08 あくどい罰則

鐘の音が鳴り、スネイプは授業を切りあげた。ホグワーツ入学直後、期待と希望に満ちていた一年生は、ひとり残らず、沈痛な面持ちに変わり果て、みな足早に地下牢の教室を出て行こうとする。
満足感に浸っていると外から、その流れに逆らうようにして、彼女が現れた。
白のシャツブラウスが視界を掠めたときには、スネイプは目の前の、一年生から回収したレポートの束に、意識を移していた。意味もなく持ち上げ、とん、とん、と角を揃える。
揃えながら、すでにビクついている自分を心の中で叱咤する。
「スネイプ、お願い」
「我輩は忙しいので、あとにしろ」
「心が休まるような薬、ない?」彼女が言った。

「それほど激務なのか、アンブリッジの助手とやらは」
彼女は頼んでもいないのに、職業病なのか、授業の後片づけを自然にはじめた。身体を動かして、アンブリッジによって削がれた精神力の回復を試みているようでもあった。
いくつもの金網たわしが、ひとりでに使用済みの鍋を洗い上げ、彼女自身は調合台の上を拭いてまわっている。
「助手だけじゃないよ、私がしていることは」
だれかが調合中に薬を零したのか、妙に力を入れて、同じところを何度かこする。
おかげでスネイプは、手持ち無沙汰になり、彼女の手前、レポートの採点をするしかなかった。最初の一人、二人、と見ていくにつれて、今年も先が思いやられるな、と眉間のしわが深くなる。
「結局、ハグリッドがまだ戻らないから、家畜の世話も、だれかがしないといけないし」
なにかに気づき、彼女が調合台の下に腕を伸ばした。落ちていた予言者新聞を拾い、スネイプに向かって振って見せる。「フィルチさんに、花壇や野菜畑の世話は断られたし、隙を見てやろうと思うんだけど、隙がない」

「我輩の授業で、新聞は使わん」
「生徒のだれかが持ち込んだんじゃない?」

次回の授業で忠告しなければ、と考える。こんなことをわざわざ言わせるなんて、一年生とはいえ、スネイプは頭が痛くなる。
すると、いつの間にか、適当な椅子に腰をおろして、彼女も頭を抱えていた。「アンブリッジ先生の部屋、見たことある? すごいんだから」と怯えている。
スネイプは感心した。アンブリッジはかなり彼女を追い詰めているようだ。
教壇に一番近い調合台を、スネイプは指差した。
「ここがまだだ」
「え、どこ?」彼女が顔をあげ、ふきんを手に立ち上がる。
指先を、今度は壁際の棚に向ける。「あそこに、“安らぎの水薬”がある」
「“安らぎの水薬”って?」彼女は棚のほうに目をくれた。
授業で習ったはずだ、と指摘するのも面倒だった。「不安を鎮める、動揺を和らげる、心地よい眠りを誘う」頭の中の知識を、スネイプは無感情に読み上げた。
「へぇ、よさそう」
「成分が強すぎると、深い眠りに落ち、時にはそのままになる」
それを聞いて、棚に手を伸ばしかけていた彼女が、ぴたりと動かなくなった。「でも、スネイプが調合したんだよね」と努めて楽観的に訊ねてくる。
スネイプは、授業の課題だったことを、正直に告げた。「調合したのは、五年生だ」
「そう……」
悩んだ末、彼女はゆっくりと席に戻った。「やっぱり、やめておくね」
スネイプがそれ以上、強く薦める理由もなかった。

アンブリッジ先生は、本当に、ホグワーツを改革するつもりだと思う、と彼女は言う。さっき拾った新聞を、生徒が座るべき席で広げてすらいる。
いつまでここに居座るつもりだ、ということよりも、彼女の話のほうが、スネイプの興味を引いた。さすが助手をしているだけあって、アンブリッジの動きを察知しているらしい。
「また、教育令を出すつもりなのか」
そもそも、あの女がホグワーツにきたのも、魔法省の教育令のせいだ。
「明日から、アンブリッジ先生は、“ホグワーツ高等尋問官”だって」
聞いたことがない肩書きに、スネイプの片眉が、ぴくりと持ち上がる。

「“高等尋問官”?」
「先生たちの授業が然るべき基準を満たしているかどうか、査察するんだって」
「ほう」スネイプは少し声の調子を変えた。
「我輩の授業を、アンブリッジが審査するのか」
「スネイプだけじゃなくて、みんなね。アンブリッジ先生のために、これからも教育令はどんどん出されると思う、ん? え?」
彼女が突然、新聞を掴み上げた。「スタージスが、アズカバンに収監されたの?」と驚いている。
「書いてあるとおりだ」
「魔法省で、“最高機密の部屋に押し入ろうとして”? 騎士団員は、見張るだけでしょ?」
「我輩が知っていることは、すでに校長に報告済みだ」

彼女はまだ聞きたそうだった。が、すぐに気が変わって、諦めたかのように、すっと眉を下げた。
「アンブリッジ先生のそばにいると、まったく情報が入ってこない」
「そのほうが、嘘をつかなくて済む」
「迂闊に連絡もとれないのは、不便だよ」とスネイプに新聞の一面を向けてきた。
見出しは大きく、“シリウス・ブラック、ロンドンに現る”となっている。
キングス・クロス駅までポッターを見送りに行ったのであろう、その際、黒い犬の姿はルシウス・マルフォイに見られていたのだ。この事態を、重大に受け止める頭がやつにあればいいが、とスネイプは嫌味を口にする。
「だから、言ったのに」彼女がぼやき、「そろそろアンブリッジ先生の授業が終わるから、戻るよ」と立ち上がった。
気づけば、鍋や調合器具は、すでにすべて洗い終わっていた。

「薬はもういいのか」

彼女の背中に声をかける。なぜか、きょとん、という表情でこちらを見てくる。
「もう、もらったから、当分は大丈夫そうだよ」
とはいえ、なにかを渡した覚えはない。勝手に持ち出している様子もない。訝しんでいると、彼女が屈託なく微笑んだ。
スネイプが胸を奥に押しやろうとしている記憶が過ぎり、無理やり細部まで引っ張り出され、暗い地下牢にいるはずなのに、どこまでもまっすぐだった青空が広がる。耳の後ろを、ぞくぞくする震えが走った。
「スネイプの顔を見るのが一番、元気になるからね」
いつの間にか背後に回り込まれて、隙のある脇腹を突かれた思いだった。唾を飲み込み、揺さぶられる感情を取り繕うと、杖で教室の扉を差した。

「出ていけ、いますぐ」
「はい」
「こっちを見るな」
「はい、はい」

足音が遠ざかるのを待って、スネイプが長い息を吐く。
覚悟しろ、と言っていたのは、こういうことなのか? 油断した。スネイプはそのまま身体を、机の上に突っ伏してしまいそうだった。
ちゃんと眉間にしわがあるか、顔が府抜けていないか、確認する。
案の定、耳のあたりが、いつもより熱い。
あの笑顔が、単純にからかっているだけなら、どんなに良いか。こんなに動揺することもないだろう。
とにかくいまは、耐えなければ、と身体を起こした拍子に、ふと壁際の棚が目につく。
“安らぎの水薬”が必要なのは、我輩のほうかもしれない。つぎの授業までの残り時間を確認し、スネイプは平静を取り戻そうとした。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -