来客

「ええと、あなたが、フィルチさん、ですか」

眠たげな目が、ゆっくりと瞬きをする。フィルチが認めると彼女は、「はじめまして」と言い、流れるような丁寧な動きで自分の足元を覗き込んだ。突然の行動につい気を取られ、フィルチも彼女が立っている床に視線をやる。絨毯が擦り切れているほか、とくに気になるところはなかった。

「きょうからお世話になります」彼女はそう言って、身体を戻した。「よろしくお願いします」

ホグワーツに突然、やってきた彼女を前に、どうしたものかとフィルチは唸った。
相手は杖を持っていない。フィルチと同じ、スクイブというわけではなさそうだが、なんらかの訳ありなのは察しがつく。彼女は、魔法族でありながら出来損ないの、こんな自分を魔法魔術学校の管理人に置くような、あのダンブルドアが連れてきたのだから。
フィルチは、事務室の奥をぼんやりと見つめている、彼女を盗み見た。
なにより、そう、あの目だ。
言葉遣いや物腰は丁寧でも、相手を射抜くような瞳の鋭さを垣間見せる。と思えば、それはフィルチの気のせいだったと言わざるを得ないのか、彼女からはやる気が感じられなかった。そのやる気のなさというのが、息をすること、つまり生きること自体、億劫そうにする。
フィルチは壁にかけている、鍵の束を手に取った。「ついてこい。仕事を教える」
彼女になにができるのか、フィルチの役に立つのか、わからないが、期待はできそうにない。さらに言えば、得体の知れない相手を押しつけられて、いい迷惑だ。

「はい、お願いします」彼女はまた床を見る。

とにかく扱き使ってやろう。さっさと辞めてもらって、ミセス・ノリスと過ごす静かな午後を、取り戻すのだ。

ミセス・ノリスは、フィルチの唯一の友であり、家族である。ただの猫じゃないか、とからかう相手も、フィルチにはいたことがない。
スクイブとして生まれたせいで、一族から蔑まされて生きてきた。行き場のない愛情を持て余していた、そのとき、黙ってそばに寄ってきたのが、ミセス・ノリスだった。
気まぐれ屋なところはあるが、ネズミや虫を口に咥えて嬉しそうに寄ってくる姿は、フィルチの心を愛おしさで満たした。

「私には、おまえだけだよ」

小さい頭を撫でてやると、猫は嬉しげに、にゃあ、とひと鳴きした。
そこで、扉の向こうから、「フィルチさん、いますか?」と声がかかった。彼女の例の冷めた声だった。
勝手を知っている様子だったので、城の見回りを任せたばかりなのに早速、面倒事か。膝に抱いていたミセス・ノリスをそっと床に下ろし、フィルチはしぶしぶ、事務室から顔を出した。そして、目を丸くした。

フィルチの目は、扉のそばに立っている彼女の、背後に釘付けになった。彼女は、ウィーズリーの双子を連れていた。悪質な悪戯でフィルチを引っ掛け、いつも逃げられている、赤毛のあの双子だ。
「彼らが」と彼女は後ろのふたりをちらりと振り返りながら言った。
「彼らが、二階の廊下を、めちゃくちゃにしていたんですけど」
二階の惨状を簡潔に説明し、「見つけたら、逃げ出したので、連れてきたんですけど、マクゴナガル先生の部屋に連れて行ったほうがいいですか?」と指示を仰いでくる。
双子は不貞腐れていたが、大人しく、完全に敗北を認めているようだった。

「……おお」

日頃の屈辱を晴らせる嬉しさのあまり、フィルチは腕を伸ばし、彼女に握手を求めかけた。その両手を止めさせたのは、フィルチの理性ではなく、部屋の奥から聞こえた、ミセス・ノリスの歯を剥き出しにした唸り声だった。
どうやら嫉妬させてしまったらしい。
しかし、フィルチの心はすっかり浮き足立っていた。
部屋いっぱいのトロフィーを磨かせるか、いや、城中のトイレ掃除をさせるのもいい。もちろんマグル式で、掃除道具を手に悪戦苦闘する彼らを眺めるのはきっと楽しいだろう。
いそいそと報告書の用紙を探しているあいだに、あとはフィルチが引き継ぐと判断したのか、彼女が双子を置いて立ち去ろうとしていた。
「よくやった」とフィルチは声をかけていた。「今度、茶くらい出してやる」と言い添えた。
あまりにも滑らかに出た台詞だった。が、言ったあとの空白に、素早く後悔が襲ってきた。
案の定、「はあ」という手応えのない返事が返ってきて、フィルチは恥じ入った。微妙な異変に気づいたミセス・ノリスが、まるで慰めるかのように、柔らかい胴体をフィルチの脚にすり寄せてくる。
そうだとも、と心の中で呟く。浮かれてつい、らしくないことを口走ってしまっただけのことだ。
バカね、とミセス・ノリスは呆れている。フィルチさんには、わたしがいれば、じゅうぶんでしょう? と。


そんな出来事があったことなど、とんと忘れた、ある日、彼女が再び、フィルチを訪ねに事務室に現れた。
結局、彼女はホグワーツを去らず、副管理人という線引きが曖昧な肩書きのため、先生方から大小様々な仕事を請け負う羽目になり、フィルチが放っておいても忙しい日々を送るようになっていた。
扉を開けたフィルチに向かって、お茶を飲みにきた、と彼女は告げた。ぽかんとする彼をよそに、私は紅茶よりコーヒーがいいんですけど、などと心配そうに言う。先日の自分の発言をやっと思い出し、思い出したとたん、フィルチはコーヒー豆の有無より、客人に出せるようなカップがないことに慌てた。一縷の希望に賭けて、棚や引き出しを端から開けて中を探ってみるが、お菓子もない。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「はい」

彼女は無表情で、椅子の上で丸くなっているミセス・ノリスに気づくと、そのまま動かなくなった。はじめて猫を見たのか、というほど、集中している。
はじめてこの事務室に入れたときも、じっと部屋の奥を見つめていたが、そういえば、そのときと同じ顔をしている気がする。
一方ミセス・ノリスは、毛を逆立て、ほとんど威圧的とも言える彼女を懸命に威嚇していた。

「名前、なんていうんですか」
「……ミセス・ノリスだ」
「可愛いですよね、猫って」

フィルチは返答に困った。ミセス・ノリスを相手に会話を空想するのではなく、生徒を脅かす場面でもなく、生身の人間と向き合い、他愛もない日常会話をしなければならないと気づき、緊張が走ったのだ。
勢いだったとはいえ、お茶を出す、と言った過去の自分が恐ろしくなる。しかし、それを真に受けて現れた彼女は、あまりにも怖いもの知らずではないか。
黙っていたところで、呼んだのが自分のほうである以上、沈黙の気まずさに耐えられない。無闇に開け閉めする引き出しも、もうない。
なにか言わねば。会話の糸口を探し、しどろもどろになりながら、フィルチは口を開いた。


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