00 蜃気楼

町の広場を眺めていた彼女の足元に、子ども用のゴムボールが転がってきた。よく汚れたそれを拾い上げる。ボールを追いかけてきた少年は、彼女に気づいたとたん、足を止めた。見かけない顔立ちに、戸惑っているようだった。
ボールを差し出す。少年は遠慮がちに受け取り、礼のような言葉を短く発音すると、快活な足取りで仲間のもとへ戻っていった。
快晴だった。珍しく、空は、雲ひとつない。
町の中心部に位置する広場は、活気で溢れていた。焼きたてのパンの匂い。市場の果物や花が、鮮やかな彩りを揃えている。それらを売り買いする人たち。談笑している婦人たち。父親に手を引かれていく、子ども。広場は眩しい日差しで包まれていた。
すっかり見とれていた彼女は、本来の目的を思い出し、再び歩きだした。広場に入ってきたときより、歩調が慌てる。骨董屋の前で、ゼンマイ式の柱時計が目についたが、あの時計が正しければ約束の時間をすでに二十五分も過ぎているのだ。
行き交う人々の合間を縫い、広場の奥を目指す。水の音が聞こえはじめて、白い大理石の噴水が見えてくる。ライオンの彫像の前で、人並みからひとつぶん突き出た黒い髪の頭はすぐに見つけることができた。鳶色の髪をもつ青年と、一緒に話をしているようだ。先に彼女に気づいたリーマスの口元には、なにかを言う前から、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「ごめん」はやる気持ちを抑えるようにして、ふたりに声をかける。
「遅い」
振り返ったシリウスが、子どものような口振りで唇を尖らせた。

「これでも急いできたんだけど」

ふたりに会えてうれしかったが、ふと物足りなさを感じて、周りを見渡す。それを察したかのようにリーマスが、「ピーターはきょう、ほかに用があるから来られないんだって」と教えてくれた。
「早く行こうぜ」散歩をねだる犬のように、シリウスはうずうずしている。
「そんなに急がなくても、赤ん坊は逃げないでしょう」
彼女の表情が明るくなる。「でも、すごく楽しみだよ。私、赤ちゃんって、はじめて見るかもしれない」
一人っ子で、生まれ育った村は、年寄りしかいないような田舎だ。この二十数年、赤ん坊とは無縁な生活してきたのだ。
「おまえが想像している、十倍はかわいいと思ったほうがいいよ」
シリウスが訳知り顔で言ってくるので、大袈裟だな、とリーマスと笑った。

しかし、リリーとジェームズに通された部屋のベビーベットで眠っていた赤ん坊は、控えめに言っても、まるで天使のようだった。彼女は反省した。シリウスの言うとおりだったからだ。
「かわいい」
信じられないくらい、かわいい。それになんて小さいのだろう。自然と小声になってしまう。男の子だそうだ。生えはじめた細い髪は黒くて、なんだか好き勝手な方向に跳ようと、いまから目論んでいるようだった。これには笑わずにいられなかった。

「どちらかというと、ジェームズに似そうだね」
「こう見えて、この子は、私の遺伝子もちゃんと受け継いでいるのよ」
「目を覚ましたらわかるよ」

ジェームズが手を伸ばして、寝ている息子の頭をいとおしそうに撫ぜた。「やっと彼女が会いにきてくれたぞ」
「あなただけが、なかなかこの子に会いにこないものだから、このひとったら拗ねてたのよ」
「代わりに、俺が会いにきてるじゃないか」
シリウスが赤ん坊から目を離し、顔をあげて言うが、「きみは入り浸りすぎなんだって」とリーマスに言われている。学生のころと変わらない、そんなやりとりを見て、彼女にも思わず笑顔がこぼれる。
ベビーベットの周りに男三人が集まって、なんだか少しむさ苦しいことになっていたが、そのあいだに、リリーが心配そうな声で、「仕事は、忙しいの?」と彼女にそっと訊ねた。

「ちょっとだけね」
「顔色がよくない気がするわ」
「そうかな」

自分の頬を手で押さえる。そのとき、赤ん坊がいるほうから、あ、と誰かが声をあげた。続けて、変な声が聞こえてきた。
「あら、起こしたわね」リリーが悪戯を咎めるように言う。「泣いちゃったの?」
「大丈夫だよ。よしよし」
ジェームズに抱えられた赤ん坊の頬は紅潮し、不安そうに揺れる瞳が、涙で濡れていた。彼女は目を覚ました赤ん坊に見入って、しばし言葉を失った。きれいな翠色をした目だけは、瞳の色も形も、リリーにそっくりだったのだ。

「起きたら人がいっぱいいて、びっくりしちゃったのかもしれない」

赤ん坊をあやす丁寧な仕草が、同い年とは思えないくらい、本物の父親のようだ。
「すっかりお父さんって感じだね」リーマスが微笑ましそうに言う。どこか寂しげな声音に、彼女もうなづく。
赤ん坊は、思っていたよりも、すぐに泣き止んだ。

「はい、はじめまして」
「え、え?」

ジェームズは突然、泣き止んだばかりの赤ん坊を、彼女のほうに押しつけた。ジェームズの手が赤ん坊から離れ、ずり落ちそうになる身体を、彼女は見よう見真似で抱きかかえた。そのぎこちなさを、一番に笑ったのはジェームズだった。

「壊れたりしないから、大丈夫だよ」
「意外と重いんだね…」
「子どもは重たいものよ」

彼女は知らなかった。命の重さそのものに、似ている気がする。大丈夫だと言うけれど、とてもそんなふうには思えず、やさしくやさしく扱わければすぐに壊れてしまいそうだ。
でも、あったかい。赤ん坊ってあったかいんだ。はじめて知った。
こんなにも弱いのに、他人を安心させるぬくもりだった。

「そろそろ考えてくれたかい、シリウス」

ジェームズが、シリウスを振り向いて言った。
なんの話かとだれに問うでもなく訊ねると、「俺がこの子の名付け親になるんだ」とシリウスは誇らしげに笑った。

「シリウスが」
「後見人だよ。もしも、なにかあったときのために」
「念のためにね」

当のふたりは平然としたものだったが、彼女はなにも言えずに、腕のなかの赤ん坊を見つめた。冷たい風が、どこからともなく吹いてくるようだった。
横からすっと伸びてきた手が、赤ん坊の頭を撫ぜる。リーマスと近くで目が合い、つられるようにして、彼女もなんとか笑みを浮かべた。

「ジェームズに頼まれてから、寝ないで考えてきたんだ」

シリウスには自信があった。
赤ん坊をシリウスに渡し、彼にみんなの注目が集まる。「変な名前をつけたら、容赦しないぞ」とジェームズがからかっている。
彼女は胸のドキドキを感じていた。この瞬間を、この先、ずっと忘れない予感がしたのだ。
シリウスの背後にある壁が、ぐにゃりと歪む。

「もちろんだよ。この子も、きっと気に入る」

もう何度となく、みてきた光景ではないか。
これは夢だ。夢のなかの彼女は、そのことに気づかない。シリウスのつぎの言葉を、楽しみに待っている。
自覚したとたん、引き金になったかのように、目の前の情景がぐらぐらと震え、輪郭が揺れはじめていた。周囲が振動しているのか、自分が目眩を感じているだけなのか、判別がつかないでいるうちに、水に溶けだしていくかのように、目の前の光景から、色が褪せはじめている。日差しが、薄いピンクに塗られた部屋の壁が、ジェームズの癖毛が、リーマスの儚い微笑みが、端から凍てついていく。
リリーの艶やかな赤毛が、となりにいる自分の髪色と同じ色に見えた。

まって。もう少しだけ。
強く念じる。
もう少しだけ、ここにいたい。
ここに……。

思えば思うほど、うしろから見えない力で引っ張られるような感覚とともに、みんなが遠ざかっていく。
このまま、みんなバラバラになってしまう。

私たちはいったい、どこで間違えたのだろう。

「勿体ぶらないで、シリウス」

子どものようにわくわくしているリリーの、先を促す声だけが聞こえた。

「よし。この子の名前はーー」

シリウスの声が、そこで途切れる。
目の前が真っ暗になる直前、彼に抱えられた赤ん坊の視線が、彼女を捉えた。輪の外にいる彼女の存在に唯一気がついたかのように、目が合った気がした。母親にそっくりの瞳。それも暗闇に吸い込まれていく。
彼女が最後に見たのは、視界の端から伸びる、自分の腕だった。




目が覚めると彼女は、あたりの静けさにぞっとした。夜の静寂が胸に圧し掛かってくる。横になったまま、天井に向けて伸ばしていた右腕を、元に戻す。混乱する頭を抱えて、寝返りをうつと、壁にあるカレンダーに視線が勝手に引き寄せられた。
額から、足の先まで、じっとりとした重たい汗で湿っていて、気持ちが悪い。慎重に身体を起こしたつもりだが、吐き出した息が震えた。ベッドから足をおろす。床の冷たさが素足に気持ちいい。
ようやく夢と現実の区別がつき、床に落ちている日刊予言者新聞が目に入った。
最近、アズカバンを脱獄した囚人の写真が、こちらを見つめている。しばらく見つめ返していたが、目をそらし、顔をあげる。
妙に明るいと思ったら、閉め忘れたカーテンのずっと遠くに、月が出ているのだ。今夜は満月らしく、白く丸い月は、夜空にぽっかり開いた穴のようにも見える。
額の汗を袖で拭う。恐らく今夜はもう眠れないだろうことが、彼女には経験でわかる。

「……シリウス」

赤ん坊を抱え、笑っていた顔を思い出そうとするがうまくいかない。そのかわりに、満月のそばで、白い星がひときわ呼吸するように瞬いていた。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -