short | ナノ





※学生時代

※夏油いません

× × ×

虫の音がざわめいて、日が落ちるのが遅い季節になった。それでも暗くなる時は一息に夜の波が押寄せる。大地から規則的に突き出た電柱の紛い物の光では、人類はまだ闇に勝てないらしい。

つい今しがたまで空を覆っていた作り物の夜は静かに溶けて、高い高い空が見える頃にはもうとっくに日が暮れていた。肌に張り付く重たい空気が晴れて、ひと仕事終えた後の気分もいくらか楽になる。依頼の呪霊を祓ったのは七海だった。手こずった訳では無いが、こんな行為を何度繰り返そうと慣れてはいけないのだと思う。

人の気配がした。
郊外といえど不自然な程に人通りの無い道で、虫の集る鈍色の街頭に照らされて立っていたのは、なまえだった。

細い背中がぼんやりと薄闇に浮かび上がる。

「優しい人だったんだ」

七海よりも先に帳から出ていたらしい。なまえは任務中、別行動したきり姿を消していた。文句のひとつでも言ってやろうと、七海が口を開くより先に、なまえが言葉を零す。俯いて、背を向けるなまえの表情は伺えず、言葉の真意の分からない七海は「はぁ」と要領の得ない返答をする羽目になった。全くもって意味不明だ。不本意にも呪術高専東京校二年、七海の同期であるこの女は、時々酷く脈絡の無い話を始める。

「高専に戻りますよ」
「なんで、あっちを選んじゃったのかな」
「頭でもやられましたか」

うわ言のような声色は七海では無く虚空に投げられたきりで、此方の言葉に丸っきり応答する様子もなく黙り込んでしまったなまえに、段々と呆れやイラつきよりも疑念を覚えた。ーー呪いに当てられたか。最悪の展開のひとつが頭を過ぎる。念の為いつでも戦闘態勢に入れるように、一度しまった術具に手を伸ばそうとしたが、七海がアクションを起こすよりも先にゆっくりと振り向いたなまえを見て、動きを止める。

「なんでなんだろうね」

暗い、真っ暗な眼をしてなまえは青白い唇を開き、言う。
仄暗い灯りの元、浮かび上がった顔に、喉に、上半身に、黒い制服の上からでも湿っているのがわかる程、夥しい量の血を浴びていた。手にしていた何かが、重力に従い地面に落ちる。ソレは、粘度の高い鈍い音を立てて七海の足元まで転がった。生肉が腐敗し、蛆が集ったような酷い臭いが鼻腔を刺す。

「居なかった。一般人はみんな駄目だった」

ナニかの頭部を見て、酷く顔を顰める。元はヒトであったであろうそれは、呪術に当てられ原型も分からないほど変形していた。そして、──よく知る残穢。それは七海にとっても、なまえにとっても。いくら隠匿しようがそれを間違える事は無い、在学中何度も、肌で覚えたあの人の残穢。なまえの指す『居なかった』とは何を──誰を、指すのか。皆まで言わずとも理解出来る。

七海は、自分が後にした建物を一瞥して、転がっていたソレをもう一度見る。以前は小さな宗教の集会場だったらしいその場所は、七海達が派遣された時には既に呪霊の溜まり場となり、そもそも生存者はいないであろうとも行きがけに補助監督からは説明されていた。
七海は結局、帳の中でヒトであったモノに出会う事はなかったが。

「もっと強かったら、いかないでくれたのかな」
「...傲慢ですね」

また、なまえは地面に視線を落とす。前髪を伝い、重たい雫が一滴、また落ちる。
「優しい人だったんだ」と、もう一度、誰に向けた訳でもない言葉を吐き出した。

今の七海には、ハンカチを差し出してやる資格もない。ただ一人となった同期であるこの女は、酷く傲慢で、また、きっと、嫌になるほど優しいのだ。