01 漏れ鍋

ハリーは、壁に掛かっている鏡の前に立ち、そこに映る自分の癖毛を睨んだ。撫でつけても、撫でつけても、不屈の精神で跳ね返ってくるのだ。普段は半ば諦めて頓着しないが、最近は、なんとなく、この髪質がいやに気になる。寝癖のように跳ねた毛先が、少しでもマシにならないか、あるいは少しでもマシに見せるには、どうすればよいか、と躍起になっていた。
漏れ鍋の主人に相談して借りてきた整髪剤では、歯が立たず、前髪すら、ハリーの額の傷痕を隠そうとしなかった。
「あんまり意味がないみたい」と背後から声がした。
部屋の入口に、壁にもたれて彼女が立っていた。驚いているハリーを見て、「ノックはしたよ」と無罪を強調するかのように両手を持ちあげる。
ホグワーツで見る、いつものシャツブラウスではなく、私服らしい長袖のパーカーを羽織っている。
見慣れない格好は、いまだにハリーを少しだけ緊張させた。彼女の素顔を見たような、私生活を覗いている気分だった。
「もちろん」ハリーは、なんでもなかったかのように振舞う。彼女がノックもなしに、部屋に入ってくるわけがない。

「宿題は終わった?」

机の上に広げたままの、教科書と羊皮紙に目がいった。いつの間にか鏡の前にいたので、今朝から進んでいない。

「小鬼戦争のところで行き詰まってるんだ」
「魔法史」
「うん」
「昼食は?」
「え」一瞬、教科の名前かと思い、逡巡する。「ま、まだ」
「下で待ってるよ」
「あ、ちょっと待って」

室内を見渡し、部屋の鍵を探す。番号が彫られたプレートつきの鍵を持ち、部屋を出る前にもう一度だけ、鏡を見ると、そこに映るハリーの髪はやはりくしゃくしゃのままだったが、顔があからさまにうれしそうだった。
施錠し、隣の、つまり彼女が泊まっている部屋の前を通りすぎて、廊下を抜ける。食堂に下りる階段で追いついた。
「そういえば、あの箒の値段がわかったよ」一段先をいく彼女が、前を見たまま言う。「知りたがっていたでしょう」
「ファイアボルトのこと?」
ハリーはすぐに、レース用に開発されたという、流れるような美しい箒のフォルムを思い出せた。
「新聞に広告が出てた」そこで彼女が箒の値段を口にしようとしたので、ハリーは怯え、慌てて制止した。

「もし買える値段だったら、本当に欲しくなっちゃうから」
「でも、すごく高いよ」

グリンゴッツ銀行の地下で眠っている、金貨の山が思い出される。それから、父と母のことを思った。
父さんと母さんが遺してくれたお金を、おまえは何に使うつもりなんだ、ハリー。箒なら、もう持ってるじゃないか。
そう自分に言い聞かせてやっと、「やめておくよ」と口にする。
苦悶しているハリーを見て、彼女が苦笑を浮かべていた。

「たかが箒に理解できないって、思ってるでしょ?」
「よくわかったね。少しだけね」

世界最速の箒にも、ちっとも興味がない彼女は、実はクィディッチのルールも正確に知らないのではないか、とハリーは疑っていた。本人曰く、「乗って飛べたら、なんでもいいんじゃない」らしい。
しかし、先日、ハリーが、自分の部屋でニンバス2000の手入れしていたときのことだ。彼女は少し離れた場所に座って、作業に集中しているハリーを黙って眺めているのだった。
「見ていて、楽しい?」
椅子のひじ掛けにもたれていた彼女は、ハリーの声に我に返ったのか、はっとしていた。
「楽しいよ。その箒を大切にしているのが、伝わってくる」
心地よい眠りにつく直前のような、穏やかな表情が印象的だった。

漏れ鍋の裏庭に出て、煉瓦のアーチをくぐり、それからダイアゴン横丁に入る。大通りは買い物客で賑わっていたが、前へ進むたびにすれ違うひとを避けて身体の向きを変えるほど、混雑しているわけでもなかった。
「だいぶ人が多くなってきたね」
「新学期が近いから」
通りにまで売り物の鍋が溢れている店の前を通りすぎながら、彼女が唐突に訊いた。「宿屋暮らしは慣れた?」
「むしろ、最高だよ」それは、ハリーの本心から出た感想だった。ダーズリー家と比べたら、どこだって最高だよ。
マージおばさんを風船のように膨らませ、空に放った挙げ句、家出してきたのは、ついこのあいだのことだが、もうずっと遠い過去の出来事のようにも思えた。両親を侮辱されるのはどうしても我慢できず、ハリーは自分は悪くないと信じていたが、ホグワーツの外で魔法を行使した以上、学校を退学になるに違いないと思っていた。
それが、どうだろう。退学になるどころか、残りの夏休みをダーズリー家から解放されて過ごし、陽が当たらないテラス席でダイアゴン横町を眺めながら、彼女と一緒に昼食をとる自分がいる。
電話番号なんて必要なかったのだ。

「でも、君が漏れ鍋にいたときは、驚いたよ」

食堂で見覚えのある後ろ姿を見つけたのは、ハリーが夜の騎士バスで漏れ鍋に到着した、翌朝のことだった。「あ!」とつい大きな声が出てしまい、珈琲を飲んでいた彼女と、ほかの客まで驚かせた。それから、同じテーブルで朝食を済ませた。ハリーと同じく新学期まで漏れ鍋に宿泊していると知り、さらに隣の部屋だとわかり、いまでは暇さえあれば宿題を見てもらっている。
休暇のあいだも彼女がこちらで暮らしていることは以前、ハーマイオニーから聞いて知っていたし、一年のほとんどをホグワーツ魔法魔術学校で過ごすなら宿屋暮らしのほうがなにかと便利なのだろう、とハリーは思ったものだった。

昼食を終えて、ハリーはバニラアイスをのせた分厚いワッフルを頼む。彼女は砂糖もミルクも混ぜない珈琲を、好んで飲んでいた。「朝もあんなに食べたのに、それだけ食べてたら、身長も伸びるよね」と成長期の食欲を目の当たりにし、感心している。このままいけば自分が彼女の身長を越すのも時間の問題だ、とハリーは密かに思っている。
そこでふと、彼女が読んでいる日刊預言者新聞の写真が、目についた。
「ブラックだ」
「これ? そうだけど、いつも飲んでるやつだよ」彼女が、反対の手に持っていたカップを持ち上げる。
ハリーは新聞を指差した。騎士バスで、車掌が読んでいた新聞に載っていたのと同じ写真だ。
「シリウス・ブラック。脱獄したニュースが、マグルのテレビでも流れてた」
ヴォルデモートの忠実な子分。十二年前、たったひとつの呪文で、十三人も殺した。書いてあることはあまり代わり映えがない。ハリーはつづきを読んだ。

「アズカバンを脱獄したブラックを、目撃したひとがいるんだって」
「怖いね」

写真を一瞥するわけでもなく、顔も上げずに、胃が荒れそうな珈琲を口元に運ぶ。 彼女の口調は他人事のようだった。

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