short | ナノ





足元を浚うように押し寄せた波は、さらさらと引いていく。港で購入したパンフレットの写真には真っ青なターコイズブルーの海が写っていたのに、なまえの視界に映るそれは鈍く沈んだ色をしている。蒸し暑い風の吹く曇天が恨めしい。ボールから出してやった相棒は、イッシュの街中では見ることの無い風景に興奮したのか、或いは野生の血が騒いだのか、はしゃぎ回ってどこかへ行ってしまった。どうせすぐに戻ってくるだろうけど、ひとり取り残されたなまえは退屈で、砂浜で三角座りをして海を眺めるしかやることが無かった。天気がよければ海に入るのも吝かではないのだが、ぐずり気味の空模様からしても、とてもじゃないけど水に触れる気にならなかった。不快な湿度にじっとりと背中を汗が伝う。

普段、イッシュ地方のバトル施設に務めているなまえは、やっともぎ取った休暇を利用して遥々アローラを訪れていた。最近彼氏にも振られるしバトルも勝てないし好きだったポケウッド俳優は引退するしでむしゃくしゃしていたなまえがカッとなってアローラ行きの船を予約したのは勢いとしか言えない。だというのに、だというのに。待っていたのは爽快な青空でもなく無く、透き通る海でも無く。それなのに茹だるような蒸し暑さだけは熱帯を主張する。期待していたもの全て波に攫われたようで、なんだか泣きたくなってしまった。

「あーあ....」
「溜息は幸せが逃げるぜ」
「もう逃げてるんで....誰?」
「ただの通りすがりさ」

吐き出した憂鬱を、誰かが拾った。自分以外誰もいないと思っていた砂浜で、気付いたら隣に人が立っていたのだ。
白い着流しに長いマフラー、ドラゴンタイプを彷彿させるような不思議な髪型には白髪が混じっていたが、酷く整った顔立ちにそれが妙に似合っていて、幽玄な雰囲気を醸し出している。訝しげに見れば、その人は何でもないような顔で隣に腰を下ろした。

「お嬢さん、退屈なら私と話でもしようか」
「いまそういう気分じゃないんで....」
「傷心を癒すなら、新たな出会いを受け入れるのも一興だぜ」
「....なんでわかるんですか」
「お嬢さん、アローラの人間じゃないだろう。こんな場所で若い女がひとり旅なんて、傷心旅行くらいなものと思わないか」
「もうお嬢さんって歳でもないんですけど....」
「良い女を呼ぶ時に男は何時だってそう言うのさ」
「....私もしかしてナンパされてます?」
「察しが良くて助かるな、お嬢さん」

ぽんぽんと軽い言葉の応酬に、不覚にも、心臓が跳ねた。普段身近にいるのがあの女心のわからない双子のボスのせいか、男性にストレートに口説かれる事には慣れていない。それが見ず知らずと言えど相当外見の良い相手であるならば、胸が高鳴るのも仕方が無いというものだ。これは本能である。期待していたものは何もないと思っていたけれど、まさかひと夏のアバンチュールは期待できるかもしれない。ひとり百面相していたなまえを見て、着流しの男はくつくつと喉を鳴らした。青い瞳は氷のような色をしているのに、ギラギラと燃えて見えて、その危うさに茹だった脳がくらくらしてしまう。吊り橋効果ってやつだろうか。「ひとつよろしく頼むぜ、お嬢さん」差し出された手をとって、口篭りながら応える。我ながら単純過ぎるんじゃないか。でも胸の高鳴りはきっとアレなのだ。ありがとうアローラ。今は曇天の空すら愛おしい。だから彼がなんでこの暑さの中汗一つかいていないのかだとか手のひらが異様に冷たいだとか、そんな事どうでも、どうでも良いのだ。