short | ナノ





糸の切れた人形の様に、其れは、静かに横たわっていた。

窓のない土壁の見下ろす、温度のない板の間、床に広がる液体が入口まで流れて、己の真白な足袋に染み込んだ。

「なァ、─」

返事が帰ってくるなんて期待はしないで、声をかける。きっと倒れる寸前に抱えていたであろう花器の破片、眩く散った朱色の花弁。二番隊の花器も花も、どれも無駄に豪奢で趣味が悪く、凡そこの部屋に似合うものでは無かった。

「そない寝相の悪い子ぉやった、キミ」

一拍。間を置いて、打ち捨てられていた指先がぴくりと動く。

「...寝ていた訳では無いの、ですが」

水を滴らせた黒装束の部屋の主は、再び糸に繋がれたかの様に、ゆっくりと水溜まりの中を起き上がった。
首。肩、腕、背骨、腰、膝。爪先にまで最後の糸を這わせるように、重力を感じさせない動きで、作りもののようにぴしりと背を正して。

「いらっしゃるなら、事前に連絡を、と。...市丸さん」
「それやと面白無いやん」
「嫌なんですよ。貴方の様な方が、此処に来るのが」
「酷いなぁ。キミがボクに会いたないみたいやんか」

濡れそぼった髪をぐしゃりと掻き上げて、鈍色の瞳をした死神は冷たく市丸を睨む。視線だけで雄弁に是と語るようだが、肝心の市丸は何処吹く風と態とらしくそっぽを向いて見せた。みょうじが何を嫌がっているのか、市丸は気付いていてもその本心に寄り添う気持ちは微塵も無い。

ひたりと水の染み込んだ足袋で鳴らして、踏みしめた破片など意にも介さず、みょうじの薄い肩に手を置くと、首を擡げて顔を覗き込む。

「、」

案外身長の差の無い二人の間に距離は殆ど無く、傍から見れば市丸がみょうじの喉元へ喰らいついているかにも見えただろう。

けれど、この護廷十三隊二番隊舍の奥地。"蛆虫の巣"管理人の為に用意された静謐な部屋には、二人の他に人と呼べる存在は居ない。

「ボクの知ってるキミ、あと何割残ってるんかなァ」

市丸の、鋭く細めた水晶色の瞳が瞬いて、一瞬、みょうじは眼を見開く。刹那とも一刻ともつかない時間が流れ、市丸が口を開いた。

「キミがキミで居られんくなったら、ボクが殺したげる。そういう約束やからね」

血の気の無いみょうじの表情が微かに歪み、薄い唇を噛み締めた。そして直ぐに、また平素の色の無い表情に戻ると、少し困ったように一度、鈍色の瞳がまばたきをした。

「貴方が、約束などと。珍しいことを言うものですから」

「午後から、きっと雨が降ります」

みょうじが指をさした入口には、市丸が訪れた際には無かった、朱塗りの柄の番傘がひとつ、立てかけられていた。

濡れていた筈の床も、足袋も、何事も無かったかのように元通りで、交わしたみょうじの視線の奥に渦巻く塒を巻いた深淵は白昼夢であったかの様に消え失せていて、そこにあるのはまたいつものように、何処かで見た誰かの面影を携える死神の表情だけだった。微笑む少年のような、明るい少女のような、穏やかな青年のような、飄々とした淑女のような、死の間際にいる老人のようで、産まれたての赤ん坊のように、誰だなんて言い当てる程のものでは無い筈なのに、郷愁を感じずにはいられない顔。市丸にはそう見えて、細い目をさらに細めて眼を凝らす。

「...嫌やわぁ。キミ、どんどん遠なってしもて」
「帰り道を忘れないようにしましょう、お互いに」

趣味の悪い豪奢な花器と、強い香りを放つ大輪の花。いつの間にかみょうじが抱えていたそれは、この部屋の主には到底似合わず、思わず次は己が割ってやろうかと、借り受けた傘を手にとりながら市丸は考えたが、隊舍を一歩出れば忘れてしまった。

見上げた天から垂れた雫が、頬を濡らす。
振り返らずとも、その部屋の入口はもうそこには無いだろう。

雨はきっと強くなると、知りもしないのに確信していた。