14 危うい忠誠心

「おはよう、早いんだね」

グレンジャーを見送ったあと、彼女が振り返って言った。「校長室?」
一日の行動範囲がほとんど地下にあるスネイプが、大理石の階段を下りてくるとき、その理由はほとんど限られている。無言で肯定すると、彼女は考え込み、しかしあまり長くそうしているとスネイプが地下牢に戻ってしまうと思ったのか、すぐに、「いま、少し話せる?」と提案してきた。

「話すにしても、こんな場所でとは」
「もうすぐ生徒たちが起きてくるけど、ここならだれにも話を聞かれないし、美味しい珈琲も出てくるから。あと……」
「あと?」
「アンブリッジ先生が絶対に近づかない」

大広間の真下、厨房では、しもべ妖精たちが朝食の支度のため、すでに忙しなく働いていた。生徒全員分の食材を下拵えし、火を噴かせ、調理する音がそこらじゅうから響く。指揮者を失い、やりたい放題に打ち鳴らす金属打楽器たちの演奏を聞いているようで、耳が痛い。騒然とした空間は、ちょっとした戦場のようだ。
ふたりに気づいたしもべ妖精が一匹、近づいてくると、彼女は彼の名前を口にして、挨拶を返した。客に注文を伺うウェイターのように希望の飲みものを訊ねられたが、忙しそうな様子を目の当たりにしてまで彼らの手を煩わせるのは気が引けたため、スネイプは遠慮した。
しもべ妖精が去ったあとで、「彼らの見分けがつくのか」と訊ねる。「全校生徒の名前を覚えるのと比べたら容易いよ」と彼女は不思議そうに言うが、スネイプが驚くのも、あるいは呆れるのも無理はないとわかってもいるのか、苦笑を浮かべてもいた。
作業の邪魔にならぬよう、そもそも奥へ入っていく気になれず、厨房の扉に一番近い壁際で、椅子はここではだれも使わないせいか見当たらなかったので、彼女は立ちながら、しもべ妖精が淹れてくれた珈琲に口をつける。一口飲み込み、ふう、と息を吐く。束の間の休息に思わず漏れた溜め息なのか、珈琲から立ち昇る湯気をただ吹いただけなのか、わからない。

「誘っておいて、おかしいかもしれないけれど、スネイプがついてくるとは思わなかった」
「放っておいてもまた、おまえが地下牢までくると思っていた」
「スネイプに会いに? なんで?」
「アンブリッジが怒っていたからな」
「自分を無視して、休暇前にハリーとウィーズリー兄妹が城から消えたからね」
表向きは、アーサー・ウィーズリーが怪我をしたので、校長が特別にお見舞いに行く許可を与えたことになっている。
嘘ではない。真実に対して言葉足らずではあるが。
「あの夜は大変だった」彼女は軽く肩を落とす。「ハリーたちが“移動キー”で去ったあと、ダンブルドアに言われて急いで自分の部屋に戻ったから、アンブリッジ先生と鉢合わせにならずに済んだけれど、そのあと、呼び出されて」
校長室にいきなり乗り込んできたアンブリッジにも、ダンブルドアは懇切丁寧に説明しただろう。しかし、アンブリッジが納得するわけがなく、ダンブルドアの話を真に受けるはずもない。
それに、だ。怒っている人間は、相手が冷静であればあるほど、余計に腹立だしくなるものだ。自分の憤りを蚊が飛んでいるだけのように扱われ、行き場を失くした怒りの矛先が自分より立場が弱い者、つまり彼女に向くのは、容易に想像がつく。
「ダンブルドアの話は本当なのかって、しつこくて、私は寝ていたのでなにも知りませんっていう顔をし続けるのは苦労したし、寝不足だよ」いつも寝不足そうな顔をしている彼女が言う。
また息を吐く。今度は明らかにため息だ。
「アンブリッジ先生は、カンカンに怒っていたね」
カンカンに、というと、熱しすぎたやかんの如く、顔を真っ赤にして頭の上から蒸気を発している姿を想像するが、一夜明け、大広間に現れたアンブリッジは顔面蒼白だった。ずっと自分が優勢だと思っていたのに、あっという間に出し抜かれ、肝心な部分を煙に巻かれれば、崇高なホグワーツ高等尋問官は面白くない。蔑ろにされ、恥をかかされたと思い、散々地団駄を踏んだのであろう、怒りで吊り上がった目の下の隈や、引き攣った顔の皺をなんとか取り繕おうとして、いつより化粧が濃くなったのではないか。
「ああ」そこでなにかに気づき、彼女が嬉しそうに微笑む。
「やっぱり優しいね、スネイプは」
「なにが」なにがどうなってそうなった? 意図が読めず、にもかかわらず彼女を喜ばせている状況は居心地が悪い。
「心配してくれたの?」
「意味がさっぱりだ」
「アンブリッジ先生に夜中、延々と八つ当たりされて、落ち込んだ私がスネイプに会いにくると思ったんでしょう?」
スネイプの顔を見るのが一番、元気になるからね。
「たぶん、あれかなあ」珈琲も持っている手の中から、人差し指を立て、厨房の天井を差す。何のシミかわからない汚れがいくつも目立ち、清潔とは程遠いし、あまり見たくもなかった。
「昔、スネイプといるときは、いつも空が晴れていたから。晴れの日しか、中庭に出られなかったし、だから、スネイプを見ると、あの青空も一緒に思い出せて、元気になるのかも」
「なら、わざわざ我輩ではなく、はじめから空でもなんでも見ればいいだろうに」
わざわざ空から一番遠い、地下にまでくることはない。
「それはちがうよね」なにがちがうのか、説明しなかったが、彼女は愉快そうだった。

「ダンブルドアはどんな様子だった?」
「様子?」
「さっき話してきたんだよね」

なにを話したのか、訊いているのだろう。とりわけ、今後の展開が気になっているのだと思い、スネイプは、ハリー・ポッターに“閉心術”を習得させるため、個人授業を行うことになった件を話した。
「スネイプが?」彼女が珈琲を口に含んでいなくて、よかった。そんな反応が返ってくる。驚き、スネイプの心境を気遣いつつも、しかし数秒後には、すっかり話を飲み込んだようだった。
ダンブルドアがそう言うならばそうするのがこの世界の正解だ、と彼女は信じている。
そこに理屈は必要ない。忠誠心、というのか。一見、美しく、尊むべきものだろうが、スネイプに言わせれば、あまりにも無防備である。
彼に望まれれば、彼女は、それが自分の命であっても喜んで差し出すのではないか。
そう思うと、スネイプの頭でなにかがチカチカと瞬いた。マグル界の信号機でいう、ちょうど黄色のランプのように、繰り返し点滅し、注意しろ、と警告を発している。いまにもランプが赤色に変わる予感がして、その予兆を見逃したくなくて、目を必死に凝らすような気持ちになる。

「なに」

実際、顔に出ていたのか、スネイプの視線に気づくと、彼女は茶化すような笑みを浮かべ、睨み返してくる。
顔を背ける。ころころと表情が変わる様子になにやら気概まで逸れて、冷たい壁に肩を凭れさせた。

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