short | ナノ





杯戸町の夜を切り裂く闇色の大型二輪が、低く唸るエンジン音を振り撒いて駆け抜ける。隣接する町を含め、このエリアでは何故だか日頃絶え間なく凶悪事件が頻発し常にサイレンが鳴り響いている訳だが、時計の針が二本とも頂点を指し示す頃には幾らか静寂を取り戻している。自分の育った国も決して治安は良くないが、この界隈の犯罪都市っぷりには負けるんじゃないだろうか。少々公言しづらい仕事をしている自分は堂々と陽の下を歩くのが叶わず、こうして非番の夜に愛車を転がし一時のストレス発散が趣味になっている。通り掛かった先の見晴らしの良いパーキングに目を付けて、一服しようかとエンジンを止めた。麗しく逞しい車体に身を預け、フルフェイスを外す。ジャケットの胸から煙草を取り出した所で、けたたましく着信音が鳴り響いた。深夜のパーキングに響くベートーヴェンの交響曲第5番、一人無言で大慌てする長身の女。周囲に誰もいなくて良かった。ーー誰だ畜生。極限られた人間しか知らない自分の端末への呼び出しに若干八つ当たり気味に通話ボタンを押す。己の名誉の為に弁明するが友人がいないわけでなく、教えるほどの間柄の相手がいないだけである。

間髪入れずに、掠れ気味の低い声がスピーカーから漏れ出た。短く告げられた要件は、察するにそれなりに切迫しているのだろう、向こう側は何やら騒がしく日頃疎ましいあのサイレンが聞こえるではないか。急ぎだ、と指定された場所がここからそう遠くない事に気付いた。御預けになった煙草を戻して、火を落としたばかりの相棒に再度跨る。やれやれ面倒くさいな。そう呟いて脳内に描いた地図は、既に指示された場所への最短距離を弾き出していた。


『彼女』が、オフの夜に何をしているのか。思い出したのは偶然ではない。迷うこと無く、手早く端末に登録された名前を呼び出す。偽名やダミーの連絡先を多く持つ彼女の、限りなくプライベートに近い連絡先を知るのは自分を含めて片手の指に収まる人数だろう。2コールで応答、二つ返事で了承。機械的かつ端的にそう返した声の主は、想定以上に近くに居たらしい。ものの数分待たないうちに、追手を撒いて郊外の道を掛けていた赤井の目の前に、どこからとも無く闇色の車体が躍り出る。「こんばんは、美形エリートのデリバリーです」「よし、出せ」軽口を無視したら不満げに唇を尖らせたのが顔を覆うメット越しにも伝わってきた。無造作に投げ付けられた揃いのヘルメットを手速く装着、過去に幾度も自慢げに語られた運命をコンセプトにした頼もしい車体に飛び乗った。間髪入れずにアクセルが踏み込まれ、こちらの確認を取ることもなく急発進。乱暴だ。
例え追っている連中が公安だろうが組織だろうが、英国随一のライディングテクニックを持つ自分のパートナーに任せておけば追い付かれることはまず無い。少々乗り心地がアレなのが玉に瑕だが、外部組織の、しかも非番中の幹部を呼び出している手前としては苦情を口に出したら蹴り落とされかねない。いや、確実に蹴り落とされる。確信に近い自分の勘に従い、何も言わずにおいた。念の為、ジャケット越しの薄い身体に回した腕に力を込めておく。


大人2人を乗せた大型バイクは鋭く車体を倒し、トップスピードでコーナーを曲がる。ギギギィッ、とタイヤが擦れ火花が散った。一瞬視線を送ったミラーには白銀のRX-7。ちょうど同じコーナーをドリフトしている所だった。ぴたりと背後に喰らいつき、中々しつこく追い縋る運転席には見覚えのある褐色肌のベビーフェイス。ーーかなり見覚えがあって、思わず乾いた笑いが出る。お前修羅場に巻き込みやがって...なんて思わないでもないが、人気者のパートナーには恋敵多いから、急ぎの呼び出しとあっては応対しないわけにはいかない。
背後から腹に回された逞しい腕、密着した体から低い体温と鼓動が伝わる。こんな状況でなければ甘い空気にでもなりそうだが、生憎このFBI、掴んで離そうとしないのは振り落とされないためだ。むしろ力強過ぎて痛い。必死か。


ジグザグとからかう様にデタラメな走行を繰り返す濃紺のヤマハVMAXに思わず舌打ちしたくなるのを堪える。公安でも自分の運転技術は群を抜いたものであると自負している。なのに、なぜだかあの背中に追いつくことが一向にできない。FBIの犬である因縁の緋色にあと一歩で手が届きそうだったというのに、割り込むように現れた大型バイクが一層歯痒く思えた。あんな扱いにくい機体を桁外れの速度で乗り回すライダーなど、記憶の中でただ一人しか覚えがない。脳内であの憎たらしい顔がウィンクして見せた。あまりの苛立ちで握ったハンドルが嫌な音を立てた気がする。いやーーしかし、落ち着け降谷零。この先は既に部下たちが厳重にバリケードを築いているはずだ。やっと、今度こそ追い詰めたと、緩む口元が抑えきれない。今度こそ二人まとめて日本から叩き出してやる。


急な峠の坂道を加速に加速を繰り返し、常人ならきっと呼吸すらままならないだろう。忘れていた訳ではないがなんとなく考えないようにしていた事実。ーーこの女、尋常でないスピード狂だった。前方に迫る車両のバリケードに向かって速度を落とすどころか、更にアクセルを踏み込む。荒いエンジン音が雄叫びを挙げて、ギャリギャリ地面を抉る耳障りな音が響き渡る。

浮遊感。

二人を乗せた大型二輪は、ぶつかる直前のパトカー郡を前にほぼ直角で曲がって見せた。勢いを殺さず、前輪が高く上がるのがわかった。ガードレールを飛び越えて、数メートル先の道路へ向かって、宙を舞う車体。夜空を飛ぶ。ガウン、と音を立て着陸すると、そのまま何事も無かったように、むしろスピードを上げて更に加速。我がパートナーながら最高にクレイジーで、確実にネジのひとつふたつ吹き飛んでいる。しなやかな筋肉のついた細い背中が震えて、笑っているのが解った。


背負った男が呆れたように笑うのが解った。一歩間違えたら谷底へ真っ逆さま。無茶どころではない運転技法は教習所で習うことのないものだろう。けれどこんなもの、自分にかかればなんでもない。いや、なんでもなくこなさなければならない。これは只のゲームのようなものであって、何でもないじゃれ合いに過ぎないのだ。本気を出せば公安の彼だってこれくらいやって見せてくれる。多分。と、そう遠くない未来また実現するであろうカーチェイスに思いを馳せる。
...それはそれとしてこの後ろの男、今度は何をして彼を怒らせたんだろうか。

「明日も早いのに深夜に呼び出されてプライベートの邪魔されて公安にも無駄に喧嘩売っちゃって、ホント誰かさんのせいで今夜はツイてないなー」
「最後に関しては俺は悪くない」
「喧嘩か?落とすぞハニー」
「勘弁してくれダーリン」


もう追いつくことは出来ない、遠くに響くエンジン音を自分の車から降りて呆然と見送る。常識外れで型破り、失敗すれば死の待つ状況下において異常なまでの行動力。あの時、宙を舞った車体の、シールド越しに一瞬だけ合わさった瞳は完全に狂気一色。英国の諜報組織に所属する筈のあの女、直接的な害はないにしろ敵に回れば強大な障壁になる。そう、再確認した。

けれど、けれど。

何れ正面から敵対する日を、何処かで心待ちにしている自分がいるのは、ここだけの話だ。