「何突っ立ってんだ、入れ」
跡部が呼んでる、と、宍戸にいわれ、散々悩んでから此処に来た時には、既に二時間もの時間が過ぎていた。
忙しい人だから絶対にいるわけがないと、思ってたのに。
扉を開けた姿勢のまま呆然と立ち尽くしている名前に、ひとりがけのソファに腰掛けている跡部は、何事もなかったように普段通りの様子でそういってみせた。
あの日名前があの話を持ち掛けた時に見せた逆鱗も、それから長らく顔を合わせていなかったわだかまりも、今の跡部からは見受けられない。
「…何で、いるの」
「何でって、お前を此処に呼んだのは俺様だろうが。いいから、そっち座れ」
そっち、と、顎でさされたのは、今跡部が座っているソファの正面にある、名前がいつも座っていたソファだ。
間に挟まれているローテーブルには、それこそ以前はよくふたりで熱戦を繰り広げていたアンティークのチェスが置かれている。熱戦といっても、九割五分の確率で自分が負けていたけれど。
おそるおそる室内に踏み入り、ソファへと腰掛ける。
自然と背中も丸まり、顔も伏せてしまった。跡部を正面から直視する勇気は、今の名前にはない。
「いつも白やりたがってただろう。今日限り譲ってやる」
「え……」
「ほら、」
面食らっている自分に向かい、跡部はやっぱりいつもと変わらない様子で名前の一手を促す。
驚きながらも、一応、おそるおそる白のポーンをふたつ先へと進めれば、跡部もその長い指で黒のポーンを進める。
さすがに真意が知りたくて、ちらり、と、顔色を伺ってみたが、跡部は組んだ膝に肘をつき、チェス盤に視線を落としている。伏せがちの宝石のような氷のような青色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。相変わらず、彼はどんな姿も美しい。
が、こちらが物怖じてしまうような迫力は、今日はどこか弱いような気もする。
そんな跡部から目を離し、自分の駒を進めながら、考える。
この状態のおかしさを。
「(また怒られると思ったのに、)」
チェス盤の上で展開していく勝負にも思考をやりながら、今目の前に座る跡部について、思いを馳せる。
きっとまた、あの喧嘩別れした時のように、強い口調で上から目線のオンパレードを喰らうと思っていた。が、実際に目の前にいる跡部は穏やかで、何の揉め事もなかったかのようだ。
宍戸を経由して呼ばれた時も、驚いた。
今までであれば、名前の意思など関係なく、樺地や跡部家の使用人達により、いつどこにだって連れていかれていた。
そう、いつだってそうだった。
跡部は常に上から目線で、自分は振り回されてばかりで、横に並んだりついていくどころか息が切れるばかりで、
つらかった。
たくさん泣いた。
彼の嫌なところをあげれば、たくさんある。でも、それよりずっと多くのすきなところを並べることができる。だからこそ、つらかった。
うつむいてばかりの自分が嫌いになってしまいそうで、でも、それは跡部をすきな自分を嫌いになってしまうことと、同義であるから。
だから、そうなる前に。そうなってしまう前に。
繋いでいた手を離そうと、したんだ。
「なあ」
こつ、こつ。場から白い駒が減ってゆき、黒い駒が迫り来る。
唐突にかけられた声に、顔をあげた。
口を開いた跡部の表情は、髪とてのひらに隠れ、ほとんど見ることができない。
そのまま跡部は駒を進める手を休めなかったから、名前も再び盤面に視線を落とし、黙って駒を進める。
それでも、次に跡部の口からこぼれ落ちた言葉に、名前も言葉を失うことになった。
「戻ってこいよ」
自信のかけらもない、駒を盤に置く音にすらかき消されてしまいそうな、か細い声だった。
思わず手を止めて、もう一度、跡部を見る。
今の、言葉は。
ありえない、と、胸の奥で叫ぶ自分を制し、再度自分に問う。
本当に、今の言葉は、跡部の口から出た言葉なのか?
比喩表現ではなく、開いた口が塞がらない名前に、跡部はうつむいたまま再び次の一手を促した。
慌ててチェス盤を見れば、再び、驚いた。
もう一度跡部を見上げても、跡部は何もいわない。
戸惑うも、きっとこれが跡部の意思と判断して、名前は、駒を手にとり、
「………チェックメイト」
かつん、と、黒のキングに白のナイトをぶつける。
そのまま黒のキングを手に取ってみせれば、俺の負けだ、と、ぽつりと跡部がこぼす。
負けだ、なんて、どの口がいうのか、と、でも、言葉にはしなかった。
考え事に耽っていた自分が、普段からまるで敵わなかった跡部になんて、奇跡が起きても勝てるわけがない。
つまり、この盤面は全てが全て、跡部の意志で構築されている、ということだ。
名前の駒の動きを自分の駒を使いさりげなく誘導し、最後の最後まで名前に気づかれないよう策をめぐらして、この盤面を作り上げたのだろう。
黒の跡部がわざと負けるよう仕組まれた、この盤面を。
「…ご機嫌取りに、わざわざ負けてくれたっていうの?」
口調こそ気をつけたけれど、気がつけば自分の口から出てきた言葉は刺々しい。
普段であれば、彼を怒らせてしまっていたはずだ。
けれど、跡部は何も答えない。
「普段あれだけ、俺様はキングだからチェスでもキングを倒されるわけにはいかねぇとか、いってたのに」
妥協する人では、なかったはずだ。
案外お人よしで世話ずきかつお節介な一面こそあれど、基本的には完璧主義者で、何においても妥協しない、油断を見せない。それが跡部景吾という人間だと、少なくとも今まで名前はそう認識していた。
名前が困惑している内に、ゆっくりと、跡部が頭をあげる。
今日はじめて、視線が絡む。
いつもは、いつもだったら、その瞳は自信と誇りに満ち溢れているはずなのに。
どうして、
何で、
彼は、こんな、見たこともないような目をしているの。
「お前が俺の腕の中に戻ってくるなら、何でもする」
ゆっくりと、長年の思いを吐き出すかのように言葉が紡がれる。
青い瞳が、揺れる。
「頼む、名前」
うなだれたのか、頭を下げたのか、どちらかはわからなかった。
ただ、言葉の最後は掠れてしまうほど、切実で、その表情を、言葉を受けただけで、いかに哀願されているのかがわからないほど、自分と彼の関係は浅くない。
「ねえ、景吾」
ぽろぽろと、象牙でできたチェス盤に涙が落ちる。
ぎゅう、と、握りしめた黒のキングの駒の装飾が、てのひらに食い込む。
景吾はいつも上から目線で、自分は振り回されてばかりで、横に並んだりついていくどころか息が切れるばかりで、
つらかった。
たくさん泣いた。
自分のことも、景吾のことも嫌いになりたくなかったから、そうなる前に、そうなってしまう前に、繋いでいた手を離そうとした。
でも、
いざ、手を振り切って、離して、逃げて、逃げ続けて。
何度名前を呼ばれても、聞こえないふりをし続けて。
結局、一緒にいなかった時間の方が、ずっとずっとつらかった。
「知ってた?きっと景吾が考えてるより、ずっとずっと。私、景吾がだいすきなんだよ」
震える声を絞りだせば、名前がいい終わるよりも先に、景吾は机に身を乗りだし、チェス盤に膝をつき腕を伸ばしてきた。
ばらばらと、絨毯の敷かれた床の上に駒が落ちていく中、掻き抱かれた背中も腕も、体中がきしみ悲鳴をあげる。抱きしめ返したいのに、腕はぴくりとも動きやしない。
それでも、
肩を濡らすそれと、嗚咽が聞こえたから、何も声をかけなかった。そして、自分も泣いた。
ああ、そうか、
気を許した相手の前では、張り詰めた糸も緩み、弱くなってしまうのは、当然じゃないか。