ショー・マスト・ゴー・オン

天井が一部、崩れ落ちているが、ほとんど原型を留めていない家具の様式からいっても、ここは家族がくつろぐ居間にあたるだろう。かつては団らんの一部であったであろうそれらもいまは、瓦礫にすぎない。壁を汚している黒いしみの量から、双方の力の差は歴然で、ここで殺された男性はかなりいたぶられたようだ。
部屋の中に夜気が流れ込んでくる。割られた窓から、家の外で話しているムーディさんと警察部隊の人たちが見える。彼らは、被害者の遺体を死体袋に入れて、すべて運び出してたところだ。
こういう現場は、はじめてではないし、むしろ珍しいものでもないが、その悪趣味さには嫌気が差した。拷問をするにしても、ここまで派手に暴れる必要はないし、命を奪うだけならもっと簡単だ。
被害者は必死に抵抗するものの、ただ強者に痛めつけられ、弱っていく。命が絶えるその瞬間を、檻の中の動物を観察するかのように見て楽しむ残忍さが目に浮かぶようだった。
彼女は一通り見渡し、部屋を出た。その際、割れ物を踏みつけた感触に目を足元に向けると、それは壊れた写真立てだった。そばに仲が良さそうな家族写真も落ちていた。
そこにも映っている、被害者の妻は、家に入ってすぐ、玄関で殺されている。詳しいことはまだわからないが、死喰い人を迎い入れたのが、妻なのだろう。こちらの遺体も損傷がひどかったので、あるいは男性の拷問に利用されたのかもしれない。
彼女は玄関に戻り、二階へ続く階段を上がる。
写真には、まだ年端もいかぬ少年の姿もあった。
ネームプレートがかかった、子ども部屋の扉を軽く押し開く。出しっ放しにしているおもちゃが散乱して、お世辞にも片付いているとは言えない状況だったが、死喰い人がわざわざ荒らしていったようには思えない。
大人用とは一回り小さい、死体袋の遺体には、両親と違って外傷はなかった。子どもの存在が予想外だったのか、時間がなかったのか、わからないが、少年は苦しむことなく、親の凄惨な姿を知ることも見ることなくベッドで眠っているところに、死の呪文をかけている。彼女には、あるいはそれが死喰い人の良心のように思えた。そして、安堵する。
一家が惨殺され、しかしひとりでも生き残った場合、たとえ事件が解決しても、悲劇は続くとしか思えないからだ。
子ども部屋の壁紙は全面、鮮やかな青色だった。落書き風の魚の絵が、壁の中を生き生きと泳いでいた。

家の外に出る。背後を振り返りながら、上空を見上げると、闇の印が、屋根の上の夜空に浮かんでいる。
慢性的な徒労感に襲われる。そんな自分を鼓舞し続ける。前へ、と。
前へ進むしかない。不吉な蛇を吐く髑髏が阻もうと。後ろは振り返れないのだから。だが、どこまで進めばいいのか。一体、いつまで。

「いつまで、私たちはこんなことを続ければいいのだろう」

重い、と思ったら頭の上に、人の手のひらがのっていた。撫ぜはしないし、むしろ丁度よい高さの肘掛に腕をのせるようだったが、彼女の頭に手を置いたまま、ムーディさんが隣に立っていた。


どうしても相談したいことがある。そんな連絡が受けた、数日後、彼女はポッター家を訪ねに行った。出迎えてくれたリリーに、お腹は空いているかと訊かれたが、食べてきた、と嘘をついた。食欲がないからだ。今度は彼女が、ジェームズは? と訊ねた。最近、部屋に籠もりがちなのだとリリーは答える。もうしばらくすれば出てくるだろうから、大丈夫よ、と。だから彼女もそれ以上、訊かないことにした。というより、二階へ上がり、通された部屋に入ったところで、「わあ」と声をあげてしまったのだ。
リリーが振り向き、「どう? どう?」と嬉しそうに反応を窺ってくる。
以前はどんな部屋だったのか、わからないが、きっと部屋の真ん中に新品のベビーベッドはなかっただろう。木製で温かみがあり、おもちゃも吊り下げられている。指で触れると、揺れながらくるくると回り、棚にはすでに絵本やぬいぐるみが並べられていて、自然と笑みが零れた。

「もう準備万端だね」
「それがそうでもないの」

リリーはそう言いながら、ベビーベッドのそばにあった、揺り椅子に腰掛けようとしたので、彼女は手を貸した。一目見て、気づいていたが、久しぶりに会うと、前はなんともなかったスマートな腹部が、明らかに膨らんでいる。妊婦がどれくらい大変なものなのか、よくわからないけれど、リリーの目元にはうっすらと隈も浮かんでいて、体力をかなり消耗してきているようだった。
だが、大きなお腹には幸福そのものが詰まっているかのように必ずどちらかの手を置き、口元に浮かぶ優しい笑みのほうが、なによりも際立っている。

「壁紙を何色にしようか、悩んでいるの」
「相談したいことって、それ?」
「そうよ。大変な問題だもの」

そう真剣な顔で言うので、いまはどの面も白色だけの、何色にもなれる壁を見て、「たしかに」と彼女は笑った。
棚にカタログがあるから、見てちょうだい、と言われ、絵本が並んでいる中から、それらしき雑誌を手に取り、パラパラと流し見る。

「赤ちゃんは、男の子だっけ、女の子だっけ」
「生まれてからのお楽しみにしているの」
「どちらにしろ、青はいやかな」彼女はぼんやりと口にする。
「どうして? 天井を青空模様にするのもいいと思わない? もうずっと雨か曇りばかりだし……」

そこで突然、「あ」とリリーが声を弾ませた。「いま、蹴った」自分のお腹の中の子の反応を、少しでも見逃すまいと、包むように抱える。
嬉しそうに手招きをしてくるので、「え、大丈夫?」と後ずさった。私が近づいて、大丈夫なの?

リリーはきっと知らない。私が毎日、見ている世界を。無理やり壊された家族や、奪われた者のだれにも届かぬ慟哭、そしてそれが彼らにとって紛れも無い現実だという絶望感。死が、まるで救いにさえ思えるような世界に住み慣れてしまっている私を。そこは、この部屋とはまるで正反対の場所だ。
闇祓いのローブを脱いできたところで、自分の中に蓄積されている、その世界の一端が、お腹の子に伝わってしまって、「これから行くところは、どうもとんでもないところらしいから、生まれるはよそう」と外に出てこなくなるかもしれない。そんなことを、本気で心配した。

「なに、ぼーっとしているの。ねぇ、こっちにきて。きょうはいつもより、元気みたいなの。ほら」

リリーの笑顔に気後れしてしつつ、そこまで言われて、彼女は言われるがままに従い、リリーの前に跪いた。おそるおそる手を翳す。
突き出したお腹に触れる前から、まるでリリーの身体の線に沿って生命力のような熱気が流れているかのように、温もりが伝わってきた。手を当てて、手のひらの感覚にじっと集中する。内側から響いてきた、その、小さな振動は、火花が散ったみたいに一瞬で、でも想像していた以上に力強かった。
「え、ちょっと」慌てたように、リリーが声があげた。

「急に、どうしたの。なんで……」

なにを言っているのか、すぐにはわからなかった。頬を濡らすそれを自覚して、遅れて自分自身に戸惑う。言われるまで気づかなかったことに、驚きもした。
「え、あれ」心配そうに見下ろしてくるリリーの視線を避けるように、慌てて頬を拭う。「びっくりした、ごめん、どうしたんだろう」
ふと目の前に、綺麗に折り畳まれたハンカチが差し出された。洗剤だろうか、花畑にいるような、とてもいい匂いが包み込んでくるみたいに広がる。「……つらい?」
短い問いかけに、胸の奥が掴まれる。

つらくない日はない。ダンブルドアが太陽の輝きなら、自分たちがしていることは、一本のろうそくにすぎない。頼りないその火が消えぬように両手で囲み、少しでも大きな炎にして、闇を照らしていくのだ。ひたすら努力を重ねるしかなく、いずれ報われるのか、だれも知らない。そういている間に、伸ばした腕の先から、闇の中に飲まれていく。身体は肌と闇の境界線を知っているはずなのに、私にはもうそれがずっと前からわからない。
ううん、と彼女は首を横に振った。つらくて、悲しくて流すための涙は、とっくに枯れている。

「この子が、あまりにも一生懸命、生きようとしているから」

小さくて、一瞬だったけれど、目が眩むほど眩しい。死んでいく人間も生まれる人間も、同じ命に変わりないのに、そうか、これがムーディさんが言っていたことなのだと思う。
彼女は今度こそ見失わないように、リリーのお腹にもう片方の手も添えて、再び動き出すのを待った。

「きょうは、本当に元気ね」
「きっともうすぐなんだね」
「そうね、きっともうすぐよ」

みんな、あなたを待っているわ。その言葉のとおり、お腹に向かって待ち焦がれるようにして、リリーが囁くように言った。


「問題はそうじゃない」

ムーディさんはしんしんと響くような声を発した。星も月もない夜、不気味に揺らめく闇の印を見上げる目に、見覚えがあった。鏡の中の自分の目とそっくりだ、と彼女は思う。

「問題は、いつまでも希望を持ち続けていられるか、どうか、だ。お前は決して、見失うな」

髑髏の吐き出す蛇が、こちらに向かって舌を伸ばしている。


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