02 新任の先生

彼女は身体を起こし、ベッドにもたれていた。膝の上の両手は、拳を握っている。カーテンの隙間から差し込む明るい陽射しが、その両手をやけに白く照らしていた。
そのせいか、陽の当たらない彼女の上半身が、よけいに影に沈んでいくようにも見えた。

「シリウスが…」

ベッドのふちに腰をかけ、ダンブルドアは腕を伸ばすと、彼女の手に自分の手を重ねた。「お主は目を覚ましたばかりじゃ。この続きは、明日じゃ。必ず話そう。いまは横になって、休みなさい」
「じゅうぶんに、休みました」
彼女は怒ったような声を出す。茫然自失に陥りかけている自分を、無理やり、鼓舞しているようでもあった。

「教えてください、先生。私が眠っているあいだに、なにがあったのか。いま、みんなは、どこにいますか」

一瞬でも揺れまいとする眼差しが、ダンブルドアを見据えた。
いまの彼女に、この現実は惨すぎる、とわかっていたが、ダンブルドアは彼女に話すほかなかった。強くあろうとした彼女の表情が、悲痛に歪んでいくのを知りながら。
伏せられた、黒い瞳。しだいに焦点を失い、霞みがかり、暗く淀んだまま、動かなくなる。
過ぎ去った出来事について、話を聞くことしかできない彼女のように、ダンブルドアもまた、静かに壊れていく心を、見ていることしかできなかった。





夜が明けても、外は暗かった。
彼女はザァザァと勢いよく降る雨の音で、目を覚ます。早速、支度を済ませると、部屋を出た。
新学期に向けて、しもべ妖精が校内を清掃しているはずだが、湿った埃のような匂いが鼻についた。廊下の壁に設置されている、松明の火が妙に明るい。雨の日はいつもそうだ。見慣れているはずの校舎が、どこかよそよそしく見える。
四階で、動く階段がタイミングよく繋がらず、踊り場で足止めを食っていると、「雨は参りますな」という声がした。頭に髪がないかわりに、というわけでもないだろうが、口ひげをたっぷりと生やした紳士の肖像画が、顔をしかめている。それは、雨が降るとなんとなく気が滅入ってしまうからなのか、湿気が彼らのキャンバスにとってよくない影響を与えるためなのか、彼女にはわからなかった。

校長室の部屋の前に立ち、二回、扉を叩く。中から「どうぞ」と声がして、同時に目の前の扉が、彼女を招き入れるように開いた。部屋の奥からダンブルドアが、「ご苦労さま」と言葉をかけてくれる。

「変わったことは、とくにありませんでした」

彼女はダンブルドアに報告した。「ハリーはシリウスの件に…」そこで迷いがよぎり、「ブラックの件に」と言い直した。ダンブルドアの表情は変わらない。
「ブラックの件に、興味を持っていますが、あれだけ新聞に取り上げられていたら、ふつうだと思います。アズカバンを脱獄した囚人の目的が、まさか自分にあるとは、気づいていないようでした。時間の問題、とは思いますが」
「突然、呼び出して、申し訳ないと思っておる」
「いいえ、予定もありませんでしたから」

ダンブルドアから手紙が届いたのは、休暇を半分も過ぎたころだった。いまから漏れ鍋に向かい、新学期がはじまるまで、残りの日数をそこで過ごすように、と指示があった。知っている顔を見かけると思うので、彼のそばにいれば、なにもしなくてよい、と。
手紙を受け取ったときは、意味がわからなかったが、漏れ鍋の食堂で、ハリーに声をかけられ、それでダンブルドアの目的がわかった。

「でも、ブラックはロンドンに現れませんでした」

彼女は顔をあげた。「やってくるなら、ここでしょう」
相変わらず、外は雨が降っている。風も出てきたのか、窓硝子を激しく打ち鳴らしていた。この調子なら、夜はちょっとした嵐になっているかもしれない。

「ホグワーツの周りに、吸魂鬼がいました」
「さよう。苦渋の選択じゃ」

ダンブルドアは、憂鬱そうな表情を浮かべた。
少なくとも数十体の吸魂鬼が、闇に紛れて外にいる。おかげで彼女は、ホグワーツに戻ってから、気分が晴れない。
吸魂鬼は、眠れぬ夜を思い出させる。ベッドのなかで、目を閉じ、睡魔の訪れを待っているが、暗闇に耐えかね、思わずまばたきを繰り返してしまう。夜明けはなかなかやってこない。永遠にやってこない気さえする。
ひとりで耐えねばならない孤独感に、追い詰められていく。

「大丈夫かい?」

ダンブルドアの半月めがねに、暖炉の炎がうっすらと映り、ちらちらと揺れている。
「はい」と彼女は答えるが、それはその場しのぎの返事にすぎなかった。
シリウスが、ここに現れる。
ずっと考えている。新聞の写真は白黒だ。年を取り、痩せ衰えたせいで頬の肉が削げ落ち、ずいぶん髪が伸びていた。昔とはまるで別人だったが、一目見れば、シリウスだとすぐにわかった。
シリウスが、ジェームズとリリーを裏切り、ピーターを殺した男が、本当にハリーの命をも狙って、ホグワーツに現れたら、もし目の前に現れたりしたら、私はいったい、どうするだろう。
ハリーを守れるだろうか。もう二度と握れないと思っていた杖を、シリウスに向けられるだろうか。
わからなかった。どんなに考えてみても、答えが出てこない。
ふいに、部屋の隅に追いやられている、暗い影が目に入った。暖炉の炎が絶えず形を変えるのに合わせて、影も不安げに揺れている。黒い生き物が、そこにうずくまっているようにも見えた。こちらの様子をじっと窺い、襲いかかるタイミングを、見計らっているようだ。あるいは、より効果的に、擦り寄ってくるタイミングを。
そのとき、彼女は、腹部を鋭利なもので刺されたような感覚に襲われた。突発的に胃が、悲鳴をあげる。おいおい、あんた、しっかりしろよ、と内臓から叱責を受けているようだ。
答えがでない。むしろ、それが答えではないか。
漏れ鍋でハリーに出会ったとき、彼と一緒にいれば、シリウスに会えるのではないか。チャンスだと思わなかったわけではない。





「そんな話は、信じられません」

ダンブルドアが話し終わったあと、彼女はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと言った。「シリウスがジェームズを裏切る、なんて」
そう信じたい気持ちは、ダンブルドアにもわかった。

「ダンブルドアも、本当は、そう思っているんでしょう?」

彼女を、このままひとりにしてはいけない、と思ってはいた。
ダンブルドアが知るかぎり、彼女はあの日以来、人前で決して涙を流さなかった。誰にも慰めることを許さなかった。
傷ついた心を闇の中に隠しているうちに、その傷口は汚染され、侵食されていく。本人も気がつかないだけで、蝕まれていくのではないだろうか。
それでも、とダンブルドアはいつも思い直すのだ。彼女は、彼女に差し出されたこの手を、掴んだではないか。





ダンブルドアの顔を覗き込むようにして、彼女が訊ねた。
「そろそろ教えてください」
「うむ、なにをかな」ダンブルドアは笑顔で応える。
「闇の魔術に対する防衛術の、新しい先生について、です」
「おお、そうじゃ。お主には、この日まで、お楽しみじゃったの」
「名前さえ知らされていません」

闇の魔術に対する防衛術の新しい先生は、ついに見つからなかったのではないか、と心配になる。ダンブルドアがくすくす笑っている。

「先生の姿は、まだ見えていないようですが」
「教職員用の汽車に間に合わなかったので、いま生徒たちと一緒に、向かっているそうじゃ」
「忙しい方なんですね」

ダンブルドアは、これからその名前を口にする。
彼の登場が、彼女の心を救済してくれるのではないか、という期待が込められていた。

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