10 壊れた逆転時計

地下牢へ続く螺旋階段を下り、スネイプの執務室に向かう途中で、彼本人の姿を薄暗い廊下で見つけた。授業を終え、自分の部屋に戻るところだろう。リーマスは軽く歩調を速め、その背中に、「スネイプ」と声をかけながら追いつく。わずかに起こった空気の振動を受けて、廊下の火が揺れる。
隣に立つと、スネイプはリーマスのほうにちらりと視線をやった。なにも見なかったかのように、すぐに前に向き直る。

「ちょうどよかった。いま、きみを訪ねにいくところだったんだ」

スネイプが立ち止まる。彼の執務室の前だった。なにも言わずに部屋へ入っていくので、あとに続こうとしたら、リーマスの前で扉は閉められた。
ははは、と笑う。「わかってるよ。まだ、怒っているんだろう」と勝手に扉を開ける。部屋に入ってきたリーマスに、自分の机へ向かおうとしていたスネイプは驚き、顔をあげた。

「きみが煎じてくれた薬に、砂糖を混ぜたこと。でも、あれは最初の一杯だけのことじゃないか」

「馬鹿者」ようやくスネイプが声を発する。「完成された魔法薬に、砂糖みたいなものを入れるなど、言語道断だ。普通に考えれば、薬の効力が消えるとわかる」
「あの薬の苦さ」しかし、言葉では表現ができない、あの味を思い出し、リーマスは顔をしかめた。

「試してみないことには、気が済まなくなったんだよ」
「知らん。薬が気に食わぬのなら、飲まなければいい」
「辛辣だな」
「というか、人の部屋に勝手に入ってくるな。用事があるなら、さっさと済ませろ」

虫でも払うような仕草をし、スネイプが言う。このまま待っていても、椅子を勧められることはなさそうなので、リーマスは素直に話しはじめた。
「代理を頼んでおいて、きみのやり方に口を出すのは申し訳ないけれど、先日の闇の魔術に対する防衛術の授業できみは、人狼を題材にしただろう?」
リーマスの口調は穏やかで、表情もやわらかく、普段と変わりない。「でも、私の授業は、まだ人狼までいってないんだ。羊皮紙二巻きぶんも宿題が出て、生徒が戸惑っていてね」
リーマスもわかっている。スネイプは、だれかにリーマスの正体を見破ってほしくて、自分が休んでいるあいだに、人狼の授業を行ったのだろう。
しかし、自分の授業もあるのに、彼がリーマスの代理を承知してくれていることは事実で、脱狼薬の件でも世話になっている身だ。あまり強く言える立場ではない。できるだけ荒波をたてずに、解決したかった。
スネイプは、笑っているリーマスを見て、心なしか落ち着きがなくなっている。

「だから、レポートを書かなくていいって言ってしまったんだ。了承してもらえるかな」
「好きにしろ」

呆気なく交渉が終了し、リーマスは拍子抜けしてしまった。どちらかというとスネイプは、リーマスと顔を合わしていることのほうが、耐えきれないようだ。

「わかってくれて、助かるよ」

リーマスは、ほっと胸を撫で下ろす。そして、スネイプの部屋を出て行こうとしたときだった。リーマスの手が、ふと止まった。
悪戯を思いついたような笑みを、思わず浮かべていたが、リーマスに背を向けられているスネイプは、それに気づかず、扉を中途半端に開けたまま、しかもなかなか出て行かない同僚に、訝そうに眉を寄せた。

「だれかのためにならば、無茶をするところ、変わっていないみたいだね」

話が飲み込めず、スネイプは不機嫌そうに片眉を持ち上げる。「彼女の話だよ」と言うと、彼の中で一本の糸が、ぴん、と張りつめるのが、わかった。「貴様と世間話をするつもりはない」

「彼女が危ない目に遭うのは、嫌かい?」
「我輩は忙しいのだ」スネイプは、リーマスのせりふを掻き消すかのように、すぐに言った。そんなスネイプの反応が、リーマスを満足させる。
「でも、あまり冷たく当たらないでほしい。きみが思っているほどに、彼女は打たれ強いわけじゃないんだ」
「貴様には関係ない」
「そうかな。彼女の友人として、お願いしているんだよ」
「あれは我輩のものだ」

糸が、ついに切れたかのように、スネイプの口調に感情がこもった。「どうしようと、我輩の勝手だ」

男がふたりきりの部屋に、沈黙が流れる。
蜂の巣を悪戯につついている自覚はあったリーマスだが、飛び出してきたスネイプのせりふは、予想外なものだった。
難解な数式を前にしたときと同じだ。どこから、どうやって理解すればいいのかわからず、頭が思考停止する。すぐには反応できなかった。
スネイプがふと、素に戻る。「いや、待て」とひとりで焦りだしている。
だが、時はすでに、熱した鉄を素肌に押しつけたかのように、スネイプの言葉がリーマスの耳に焼きついたあとだ。
「そうか」とリーマスは明るい笑みを浮かべる。スネイプがびく、と反応した。

「そうか、それなら、まぁ、いいんだ 。なら、今度こそ失礼するよ」

部屋を出ていこうとするリーマスに遅れて、スネイプは慌てた様子で椅子から立ち上がる。「待て、ルーピン」と机に両手をつき、脅すような低い声で言った。

「いまのは忘れろ」
「やぁ、できるかな。ちょっと、びっくりしたし」
「よし」スネイプが杖を抜く。リーマスに杖先を向けている。
「忘却術をかけてやるから、そこに直れ」
「やだな、大丈夫だよ。言わないよ、ほんとに」
「その顔は絶対に、言うだろうが」

スネイプが、いつ呪文をかけてきても避けられるように、部屋を出て、扉の影に身体の半分を隠す。

「さっきの話を約束してくれるなら、言わないよ」
「さっきの話?」
「きみは本当は、彼女に優しくできるだろ?」

スネイプの険しかった表情が、ほんの一瞬だけ、変わった。リーマスは、お、と思う。
スネイプはあきらかに動揺していた。図星を指された者の反応だ。

「それじゃあ、邪魔してすまなかったね」

その隙に、リーマスは扉を閉めた。中から、「待て」と言う声が聞こえた気がしたが、スネイプの部屋を離れる。廊下を引き返す。引き返しながら、しかし首を傾げるのだった。

スネイプの彼女に対する、あからさまな態度は、いったいなんなのだろう。

「きみたちは、あんなに仲がよかったくせに」

当時、いつの間にか一緒にいる彼女とスネイプを見かけることは、一度や二度ではなかった。それがある日を境に、ふたりはちらりとも目も合わさなくなったのだ。
それは、シリウスのせいで、スネイプを襲いかけた、「あの事件」のせいだろうか。だが、スネイプは「あの事件」以来、リーマスのことを憎んでいるが、彼女のことは、憎んでいるというよりも、どこか恐れている様子だ。きつい態度も、それを隠すためのように思える。

「我輩のもの、か」

そこで、リーマスは両腕を伸ばした。それにしても、足取りが軽くなっている。思いきって訪ねにきてよかった。
自分ばかり他人に弱味を握られるのは、なんとなく性に合わないのだ。


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