死におさえながら、血の昇った頭で考える。
 自分は何故、こんな屈辱的な事態に陥いらされているのか、と。

「あ、跡部…落ち着け、な?」
「宍戸、あれは何だ」
「いやあ、えー…、その、」
「吐け」
「…………あの、だな、」
「お前が吐かねぇなら俺様直々に伺い奉ろうじゃねぇか」
「お、おい!跡部!」

 やめとけ頼むから!と、騒ぐ宍戸を振り切り、跡部はずん、と、大股で教室内へと乗り込んだ。背中で樺地に制止を懇願する宍戸の声に、樺地の戸惑う空気を感じとったが、今はそんなことには構っていられない。
 ずんずん窓辺の四人の元へと歩み寄っていけば、最初にこちらに気がついた忍足の表情が、しまった、と、物語る。
 同じく、悪戯が見つかってしまった子どものような顔をしている滝の横にいる向日とジローは、未だ手の中のそれにくぎづけだ。

「行け行け跡部!このまんまじゃ真田に追いつかれちまうぜ!」
「手塚も頑張って泳いでるC〜!頑張れ跡部ー!」
「おい、ちょお、ふ、ふたりとも…」
「お前ら……大声で跡部跡部と、俺様に何の用だ、あーん?」
「ゲッ!跡部!」

 跡部の顔を見た瞬間、ただちに窓枠を乗り越えて逃げ出そうとした向日の襟をふん捕まえて引き戻した。
 そして、樺地!と、未だ教室の入口付近で宍戸と肩を並べて困り顔を浮かべている樺地を呼び、こっそりこの場から逃げ出そうとしていた忍足を捕まえさせる。

「テメェひとり逃がすわけないだろうが…!」
「あ、跡部、落ち着け、な?」
「生憎俺様はいつだって頭脳明晰冷静沈着なんだよ!なぁ、樺地!?」
「ウ…ウス……」
「樺地困ってるじゃねーか!」

 向日の暴言(という名の真実)を華麗にスルーし、跡部はそのまま向日と忍足を樺地取り押さえさせたまま、あわあわと慌てるジローの手にある携帯ゲーム機を取り上げた。ああ!と、ジローが悲鳴をあげたが、今はそんなこと知ったこっちゃない。
 そして、先程自分にあんな屈辱感を味わせた元凶が一体何なのか、拝んでやろうとその画面を覗き込んだ。
 の、だが。


「………………ハムスター…?」


 あまりに予想外だったそれに、膨らみきっていた怒りが、白けてしまったのか、途端に萎んでいく。
 一気に冷静になってきた頭で、もう一度画面を見つめ直す。
 何世代も前のゲーム機は画面の鮮度も低く、また、ゲームよりパソコンに見慣れている跡部にとっては、その動きもどこかぎこちないものに感じられた。
 が、問題はそこではない。
 画面の中では、縦に四つ並んだコースの中を、漫画絵のハムスターが左から右へとその小さな前足をちょこまかと動かしながら、必死に泳いでいるのだ。
 そして、問題は画面の下部にあった。
 きっと現在の順位ごとに並んでいるのだろう、左から右にかけて四角い枠の中に、それぞれのハムスターの絵と名前が表示されていて、それが順位が入れ替わるごとに場所が移り変わっていく。
 今現在において。
 左から、『てづか』『あとべ』『さなだ』『きて』と、並ぶ名前は見知ったものばかりだ。

「これは一体どういうことだ」
「あー…その…」
「萩之介」
「はいはい。これね、随分前に流行ったハムスター育成ゲームなんだよ。育てて大会に出してーっていう感じの典型的なやつ。滑車回しとか、かけっことか、かえる跳びとか」
「あーん?そもそもハムスターは低温に弱ぇだろ、水泳なんてできるか」
「そこはゲームのご都合主義やなぁ。一応真似されたら困るゆう理由で足がつく温水プールちゅう設定みたいやけど」
「そこまでしてハムスターを泳がせてぇ理由がわからねぇ」
「確かに」
「じゃ、ねぇよ。体よく話をそらそうとするんじゃねぇ」

 この名前についてだ、名前の、と、本題を促すと、忍足と向日とジローとで誰が話すかを小声で揉めはじめた。滝は自分の役割は終わったといわんばかりの様子で、ひとり笑って三人の成り行きを見守っている。

「(……間違いなく馬鹿馬鹿しい理由なのは、目に見えてるがな)」

 ちらりと手の中のそれに再び視線を落とせば、画面の中ではあのまましかめっつらのハムスターである『てづか』が一着でゴールインを果たし、紙吹雪の中相変わらず憮然とした表情のまま表彰台の上に立っている。その姿に僅かながら苛っとしたのも、いうまでもない。
 が、プレイキャラは口元に不敵な笑みを浮かべているハムスターである『あとべ』だったらしく、次には画面が『あとべ』がうなだれるものへと切り替わった。余計に気分が悪い。
 自然にため息をこぼせば、えーと、と、居心地悪そうにジローが話しかけてきた。どうやらじゃんけんに負けたらしい。

「岳人が久々にこのゲーム家から発掘してきてねー…はじめから遊びなおすって時、ハムスターとか一番ありえなさそうな知り合い達の名前つけちゃおうぜっていう話になったんだCー…」
「馬鹿馬鹿しい…お前ら、趣味悪ぃ遊びをするんじゃねぇ!」

 少なくともそれに俺様を巻き込むな!と、叱り飛ばせば、床に正座の形をとっている三人はしゅんと肩を落とした。共犯である滝はといえば、変わらず椅子に座ったまま、ごめんね、と、さらりと笑顔で謝罪を入れてきた。何とも滝らしくて何もいえなかった。
 そして、明らかに気落ちしている三人に、ここまで反省したなら許すか、と、ため息をひとつつけば、三人の肩が跳ねた。まだ怒られると思っているのだろうか。
 が、何事も叱り過ぎはよくない。
 度の過ぎた説教は、ただの自己満足に、そして質の悪い憂さ晴らしにしかならない。それでは相手に叱られた、という記憶しか残らず、改善に繋がらない。上に立つ者として、それは恥ずべき行いだ。
 ここらでこの話は切り上げるか、と、もういい、と、告げれば、三人の表情はみるみる明るくなっていく。現金な奴らだ、と、またため息が出そうになったが、しかめっつらで堪えた。
 取り上げていたゲーム機も返した時、

「跡部、流石だね」
「名字か」

 宍戸と共に現れたのは、この氷点学園女子テニス部の部長である名前だった。
 跡部が部において全てに置いて秀でたカリスマ的存在のリーダーならば、彼女はひとえに人望、という長所だけでトップに上り詰めた、ある意味つわものである。
 実際に部内の実力でいえば、ナンバースリーがいいところ。副部長を務めている女子の方がよっぽどテニスの実力という点に置いては勝っている。
 が、部長は彼女でなくてはならないのだ。
 あらゆる部員の僅かな変化、異常に即座に気づくことができ、気を回す。人を立てるが、それでありながら過分はない。言うべきことはしっかり言い、褒めるべきことは褒め、人を伸ばす。そして、話題豊富で話の切り替えも上手い彼女とは、跡部であっても会話に飽きることがない。
 そんな彼女を、部員達は心底慕っているのだ。もちろん、彼女に実力で勝る者達も。これもまた、一種の才能であり努力の結果だと跡部は思っている。
 以前、お前なら身分ある者の妻が勤まるだろうな、と、感じたまま伝えたら、盛大に笑われてしまった。笑い上戸な名前は珍しく跡部が憤慨しているのにフォローを入れるわけでもなく、お腹を抱えてしばらくの間笑い続けていた。
 ありがとう、と、彼女はいったが、本気とは受け取っていなかっただろう。跡部が真顔で冗談いうから、とも後にいっていた。まったくもって失礼な話である。
 少なくとも、跡部はそのぐらい彼女を気に入っていて、親しいのだ。

「さっきそこで困り顔の宍戸がいたから、ついつい一緒に成り行きを見守っちゃってたんだけど…それにしても、跡部がハムスターかぁ」

 意識したつもりはないが、むっとした思いが表情、もしくは雰囲気に出てしまったのだろう。名前はすぐに謝罪とフォローを入れてきた。

「話蒸し返しちゃってごめんね。でも跡部って、いつもかっこいいから、犬掻きで泳ぐイメージ、なくって。」

 きっとひとしきり笑った後なのだろう、ほのかに頬が赤らんでいるのは、教室の扉に姿を隠しながらいつものように爆笑していたからに違いない。
 別に笑いたきゃ笑え、と、いえば、今まで必死にこらえていたのか、ご、ごめんね、と、断りを入れてから途端に口元をおさえて声に出さず笑い出した名前を見ると、なんだか肩ががくりと落ちてしまった。
 名前は、肩書きなしにある程度親しい跡部に気を許しているからか、他に対するより跡部に対しては地を見せているように思える。他の人間に対してであれば、彼女はこんな風に悪くいえば不躾に笑ったりはしないだろう。
 それでも、これは名前なりの好意だというのもわかっているし、本当にいつも楽しそうに笑うし、悪意がないのはわかっているから、怒るに怒れないのだ。
 が、かちん、と、胸の奥の情熱に火をつけたのは、宍戸の何気ないひと言だった。

「まあ、流石の跡部でも、犬掻きをかっこよくっつーのは無理があるだろ」

 それは確かに、と、忍足達が笑いながら賛同したところで、かちん、と、いう音が頭の中から聞こえてきた。
 と、同時に、ふつふつと頭に血がのぼっていく。
 そして、気がつけばこんな風に怒鳴ってしまったのだ。

「甘く見るんじゃねぇよテメェら…俺様にかかれば何事も不可能はねぇんだよ!」

 ちょ、跡部!?と、顔色の変わった滝の横で、ぎゃははははは!と、例の三人がたがが外れたように笑い出した。名前も目を白黒させている。

「跡部、自分、それはさすがに…っ!」
「あーん?俺様にかかればそんなの朝飯前なんだよ」
「跡部、そもそも犬掻きってどういうものかちゃんと把握してんのか?それでも出来るっつってんならソンケーするけどよ」
「当然だ。お前ら明日の放課後第二プールに来い。俺様の華麗な犬掻きを披露してやる」

 それを聞き心配げに青ざめる者、腹を抱えて大爆笑する者と、その場は二分した。名前はといえば事の発端になってしまったことを悔いているのか、おろおろとするとそのまま申し訳なさげにしょぼんとうなだれてしまった。
 彼女も、親しいからこそ知っているのだ。
 こうなった跡部は最早止めることができないと。

「で、スタイリッシュに犬掻きって、どうやってやるの?」
「何いってんだ萩之介、俺様に不可能はねぇんだよ」

 本当に大丈夫?と、苦笑いを浮かべる滝を一蹴して、跡部は不適に笑ってみせた。実は向日が指摘した通り、『犬掻き』というものが一体何を指すのかすら把握できていなかったのだが。
 ちょうどのタイミングでチャイムが鳴り、場はお開きとなった。が、跡部の発言が消え去ってくれるわけでもなく、明日の放課後、犬掻きとやらを披露することは決定事項と化してしまった。
 そうして樺地を引き連れ教室を出てから数十秒後、

「………おい樺地」
「ウス」
「漫画キャラの技みてぇに現実離れしてるのか、難易度が高いのか、それとも相当間が抜けているのか、どれだ」

 周囲を歩く生徒の耳に入りかねない可能性も踏まえ、あえて単語は口にしない。
 そして、樺地から返答がこない。気になってちらりと見上げてみれば、そこには凄まじく厳しい表情で悩みこむ樺地の姿。どうやら跡部を気遣い言葉を選んでいるようだ。思わず自分も言葉を失った。

「………行くぞ樺地、帰ったら『それ』の特訓だ」
「ウ…ウス……」

 過ぎる僅かな不安を胸に、自分の教室へと帰らなければならない樺地と別れ、自らも教室へと向かう。
 が、この不安を認めるわけにはいかないのだ。
 自分が上に立つ部員の前で、学内で最も親しい女子であれだけ大きく出てしまったからには、もう引き下がるわけにはいかないのだから。


□□□□


 あれから帰宅してすぐ専属のスイミングコーチを呼び、自宅備え付きのプールで猛特訓した。犬掻きが水の上を走るだとか水を割るだとかいう物理的に不可能なものではなかったからこそ、俺様ならやり遂げられる自信もあった。
 最初はコーチも困惑していたものの、俺様の熱意に負けたのか、最後は拳を振り上げて熱心に指導をしてくれた。感謝の言葉しかねぇ。
 物理的に可能なら、俺様に不可能なんてあるわけがねぇんだ。

「よし、じゃあ見てろよお前ら」

 翌日の放課後。氷帝自慢の広大な室内プールに、昨日教室であの騒ぎに関与していたメンバーが全員揃った。が、水泳部の活動日ではないため、このメンバー以外の生徒の姿はない。いわば、貸し切りのような状態だ。
 俺様のスタイリッシュ犬掻きが終わり次第このメンバーで遊ぶか、という話から、全員水着姿である。
 プールサイドに並ぶその面々に視線を向けてから、こう言い放ってやった。

「俺様の犬掻きに、酔いな」

 瞬時に、忍足と向日の腹筋が崩壊した。
 が、そんな雑音に気を払うわけでもなく、フッ!というかけ声と共に、俺様は水中へと飛び込んだ。
 犬掻きとは、水面から顔を出した状態で、手を交互に前へと掻き出しながら進む泳法である。
 確かに、その言葉を能面通り受け取りその通りに泳げば、随分と間抜けた姿になることは免れないであろう。例えこの俺様の美貌をもってであれ、だ。
 だが、俺様の進化は加速する。

「ハァッ!!!」

 要するに、間抜けた姿になる一番の原因は、あのちまちまとした腕にある。
 が、あの姿勢で手ではなく肘と肩を使い泳げば、バランスを崩して沈んでしまう。これが悩み所だった。
 だから、俺様は、この肘と肩を使った泳法で、スピードを極めることにした。
 小刻みに、と、いっても、あまりにこの腕の動きが早すぎて、腕の入りや肘の角度は間違いなく犬掻きのそれであるはずなのに、あの犬掻き特有のちまちまといった効果音を微塵も感じさせないでいる。むしろ、かなりの勢いのせいか、俺様が水を切る音は破壊音に近い。
 そして俺様は、スタイリッシュに犬掻きを泳ぎきってみせた。
 あっという間に五十メートルを泳ぎきった俺様は、満を持してプールサイドで待機している奴らの元へと向かう。当然、称賛の言葉がくると信じて。
 が、

「………テメェら、何だその顔」

 並んでいた六人は、各々様子は違ったものの、俺様に称賛を送りそうな気配は微塵もない。
 じとりと一番近くにいた宍戸を睨みつければ、何やら口をもごつかせ、あろうことかこういってきたのだ。

「…………今の、」
「「「「バタフライじゃね?」」」」
「アーン!?ふざけんなテメェら、何見てやがった!」
「いや、正直水しぶきが凄すぎてあんま見えへんかったっちゅーか…ちゅうか、顔出したクロールにも見えへんかった?」
「お、おう…いや、映像をスロー再生したりすりゃあ犬掻きになんのか…これは…」
「そもそも腕の回転早すぎて、なんだか不気味だったCー…」
「アァ!?」

 その中で萩之介といえば、昨日のハムスターを思い出すと何の悪びれもなく腹を抱えて笑っていやがった。
 ふざけんな、俺様の犬掻きは完璧だっただろうに。こいつらの見る目のなさにはほとほと呆れると同時に哀れみさえ感じるぜ。
 そしてさすがに腹が立ったものの、水着姿の名字が本当に跡部はかっこよく犬掻きできちゃうんだね、と、笑ってくれたので、このハムスターやら犬掻きやらの一件は、これにて終幕とする。こいつら、俺様の寛大な心と名字に感謝するがいい。
 名字のこの発言が真意なのかフォローなのかはわからないが、とりあえず、今俺様の努力は実を結んだことになり、俺様はすこぶる満足がいったのだから。

「跡部ー!何変な方向向いてかっこつけてんだよ、ビーチバレーしようぜ!」
「よし、テメェら俺様の美技の数々に見とれて溺れんなよ!」

 そして、アホなこといってんじゃねぇよ!なんて抜かした宍戸の顔面めがけ、俺様は華麗にボールを放つのだ。
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