痛みだけでも分からせて

激しい勢いではなかったが、永遠に降り止むこともなさそうな、しぶとい小雨が続いていた。

淀んだ空気が濡れた髪の毛みたいに皮膚にぺったりと張りつき、いい加減、嫌気がさす。
風でも吹けばいいのに。図書館で借りた本から顔をあげ、すがるような思いで、ハーマイオニーは窓のほうに目をやる。しかし当然だが、室内まで濡れぬように窓は締め切られていて、いくら眺めたところで雨が降り止むわけでもない。にもかかわらず、まるで取り残されたみたいに、その窓のそばから、彼女は離れずにいた。雨の日の彼女は屋外での仕事ができないせいか、本当につまらなそうだった。
時折、しみじみといった様子で、「雨だね」とぼやき、ハーマイオニーはそれに、「雨ね」と相槌を打つ。彼女の視線は窓の外に向けられたまま、ほとんど窓枠に凭れかかるようにしていて、憂鬱そうな顔が映り込んだ硝子の表面を、透明な雫が思い出したかのように流れていく。
本を持ち直しながらなんとなく、「新聞では明日も雨らしいけど」と付け加えてみる。
しかし、会話はそこで途切れた。どんなに耳を澄ましても、聴こえてくるのは雨音だけになる。

「その本」彼女の声がして、ハーマイオニーは顔をあげた。「それ、面白い?」
彼女は相変わらずこちらを見向きもしていないし、横顔は、髪でよく見えない。

「まだ読みはじめたばかりだから」
「なんていう本?」
「ただの歴史本よ」
「随分と熱心に読んでいるみたいだった」

そう見えていたのなら、意外だった。
学校の図書館を調べまわって、めぼしい書物を見つけてみても、そこに書いてあるのはいつも、ただの記録にすぎない。まるでそれ以上の侵入を阻む絶壁かのように高い図書館の書棚を見上げ、ハーマイオニーはきょうも途方に暮れていたところなのだ。

「だって、私にできることは、ほかにないもの」

たとえば、闇の帝王がなにをしたのか、彼に抗戦する者がどんなふうに殺されて、そうして、どれだけの人が嘆き、苦しみ、犠牲になったのか。残忍な所業は紙面で読むだけでも耐え難く、何度も本を閉じ、目を閉じ、心を落ち着かせなければとても読み終えられぬような生々しいものもあった。が、ハーマイオニーはまだ満たされない。
本の頁をめくるしかなかった。そして、めくればめくるほど、核心から遠ざかっていくような口惜しさが募っていく。

「私には、勇気がないから」

彼女がゆっくりと振り向くのが気配でわかった。
でもきっとすべて、その瞳には焼きついているのだろう。膝を抱え、まるで世界の端っこにちょこんというようにそこにある身体は体格も、学生の自分とほとんど変わらないのに、彼女は、暗黒と呼ばれたその時代を支えてきた支柱のひとつだったのだから。

「止んだみたい」
「え?」
「雨」

窓に顔を近づけたかと思うと、ハーマイオニーが口を挟む間もなく、窓枠を上に持ち上げた。
言われてみれば、細い日差しまで空から零れている。身を乗り出し、外に向かって手を伸ばして雨粒が落ちてこないかと確認する彼女の腕に、太陽の儚い光が当たる。白のシャツブラウスの下に縫い散らされた傷跡を、透かしてしまいそうだった。

「本当ね」

彼女のとなりに立つ。図書館の本は、机に置いてきた。栞を挟み忘れたが、もう必要もないだろう。

「私、雨上がりが一番好きよ」

長い雨が降っているあいだ、雲がかかってぼんやりした影でしかなかった山々だったが、いまはその木々一本、一本がまるで熱く燃え盛る炎のようだ。天へ向かって伸び、奥行きのない、まだ雲が残る空との境界線を押し上げている。
雨粒の光る、この穏やかで美しい光景を、手を滑らせれば簡単に壊れる硝子細工のような未来を守るために、赤ん坊によって精算されたかのように見えるこの世界の影には常に、彼女のような人々の血と涙でなんとか持ち堪えてきた、絶え間ぬ努力があったという。
ハーマイオニーは一瞬、躊躇する自分を払いのけ、彼女の右腕に自分の両腕を絡めると、胸に押しつけるくらい強く、ぎゅっと抱いた。

「え、なに、どうしたの」

状況を把握し、軽く仰け反るほど戸惑う彼女が可笑しくて、ひとつではない傷跡の感触が哀しくて、華奢な肩に顔をうずめる。
何百冊と本を読んでいないで、最初からこうすればよかったのかもしれない。最初から、こうしたかったのかもしれない。

「私はあなたの腕が好きよ」

頭に浮かんだのは、今まで気にも留めたことがない、しかし当然のように視界に馴染んだホグワーツの景色の数々だった。
それは無邪気としか言いようがない下級生が仲間とはしゃいで駆けている姿や、人目も憚らず見つめ合い、微笑み合う恋人たちだったりする。それから、両親のことも思い出された。
永遠に続くものと思っていた、そんな当たり前が、砂場の城を手で崩すかの如く容易さで、暗く黒く塗り替えられていく。やめて、と力の限りに叫んでも容赦はなく、愛すべきものたちが破壊されていく。その、赤黒い手が目の前に迫ってくるような恐怖を覚え、ハーマイオニーは一瞬、きつく目を閉じてしまう。「きょうまで必死に、生きてきた腕だもの」

そのとき、彼女が開けたままにしていた窓から、部屋に篭った湿気を搦めとるように、颯爽とした風が吹き込んだ。黒髪が揺れ、遅れてハーマイオニーの肩にかかっていた髪をふわりと払った。

「もう、暑いよ」

自分の腕を庇うように、そっと引き抜き、彼女が居心地悪そうに微笑む。嘘ではないらしく、首筋がしっとりと汗ばんでいた。
ほとんど冗談抜きで、爬虫類みたいに体温を調節しているんだと思っていたので、汗をかいている彼女を見て、ひどく感動した。
彼女は、人間だっだのだ、ちゃんと。そして同時に、だから、という思いがよぎる。
瞳の奥に深く根付いた悲しみが、風に吹かれて、木の枝のように震えていた。

「晴れて、よかったわね」

彼女はなにも言わず、窓の外に顔を向ける。さきほどよりはっきりと陽が差し、窓際に立っていると眩しいくらいだった。もう一度、その腕に触れるほどの勇気はなかった。

「よかった、うん」

よかった、と呟く彼女はだれかのために傷つく。あるいは、もうどこにもいない、だれかのために。
ならば、あの太陽は、いったいだれのためにこの世界を照らしているのだろう。
どんなに手を伸ばしても、だ。その腕を掴めても、彼女の、彼らの本当の傷にはきっと太陽の光さえ届かない。


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